統合失調症と言葉
先日登った山の上で、ベンチに仰向けになって青空を見上げると鳥が一羽飛んでいた。
私はその鳥の動きを眼で追っていた。
ヒラリ、クルリ、ツー、ヒラリ。
そのうち気づいた。
「あれ?俺、統合失調症が治ってる?」
そう思った瞬間、私の心は言葉の網に絡め取られ、いつもの脳内で常に独語がある統合失調症の症状へ落ち込んでしまった。
言葉なのだ。
外の世界へ開かれた窓を閉じるものは言葉なのだ。
たしかに私の心は鳥の動きを追っているとき、自由だった。しかし、その自由を自覚し、言語化した瞬間、言葉の牢獄に閉じ込められてしまった。
私は統合失調症を発症して28年経つ、この病気の原因は言葉にあることなど最初からわかっていた。幻聴のほとんどは言葉だ。音楽であることもある。
音、特に言葉、これが外界への窓を閉じる。
他者は窓の外にいる。
窓を開けなければ他者とつながることはない。
しかし、家族や友達など、ある程度長いつきあいをしていると、窓を閉じたまま自分の内側にいる彼ら彼女らのイメージと話をして、それがうまく噛み合ってしまうこともある。しかし、それは本当の対話ではない。
他者との対話では言葉を使う。
それは窓を開けて、外へ向かって語りかけることだと言ったらいいか。
この場合、言葉は逆に外界への窓を開く鍵となっている。
対話には二種類あるとわかる。
窓を開いた対話か、閉じた対話か。
しかし、窓を閉じて内界の他者のイメージに語りかけるのは独語であり対話とは言えない。
私は学問(とくに読書)をすることによって、窓の内側の世界を広げてきた。
書物は言葉でできている。
学問はあらゆるものを言語化する作業だとも言える。
しかし、窓の外には言語化不可能な広大な世界が広がっている。
統合失調症とはその窓を閉じたままにしてしまうものであり、窓を開いたり閉じたり自由にできるようになることが、この病が治るということであると私は思う。