【随想】山メシの美学
山メシは質素なほうがよい。
私は日常的に独りで登っている近場の低山には、いつもカップラーメンとコンビニのおにぎりを持って行く。
全部で五百円程度だ。
カップラーメンを食べるには湯を沸かさねばならない。
それを待つ間、私は周囲の自然に身を委ねながら、おにぎりをひとつ食べる。
湯が沸く時間を待つのもいい。遠くを眺めたり、蝉の声を聞いたり、周囲の木を眺めたり、時間がゆっくりと流れる。
湯が沸いたら、カップラーメンに注いで三分待つ。その間にもうひとつおにぎりを食べる。
おにぎりをひとつ食べ終えた頃に、三分経つ。
私はカップラーメンを食べる。
自然の中に都市部にしかない食べ物を持ってくるのがまた良い。
家で食べるカップラーメンより美味く感じる。
スープも飲み干す。
疲れた体に塩分が染み渡っていく。
なぜ、山メシは質素なほうがいいか。
もちろん贅沢なものでもいい。
しかし、贅沢なものばかり食べていては、質素なものが不味く感じられるかもしれない。
普段の登山で質素なカップラーメンなど食べていれば、カップラーメンを美味く食べることができるし、たまに食べる贅沢なものも美味く食べることができる。
だから、普段の登山で質素なものを食べていた方が、たまにある美食に舌鼓を打つには良いのである。
重要なのはいかに質素なものを美味く食べるかという主体の感受性を磨くことである。
私は登山をするとき、下界のものを振り払うようにして登る。
下品な思考や、テレビの話題など下界のどうでもいいゴミを捨てて山に登る。
そして、山頂やテント場などで、質素な食事と向き合うのだ。
私はアルファ米とツナ缶と味噌汁だけで随分贅沢な気分になれる。安い食事だが、自然の中に身を置いていると、食べられるだけでありがたく思う。
食の美味さとは料理自体の美味さももちろん重要だが、料理を食べる主体の感受性も重要になる。
私は「山メシの美学」という思想を、茶の湯を参考にして考えていきたいと思っている。
茶の湯には、野点という屋外で茶を入れ客人をもてなすものがあるそうだ。山メシも野点に近いものが見いだせるかもしれない。茶の湯は、一期一会を大事にするもてなしの文化である。私は山に独りで登る。そして、独りで食べる。もし誰かと食べるならば山メシの在り方も変わるかもしれない。ただ、同じなのは、食を味わう主体の感受性が高いことが重要であるということだ。誰かと共に行ったがために、下界からテレビの話題などを連れて行くようでは台無しである。煩悩は自我を形成しているとも言えるが、くだらない日常のイメージを自我と勘違いしていることも多いのである。だから、山に登り、下界から少し距離を置くことが大切なのである。
山の中で質素な食事をする、その至福のひとときを演出するのは自分自身である。
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