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頭の良し悪しは遺伝で決まるか環境で決まるか

今回は人間の能力、特に頭の良し悪しを考えたい。

私は特別養護老人ホームで介護の仕事をしている。四十二歳男性だ。偉そうなことを言うかもしれないが、私は地元ではトップの高校を出ていて、四年制の大学を出ている。私の場合、大学名より高校名を言ったほうが地元では頭がいいと言われる。

介護職員は基本的に高学歴ではなく、高卒が多いようだ。では職場で一番学歴の高い私が一番仕事が出来るかというとそうでもない。例えば、介護福祉士という資格を持っていて研修を受けていれば「吸引」という医療行為ができる。これは喉に食べ物を詰まらせた人の口から管を入れて機械で詰まった物を吸い取る行為だ。それをA子という高卒の若い職員はできるが、私は資格を持っているとはいえ、怖くてできない。A子と私とどちらが優秀な職員か。

しかし、A子と以前、話をしたときに、彼女は東西南北がわからないと言った。私は驚いた。太陽が出る方角を東、沈む方角を西と言っても彼女はわからない風だった。どうやって生きているのか、私には理解できなかった。彼女は「だって、学校で教えてくれなかったもん」と言う。学校では教わったはずだ。ということは地図の見方もわからないのだろう。そういう意味では彼女は頭が悪いと言えるだろう。

A子は母親が介護士で、父親は三回変わったと言っていた。それは当然辛かったはずだ。私は両親とも国立大学を出ている教師で離婚などしていない。おそらくA子の母親は大学を出ていない。頭の良さは遺伝で決まるか、育った環境で決まるか?私はA子との比較では環境の違いが明らかだろうと思う。遺伝であるとは考えない。

しかし、A子は仕事ができるからそう思えるのかもしれない。私の職場にはもっと頭が悪く、というか要領が悪く、仕事を上手くこなせない職員がいる。多くの職員からあの子は仕事が出来ない、などと思われているようだ。私もたしかにそうだと思う。そういう職員を見ていると、たしかに頭の良し悪しには遺伝の影響があるのかな?と思ってしまう。しかし、私はそのように考えるたびに不愉快な気持ちになる。その理由はあとで書く。

ところで、私には弟がふたりいて三人兄弟なのだが、真ん中の弟は私と同じ地元でトップの高校を出て国立の大学院まで出ている。下の弟は、勉強が出来なく、絵ばかり上手いので高校は私立の美術デザイン科に進学してその後、美容師になっている。下の弟は兄ふたりの学歴に対してコンプレックスを持っているようだが、私にしてみれば弟の絵の才能は羨ましい限りで、それこそ、生まれ持ったものだと思っている。私は若い頃マンガ家を目指していたが、絵が下手で諦めた。下の弟は、私が中学生のときにマンガを描いて見せ、小学生なのに中学生の私よりあきらかに上手かった。音楽に絶対音感というものがあるように、絵にも「絶対視感」のようなものがあるに違いないと私は思った。

絵の話ではない。勉強に話を戻せば、絵の上手い下の弟は末っ子で甘やかされて育てられた。小学生の私から見てあきらかに兄ふたりとは違う育てられ方をした。例えば、何かが欲しいと言うと、母親はすぐに買ってあげた。私や真ん中の弟が同じように言ったときには「我慢しなさい」と言ったのに。そんな風に甘やかされた下の弟は、算数のドリルをやるときに、後ろに書いてある答えを見て、つまりカンニングして回答を書き、それを母親に見せて、「よくできたわね」と言って褒められて喜んでいた。だから、勉強が出来なかった。

その話を、介護の仕事仲間のB子にしたら、「私も答えを写していた」と言っていた。B子は私が見たところ職場で一番仕事が出来る職員だ。学歴は偏差値のそれほど高くない高校を出ているだけだ。

下の弟は頭が悪いとは、私は思わない。勉強が出来ないだけだ。処世術には長けている。長けているからこそ、ドリルの答えを丸写しして褒められるのだ。処世術に長けているということは現実の問題を解決する術に長けているということになる。私は処世術に長けていないため、四年制の大学を出て四十二歳になっても、まだ小説家を目指すなどと言って結婚もできず、介護職もパートに過ぎない。頭がいいのか悪いのか。だから、同僚の若い職員たちを観察して処世術を学んでいる。
しかし、中には本当に生まれつき頭が悪いのではないかと思われる職員もいる。その職員のことをベテランの職員などは、「あの子は出来ないから」などと平気で言う。私は内心そういう言葉を聞いて「五十歩百歩なのになぁ」などと思ってしまう。

世の中には知的障害者という人たちがいる。私は詳しく知らないからここでは触れないが、知的障害者を見つけるためのIQテストというものがある。私も小学生の頃にこのテストを受けた記憶があるが、たいして良い点は取れなかった。そのとき私より点数が高かった人が私より偏差値の低い学校に進学したりした。これは何を物語っているのだろうか。IQとは生まれつきで決まるのか?

私の父方の祖母はあまり頭のいい人ではなかった。祖父があまりに出来る人だったので、祖母はその自慢ばかりをして一生を終えたような人だ。たしかに母と比べると、食事を作るにも段取りが悪く、母より二倍以上の時間がかかった。でも、算盤を知っていたため、私より計算は速かった。

頭がいいとか悪いとかはいったいどんな基準で言うのだろう?

私はこの稿で、頭がいいということを、要領がいいということと勉強が出来るということとを基準に考えたい。それは遺伝で決まるのか、育った環境で決まるのか。

A子やB子は学歴は低いが要領はいい。遺伝的には大学出の私と差はないように思われる。下の弟もそうだ。弟の場合、同じ両親から生まれているわけだから遺伝的差異ではないのは当然と言える。しかし、A子やB子などよりも仕事の出来ない職員は遺伝的に劣るかもしれないと思えてしまう。私の祖母も同様にだ。

しかし、そのように考えると私は胸がムカついてくる。なぜか。

それは、まず、自分は遺伝的に優れていると思うと、劣っていると思われる人を見下すことになるからだ。それは差別だ。しかも、暗黙の裡に自分より優れた人からの差別を認めることにもなる。

だから、私はこう考える。
人間の能力は、生きた環境で決まる。
「育った」環境ではない。「生きた」環境だ。
「育った」と言うと、良くない家庭環境に育った十代の子に、「どうせ自分は育ちが悪い、だからバカだ。勉強しても無駄なんだ」と考える絶望に近いものを与えてしまう。まだ十代というこれから伸びる可能性の芽を摘むことになる。そして、ただ漫然と生きて大人になったときには、自分の中の光るものを見失っている可能性が高くなる。勉強でも何でもそうだが自分には可能性があると信じて十代二十代で努力した者は、高い場所まで昇ることができる。十代で諦めた者は言うかもしれない。「育ちが違うんだよ」。違う、努力をしたか諦めたかの違いだ。
「でも、人間の能力なんて遺伝で決まるじゃないか」という人がいるかもしれない。
私はこう考える。
「遺伝で決まると考えたほうが得か、生き方によって決まると考えたほうが得か」
どちらのほうが人生にとって希望があるか。

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