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紅さんと兄さんと龍くん

『兄さん』とは紅さんの兄・或さんのことではなく、『兄さん』というあだ名の人物です。シューゲイザーで、同じくシューゲイザーだった眞言さんと共通点があります。眞言さんの歌声、聴いてみたいです。

紅さんと兄さんと龍くん

「龍くん」
 スマホから顔を上げた紅さんが、僕を呼んだ。僕は床磨きのモップの手を止める。
「なんですか」
「来月末兄さんのライブ入ったから、覚えといてね」
「兄さん……」
 僕は一度だけ会った紅さんのお兄さんの顔を思い浮かべる。
 紅さんとは対照的に、真面目で堅物な人だった。多禄丸物産の社長を務めている人だから、社員の生活を守るためにそのような面を強く出しているのだろう。
 しかし、そのお兄さんが、ライブ?
「お兄さん、何の楽器やるんですか」
 僕の言葉に紅さんは何度かまばたきをし、やがて笑い出す。
「『兄さん』って、俺の兄貴のことじゃないよ。あの人ほど楽器が似合わない人はいないよ」
「ですよね……」
「兄さんの話、してなかったっけ?」
 初耳だ。
 僕がそのように言うと、紅さんは僕を呼んでスマホの画面を見せてきた。
 紅さんと並んで、ギターを持った人物が笑っている。紅さんもたいがいに年齢不詳だが、この人物も肌の艶がいい。目許に烏の足跡はあるが、三十代と言えば通る。顔の起伏は薄いものの、ひとつひとつのパーツの形はよく、配置もバランスが取れている。
「これが兄さん。名前をもじって、みんなそう呼んでる」
 紅さんはバンド名と思しい名前を挙げた。
「十年前まで活動してたんだけど、知らない?」
 僕は首をひねった。十五歳の僕のアンテナは感度が悪く、音楽といえば群舞する女性アイドルグループや、メジャーなロックバンドしか聴いていなかった。正直今も似たようなものだ。
 紅さんは三角に折って結んだバンダナの上から頭をかいた。
「まぁ、もう、十年前だしね……そりゃ知らないよね……」
 己の加齢をしみじみと実感しているような声だ。
『兄さん』の過去の音楽活動を僕に理解させるのを諦めたのか、紅さんは『兄さん』との出会いを語った。
「二十五、六年前だな、前の前の兄さんのバンドのPVに、俺が出たんだ」
 紅さんは若い頃モデルをやっていた。そういう仕事も当然あっただろう。
「その頃はそんなに好きな音楽性じゃなかったんだけど、バンド組み直した兄さんにもう一回呼ばれて。俺をイメージした曲を作ったから、またPVに出て欲しいって」
 ふむふむ。
「その曲が、恋人を喪った男が慟哭して、細い糸にすがる曲でさ。びっくりしたよね、俺、眞言のことはほとんど誰にも話してなかったのに」
『兄さん』曰く、紅さんの近影を雑誌で見たところ、そのようなストーリーが見えたとのことだ。スピリチュアルの領域のような気もするが、とにかく紅さんは悲劇的な主人公を演じた。
「その時の俺の気持ちと波長が合って、それ以来何度かライブに呼んでくれたり、プライベートで飲みに行ったりして」
 ある日、『兄さん』はバンドをやめ、アコースティックギターの弾き語りをしたいと言い出した。バンドの音楽性の違いと人間関係の破綻は、その頃には目を覆うありさまとなっていた。
 ちょうどこのカフェ『ファクト・エレクトロ』を開店したばかりの紅さんは、「定期的に、うちでライブやらない?」と誘った。
 以来、二ヶ月か三ヶ月に一度、『兄さん』はカフェでミニライブを開催することになった。
「ライブの時はテーブルを片づけて、椅子を並べ替えるから、結構な重労働になるよ」
「その分、まかないをいっぱい食べられればいいです」
「現金だなぁ」
 紅さんは苦笑してから、感傷的な視線を空中に向けた。
「眞言もね、ギターをやってたんだ。少しだけだけど、オリジナルの曲を作ったり」
「へぇ」
 僕はカウンターの向こうの『祭壇』に視線を遣る。飾られたフレームの中の眞言さんは、相変わらず赤い瞳を細めてにらみつけてくる。確かに、僕よりは楽器が似合いそうだ。
「ここを貸す条件として、眞言の曲をカバーしてもらうことにしたんだ。まぁ兄さんもプロだから、聴ける曲になるようアレンジしてくれて」
 紅さんの鳶色の瞳は、ここではないどこかを見ている。
「初めて聴いた時は、ぼろぼろ泣いたよ。俺だけに聞かせてくれてた曲が聴けたんだから――」
 その時の紅さんの感情は、想像するに余りある。何よりも誰よりも愛した人も蘇ったような感覚になっただろう。
 興味が湧いた。
「その曲、今聴けます?」
 興味を持った僕に気をよくしたのか、紅さんはBluetoothでスピーカーに繋げたスマホを手に取った。
「眞言バージョンと兄さんバージョン、両方聴けるよ。どっちがいい?」
「両方お願いします」
 僕の言葉に、紅さんはにっこりと笑ってスマホを操作した。
 最初は、ぽろぽろと爪弾かれる弦。ゆったりとコードを抑えながら、低く聞き取りづらい声が緩やかに歌う。
 孤独に苛まれていたこと、つらい義務を強いられていたこと、『お前』に出逢って無償の愛情を知ったこと――そんなことたちが、素直な言葉で訥々と語られる。
 最後の和音がかき鳴らされ、僕は拍手した。
「素敵な曲です」
 嘘のない感想に、紅さんは満面の笑顔を見せた。
「んで、こっちが兄さんの」
 ドラムマシンがリズムを刻み、繊細なギターの演奏がコードの上を飛ぶ。『兄さん』の歌声は高く繊細で、低く朴訥な眞言さんのものとは違う。しかし、さすが歌手と言うべきか、眞言さんが感じていた寄る辺のない孤独と寂寥は、より強くわかりやすく表現されていた。最後に訪れた愛と安心感に、僕の心も溶ける。
「……この曲が、生で聴けるんですか」
「眞言のオリジナルは何曲かあるから、絶対にこの曲だとは言えないけど……次か次の次までにはたぶん聴けるよ」
 紅さんの言葉に、僕も笑顔になる。同時に、こんなに正直で素敵な曲を作る眞言さんのことを、また少しだけ理解することができた。
 眞言さんは、紅さんと出逢ったことで幸福になった。たった二十年で――今の僕よりなお若く――旅立つことになったが、紅さんの存在が眞言さんの救いになっていればいい。
 もう一度『祭壇』を見る。この人と会話をしたかったな、という思いは高まった。

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