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夜と惑い

まだくっつく前の紅さんと眞言さんの話です。家から逃げ出した眞言さんを受け容れて暮らすうち、お互いの感情が募ればいいなぁと思っています。

夜の惑い

 連れ込む、と言うと人聞きが悪い。しかし、家を出て頼る先のない眞言くんを泊まらせている現状をどういう言葉で説明すればいいのかもわからない。
 ともあれ眞言くんをベッドで寝かせ、俺がリビングのソファで寝るようになってから何日か経った。
 夜中にふと目が覚めた。時計を見れば三時だ。こんなことはめったにないんだけど……と考える前に、原因がわかった。寝室から漏れ聞こえるうめき声。
 俺はそっとノックしてからドアを開ける。シングルベッドの中で、眞言くんは溺れる者のようにタオルケットにしがみついてもがいていた。明らかに夢見が悪い。起こしていいものかどうか判断ができず、俺はベッドサイドへ寄って顔を隠す前髪をかき上げる。凝固した血液を思わせる、赤みがかった黒い髪の下には、目を閉じていれば存外に可愛らしい顔がある。荒い息と歯ぎしりが痛々しい。肩を揺らしても、容易には覚醒しない。無理に起こすのを諦めて、俺はしばらくその静かな美貌を見下ろしていた。
 暗闇に目が慣れてくると、部屋の様子も眞言くんの顔も少しはっきり見えてくる。白い額に皺が寄っている。それがひどく痛々しくて、俺は条件反射のようにベッドへかがみ、皺をねぎらうように唇を落とした。
 数秒の接吻から顔を上げ、己が何をしたのかを自覚して、頬がいっぺんに熱くなる。
 ……寝ている相手の額にキスなどと。確かに、夢の中でなお苦しんでいる眞言くんはいたわしい。この細腕でよければ、守ってあげたくなる。
 しかしキスは、明らかに一線を超えている。俺は今まで女の子しか性的対象として見ていない。確かに眞言くんの言動に可愛さを見出すこともあるが、それは後輩や年少者へ向ける感情だ。――そのはずだ。
 己のしでかしたことに混乱する俺をよそに、眞言くんは少し落ち着いたようだ。額の皺がなくなり、寝息も少しだけ緩やかになった。
 そのことに安堵し、俺はたった今自分を襲った混乱ごと、心配を思考の隅へと追いやった。これ以上考えを深めて、思いもよらない感情の湧き出るのが怖い。
 己がこんなに臆病な人間だとは思わなかった。こんな俺を知ったら、俺を頼っている眞言くんはどう思うだろう。
 そんな不安ごと首を振って霧散させ、俺は眞言くんの耳許へささやいた。
「おやすみ」
 猫のように喉を鳴らす眞言くんが可愛い。そう思う自分が恐ろしい。
 俺は己の理解しがたい感情ごと閉じ込めるように、寝室のドアを閉じた。なおドアの向こうから聞こえる寝息に波打つ心の動きを無視するのは、予想よりも難しいことだった。

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