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鳳凰堂の意味

昨日書いた
日本仏教は時代に応じた布教|鈴木良実 (note.com)
で書いたメディアの変化という観点を、もう少し考えてみました。私たちは、多くのメディアに恵まれています。そのため、自分で想像する力に頼らず、多くの情報を得るようになりました。

しかし、昔の仏教の布教を考えると、こうしたメディアに頼らずに、色々な苦労を行っています。例えば、阿弥陀如来の浄土信仰では「観無量寿経」という、大事なお経があります。この教えの主要な部分は十六観という瞑想法です。最初は夕陽を見る日想観、次に水を想像する水想観、そして国土、宝樹と進んで極楽浄土を瞑想します。さらに進むと、観音・勢至の両菩薩を従えた、阿弥陀如来の姿を瞑想します。こうした修行を経て、阿弥陀如来の極楽浄土に救われる、と説いています。

しかし、こうして極楽浄土を想像するには、多大な努力が必要です。

そこで、一つの方法は

浄土の絵を描く

ことです。しかしながら奈良時代などには、絵を印刷する技術もなければ、紙も貴重品です。そこで、布に描いたのが

当麻曼荼羅

です。こうした絵を見せて、布教した、当時の苦労がしのばれるでしょう。

さてこの文脈で、平等院鳳凰堂について、少し考えてみましょう。

マイクロソフトのCopilotに「平等院鳳凰堂はなぜ造られたのでしょう」と聞くと以下の答えが返ります。

〈Copilotの答え〉

平等院鳳凰堂は、多くの人が10円玉に描かれた建築物として知られています。この美しい建物は、藤原道長の子である藤原頼通によって建てられました。

藤原頼通は、平安時代に生まれ、父である藤原道長の全盛期を築き上げた人物です。彼は摂政として権力を握り、後一条天皇の摂政として活動しました。しかし、天皇に嫁がせることのできる娘がいなかったため、苦肉の策として皇族の嫄子(げんし)を養女に迎え、後朱雀天皇の妃にしました。

頼通は、極楽浄土の世界を表現するために、池の中で翼を広げたような優雅な外観の平等院鳳凰堂を建てました。この建物は、阿弥陀如来像を安置するために作られ、極楽浄土を具体的にイメージする場所となりました

平等院鳳凰堂は、末法思想と呼ばれる考え方に基づいて創建されました。この思想は、釈迦の教えが衰え、世の中が乱れる「末法の時代」が始まるとされており、人々は不安を抱いていました。頼通は、極楽浄土へ行けるように修行をするため、阿弥陀如来像を安置する建物を作りました

平等院鳳凰堂は、美しい外観と極楽浄土をイメージした内部装飾で知られており、日本の歴史と美学を象徴する建物として、多くの人々に愛されています。

〈Cpilot答え終わり〉

確かに、これが教科書的な答えです。しかし、これでは、当時の人にとって、極楽浄土のイメージ作りの、大切さと困難が伝わらないでしょう。今のような、極楽の絵や物語が、容易に入手でき、しかも動画でのメディアでも存在している状況と、当時の違いが伝わるでしょうか?

藤原頼通が、鳳凰堂を見ることで、極楽の状況を

瞑想を使わず見る

手段を得ました。この喜びを私達は、思いやらないといけません。


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