現代版不浄観
仏教の瞑想法の一つに、不浄観があります。不浄観は、小野小町のような美女が死んで、その死体が朽ち果てる姿を見て、無常を観じる修行です。
この修行は、6世紀に説かれた、天台大師の『摩訶止観』などでも詳しく説明されています。なお、当時の状況を考えると、風葬もあり、死体が朽ち果てる姿は、現実に見る情景です。また、現在のように、メディアも発達していませんし、科学的な知識もありません。そこでは、人との出会いも限られています。
さて、この修行には、大きく分けて、二つの道が、あります。
最後は骨も焼き何もなくなる壊法
白骨から更に瞑想を進める不壊法
壊法は
全てが無くなる
ので
悩みもなくなる
と言う発想です。これは、現在の修行としては難しいでしょう。
一方、不壊法は
肉体の無くなった白骨
から
仏の力を観る
方向に進んでいきます。
例えば
美女のお坊さんがお寺で踊る
姿を見たとします。これで
美貌に惑わされないように
白骨が踊っている
姿を観る.つまり、肉体から離れた本質を観るのです。そこで
仏の手のひらで踊る姿を観る
自分で踊るのでもなく
仏に踊らされているのでもなく
自然な踊り
と観れば
私たちが仏を求める力と
仏の力の感応道交を
実感する一つの悟り
といえるでしょう。
今見えている物に惑わされず、その本質を観る。このために
美女の美貌に惑わされず白骨と観る
手法は現在でも通用すると思います。
昔の不浄観についてはこちらで書きました。