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法華経と悟りの関係

皆さんは、法華経に関して、どのような理解があるでしょう。多くの人は

 「南無妙法蓮華経」

と唱えると

 よいことがある

と言うでしょう。

また、法華経をよく読んだ人は

 「大乗仏教の大切なお経で、皆が仏になれると言う教えと
  お釈迦様は、永遠に霊山で法を説いていらっしゃる」

と言う、とてもありがたい教え、のあるお経と言うでしょう。

さて、このように法華経は

 「誰もが仏になる」

と言う『大乗の教え』を説いていますが

 「どうすれば仏になれるの?」
 「仏の智慧はどのようなモノ?」

と言う質問に対して、

 「具体的な答えがない!!」

と不満を持つ人が少なからずいます。

例えば、臨済宗を江戸時代に再興した、白隠禅師は若いときに

 「法華経は譬え話だけで中身なし」

と捨ててしまいます。確かに、法華経の中では、仏の智慧は

 「諸法の実相は、外見・構造等に因縁果報が総て絡み、仏だけが知る」
 「この三界は全て我が有 その中の衆生は総て我が子」 

と言う表現しか見当たりません。これを読んでも

 「どうすれば親の智慧を得るの?」

と言う疑問が出てくるでしょう。

実は、私も同じような感想でした。そこで、天台大師の『摩訶止観』を読むことで

 可能性を開く法華経
 実戦は摩訶止観

と分けて考えていました。

しかし、あるとき

 仏の智慧とは相手に合わせて『応身』の姿を見せる力
 相手に合わせて法を説く『方便』の力

ではないかと気がつきました。すると

 法華経全体が人に合わせて法を説く仏の智慧の実現

と覚ることができました。

 仏の智慧は言葉で書き表せない
 その断片を説法で表す
 子供一人一人に合わせて譬え話を変える
 そうした『方便』を展開する根本の力に覚める

このように考えると

 仏の智慧の実践

です。
私達は

 法華経のように多様な相手に合わせて考える力がある

ことを知り、実行していくべきだと思います。 

白隠禅師も晩年は、法華経を大切にして、色々と教えられています。
こうして、法華経のありがたさを、もう一度見直すべきかと思います。

 


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