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ことば

むすめは3歳4ヶ月。3歳になるまで、わたしのことをママと呼ばなかった。パパとはいう。ママと呼んでもらえなかったのは、さみしかったのも少しあるけど、それよりもことばがあまりに出てこなかったので、どうしようかとばかり考えていた。わたしの接し方がだめだったのか、どういう言葉がけがわかりやすいのか、専門家に相談すべきか。まちがってたとは思わないけど、正解だったともおもわない。もうすぐ3歳を迎えるのに、新しい単語と出会っても口に出そうとせず、増えるのはジェスチャーばっかり。赤ちゃんが歩く頃になると成長とともに自然と出てくるものと思っていたけれど、そうじゃなかった。今となっては、早い遅いかだけで、自分がすきなペースで進んでいってるんだな、と娘の歩みに寄り添う心を持っているけれど、不安と不思議が入り交じって無意識に周りや育児書や一般論と比較して、娘に「ことばを話させたい」とムキになっていた。

いまも世間の3歳よりも、断然話せる言葉は少ないけれど、わたしはなんの心配もしていない。娘が新しい言葉にであうと、一生懸命発音しようとしているところがとにかくかわいい。この前の朝、起きてきて、「K (娘の名前)いっぱいねた!」と言っていて。感動してしまった。それと同時にすこしさみしかった。ずいぶん自分勝手な親だな、って自分でおかしくなってくるけれど、なぜかさみしかった。

1歳半検診のときに、母子手帳に「要観察」と書かれたときの衝撃はわすれられない。
担当の方を悪くいっているのではない。むしろ保健師さんにはわたしと娘のことを気にかけてくださり、感謝している。市の保健センターに3度ほど伺い、その都度、娘の様子や近況、わたしの心境をきいてくださり、子育ては多方からの力を借りることも必要ということも勉強になった。あとは、客観的に見たむすめの育ちを夫と話すことも楽しかった。わたしの子ども時代は、男親が子どもの育ちに興味をしめし、育児に参加することは今よりは少なかったと思う。その世代で育ってきたわたしたちだけれど、いまわたしたちは、横並びで子どもの成長を感じている、楽しんでいる、二人でよろこんでいる、という感覚。この感覚をだいじにしていきたいとなんとなくそのときに思った。てんやわんやの子育ての日々が過ぎて落ち着いた時に、「なんやかんやで乗り切ったこと」「ふたりで娘たちの成長に感動したこと」とか思い出話が尽きないと思う。同じシーンも二人いると感じ方も違っていたりして、そこも面白そう。娘たちにとっても父親が「イベント要員」として記憶に残るのではなく、無意識の中に父親の存在が大きく残っていくような気がする。今回の娘のことばがなかなかでなかったことも、わたしと夫、意見を交わしながら日々を過ごし、だからこそ話し始めたときの感動の共有もできていると思う。

わたしなりにいろいろ悩んでいたのは事実で、話し始めてやっと過去を振り返り、焦らなくてもよかったといえるけれど、そのときは見通しも立たず不安な気持ちもあった。でも、ことばを使わなくても娘の世界は成り立っているし進んでいるし大丈夫だった。親が「自分が子どものためにしてあげられること」を探さなくても大丈夫だった。

今、気づけてよかった。

多分、わたしの狭い視野が少し広がった。

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