見出し画像

本当に大切なものは、失ってはじめて気づくんだ

『ReVdol!』(リブドル) というバーチャルアイドルが活動停止した。突然のことであった。

まず『リブドル』とは何なのかを説明する必要があるだろうが、今の僕にそんな体力はないし、語る資格もない。興味がある方はとりあえず以下のリンクからいろいろと見てもらって、どういうコンテンツだったのかを知っていただきたい。
ただ、ひとつだけ言わせてもらうならば、彼女たちは決して「VTuber」という安易な括りで語られるべき存在ではない、ということだ。

※活動終了以降、さまざまな媒体が削除されることを公式が明言しているので、その場合はご容赦を。閲覧不可になり次第、できる限りウェブアーカイブのリンクに切り換える予定。
※ちなみに、中国版における正式名称は『战斗吧歌姬!』(じゃん どう ばあ ぐう じい) である。

▼公式HP

▼YouTube

▼bilibili


僕が彼女たちを知ることになったのは、ちょうど1年前。きっかけは、まさかのプロモツイートだった。
普段、TLに現れては「この広告に興味がない」を押すだけのデイリーミッションだったプロモツイートに、ただその時だけは目を奪われてしまったのだ。
そこには、こんな動画が載せられていた。


衝撃だった。
ただただ、呆気に取られていた。

確かに、いま観たらモーションが結構カクついていたり、リップシンクが微妙だったり、振付がちょっとダサかったり、そんな印象に見えるかもしれない。
だが当時の僕には、この1本の映像から放たれている、「言語の壁」や「次元の壁」を易々と越えてくるほどの凄まじい “エネルギー” にやられてしまったのだ。

なん、なんだこれは……?
カメラワークから音楽・演出まで、これほどハイクオリティな3DMVを今まで見たことがない……。
それに、なんだこの妙な “実在性” は? めちゃくちゃ “リアル” だ………スゴすぎる………。
一体全体、どんなコンテンツなんだ??

気づいたら、片脚が沼にハマっていた。
そして、3ヶ月かけて僕の身体がこの底なし沼にズブズブと沈んでいくことになる。


まずはHPを見てみた。日中共同のVドルらしい。二次元コンテンツにしては珍しい出自だ。(この “日中共同Vドル” というコンテンツの背景には、実は結構面白そうな話があるのだが、今日はそういった話をしたいわけではないので省く。)

他のMVを観てみた。 全て高品位な3DMVで、母語である中国語以外にも、彼女たちは日本語での歌唱も器用にこなしていた。すごい……。
しかも、楽曲制作にも日本人が多数関わっているため、当然日本のオタクにも親和性が高く、なおかつ楽曲派にも満足できるクオリティの高さだ。

アニメも観てみた (これも当然3Dだ)。世界を救うために歌姫となった彼女たちの成長譚を描く。ごく日本的なストーリーであるが、だからこそ親しみやすく、感情移入もしやすい (中国でのウケが良いかはわからないが……)。

彼女たちは、VTuberのように生配信も行う。そこでは、中の人の動きをリアルタイムにトラッキング (しかもトラッキング性能がありえんほど高い) しながらおしゃべりしたり、ゲームをしたり、「サポーター」(ファンのこと) と交流したり (この双方向性がリブドルの真髄である)、早着替えをしたり (3Dモデルだから秒で終わる) 、あとは歌って踊って、果てには楽器を演奏 (!?) して……。
正直、慄いた。これが中国資本のクオリティなのかと。

そして何よりも、それらの配信映像には、あまりにも強烈な “ナマ感” があった。彼女たちはただ「生身のヒトの動きをトレースした3Dキャラクター」ではなく、「1人のアイドル」として確実に “そこにいる” のだ。
リブドルは、先述したアニメの世界観をベースとしたストーリーコンテンツであるため、日本の生主的なVTuberやVドルの質感とはまた異なるものではあるが、しかし、外見的なクオリティだけで見れば、明らかに日本のソレを軽々と飛び超えていた。

あくまで “その世界のキャラクター” でありながらも、限りなく “リアル” な彼女たちが、“いま、そこにいる” という質感。
これが、これこそが自分が求めていたコンテンツだと思った。


それからはもう、沸き上がる興奮に身を任せて彼女たちを追っていった。
今までにYouTubeで上げられた動画は全て観て、さらには生配信の主戦場であるビリビリ動画に出向き、本国版の配信も観た。彼女たちは、当然中国語でやりとりを行うため、何を話しているかはほぼわからなかったが、画面のテキストをスクショしては翻訳にかけたり、中国語のテンプレをコピペして送ったり、日本から観てることを示すために日本語でもコメントを送った。せっかくならと、ビリビリの会員テストを受け、正式会員にもなった。
WeChatに開設されたミニプログラム (謂わば “ファンクラブ” ) にも参加したし、本国の方でビリビリ配信の有料ライブがあった時には、人生で初めて海外へとお金を落とした。ユーザー参加型で、ストーリー分岐ありという、彼女たちらしい画期的なインタラクティブライブはあまりにも新鮮で、彼女たちが歌って踊ってMCをするという尊さや、マイク越しに息が上がっていることの実在性以上に、自分がいま、世界のデジタルコンテンツの最先端を体感していることに喜びを感じていた。
そして終演後、やっぱり少しは中国語を理解できた方がいいだろうと思い、中国語学習アプリを入れた。(ただ、あまりにもムズすぎて結局は挫折した。ピンインもそうだが、まず発音が覚えられない。大学時代の第二言語に中国語を選択しなかったことを死ぬほど後悔した。)


一方、リブドルを追っていく中で、ちょっとしたネガティブなことにも気づいてしまった。
例えば、彼女たちは配信の中でよくカバー曲を生歌唱したり、コンビネーションダンスを生披露したりするのだが、オリジナル曲に限って歌唱がレコーディング音源だったり (まあこの手の話題はリアルアイドルでも散々議論されてきたわけなのだが……)、ソロ曲披露が丸々収録だったりと、“ナマ感” 重視のコンテンツでそれはどうなんだ?と思ったりはした。ただ、彼女たちの負担を考えれば、全然許容範囲だった。
それ以外にも、過去のほの暗い出来事も知ることとなる。メンバー6人の内、2人の「声」が変わっているということだ。基本的に、リブドルでは「中の人」という概念を明示していなかった (CV表記もない) ため、報告自体も “それとなく” 知らせる程度であったようだ。確かに、過去の動画と比較しても声や所作がかなり違う。しかし、僕がリブドルに出会ったのがキャスト変更後であったこともあり、大して気にすることはなかった。
そう、どちらもこの時点ではほんの些細なことであった。


出会ってから1ヶ月ほどして、リブドルは日本での活動を本格化させた。
このタイミングからYouTubeでの日本語配信が定期的に始まり、さらにFANBOXでは日本版のファンクラブができた。
その頃は (というか、今もだが) 僕自身の金銭面の都合からFANBOXになかなか入ることはできなかったが、彼女たちの配信だけでもと、毎週欠かさずに観ていた。
僕は、彼女たちの健気でちょっと拙い日本語が好きだった。これほど短期間の内に習得し、十分に操っていたことにも驚きだったが、そのまだ不自由な日本語を使って精一杯僕たちを楽しませようとする、その姿が本当に愛おしかった。


そんなある日、彼女たちの新曲のMVが公開された。そのMVは、「ダンス超特訓」という企画での成績順 (と言っても、ほぼ “人気投票” で決まってしまったが) で出演時間が決まっており、その特訓内での共通課題こそが新曲のダンスだったのだ。
今までのMVと比べ演出を簡素にした分、しっかりとダンスにフィーチャーしたつくりとなっており、彼女たちの努力の成果を存分に披露する格好の晴れ舞台となっていた。

しかし、このMVが公開された当日、“とある方” が投稿したツイートが物議を醸した。そこには、彼女たちの新曲MVの「モーションキャプチャーを担当した」といったような文面が載せられていた “らしい”。
“らしい” と言うのは、僕自身はそのツイートを見ていないからだ。けれども、そのツイートを見ずとも、実はその “とある方” のホームページの仕事欄には、今でもそのことが書かれていたりする。
言ってしまえば、あのMVで踊っていたのは “彼女たち” ではなく、“とある方” らしい、ということだった。

この情報を見た僕は愕然とした。もちろん、公式はその後に誤解であると声明を出したが、そんなことは僕にとって何の気休めにもならなかった。なぜなら、彼女たちがVドルである以上、この疑惑に関する確証は絶対に得られないからだ。
たとえ、彼女たちが本当に踊っていたとしても、“とある方” が踊っていたとしても、僕たちには画面の中で3Dキャラが踊っている以上の情報は決して得られない。

確かに、Vドルが増えてきたいまや、“声帯” と “身体” を別人が担当する、所謂「二人羽織」形式のものも存在するが、それはそれぞれで “別人が行っている” という (公式が暗に示す) 前提があってこそ素直に楽しめるものだと僕は認識している。(個人的な例としては、アイマスMRなど。)
しかしながら、リブドルではそういったメタ的な情報は一切出さず、あくまで “一人の人間” として彼女たちを扱っていた。このようなスタンスは、生配信などにおける身体的な視覚・聴覚情報から、コンテンツ全体の企画や思想にまで及ぶ、全ての場面において一貫したポリシーに基づいていたように思う。
しかしながら、この “不注意” によって、公式とサポーターとの間の “信用” だったり、“信頼関係” だったりといったものが霧散してしまったように僕は感じてしまった。

だから、つらかった。僕は今まで彼女たちの動きが全て “彼女たち自身によるもの” として信じて疑わずに見てきた。生配信も、アニメも、歌唱も、MVも。それら全てが “彼女たち唯一のもの” であると。それが、この疑惑で全部吹っ飛んでしまったのだ。

それ以降、僕は彼女たちの活動を素直に見れなくなってしまった。彼女たちに対して邪な見方をしてしまう自分に腹が立ち、後ろめたさでいっぱいになった。それがつらくて、次第に配信を見なくなってしまった。
あの始まりのMVに出会ってから3ヶ月目、僕はリブドルを純粋に楽しめなくなった。


ただ、それでも彼女たちを忘れようとはしなかったし、そもそも忘れることなんてできなかった。それだけ、彼女たちが僕に与えたインパクトというのは大きかった。
だから、新曲のMVが公開されれば一応は観ていたし、いまどんな企画やタイアップをやっているかぐらいは把握していたし、プレイリストには彼女たちの歌がいつも入っていた。
とはいえ、生配信を観るまでの気力はそれ以降も湧かず、初めて日本で開催した2周年記念のワンマンライブも、最後まで悩んで「金がないから」という理由を付けて見送った。いや、“見送ってしまった”。


そんな宙ぶらりんな思いのまま半年以上が過ぎた先日、公式ツイッターから先の情報を知らせるツイートが流れてきた。

事業戦略変更によるIP事業の縮小によって、日本での活動は全停止。それだけではなく、中国においてもプロジェクト自体の活動が停止。そして、「中の人」6人全員が卒業。

直前まで企業タイアップをしていたとはとても思えない、急転直下な出来事。あまりにもショッキングな内容だった。
当然だ、言葉では「活動停止」と謳っているが、事実上の「サービス終了」なのだから。

けど、正直なことを言うと、いつ終わってもおかしくはないと思っていた。そう思わざるをえないほどに「サポーター」が少なかったし、増えていかなかった。
生配信でも、中国の方ではそれなりの同接人数はいたと思うが (と言っても、人気の高いVTuberの配信よりかは少なかった)、特に日本での配信は数百人規模の同接人数しかいなかった。YouTubeチャンネルに上げられた各動画の視聴回数もだいたい数千回程度で、公式ツイッターのフォロワー数の割には「RT」と「いいね」が少なかった。つまり、アクティブ層はほんの一握りだった。
なぜここまで認知度が伸びなかったのかという話はひとまず置いとくとして、リブドルのような高品質かつワールドワイドな活動をしていく上で、この規模のファン層では素人目で見てもビジネスとして無理があったように思えた。まあ本当に収益上の問題によるものかはわからないし、そもそも今まで何も布教とかしてこなかった “にわか” のお前が何を言ってんだって話だが。(これは言い訳なのだが、リブドルに限らず、僕は “布教する” ということをあまりしたくない人だ。)

そしてなによりも、声明文の中で公式がこれまで一度たりとも (以前の声帯変更時ですら) 使わなかった「中の人」という言葉が書かれていたことに、酷く沈んだ。ああ、これはもう本当に終わるんだな、と。公式が自ら魔法を解いてしまった。


活動停止を知った当の僕は、かなり複雑な心境だった。彼女たちの努力と成長を多少なりとも見てきたからこそ、素直にめちゃくちゃ悲しいし、悔しかった。
けれども、長い間彼女たちから離れてしまった僕が今更悲しんでるのはどうなんだ?という思いがどうしても拭えなかった。
だったら、ここまでの半年間をまずは取り戻そうと、そう考えた。あまりにも不純な動機なのだが、今の僕にはそうするしかなかった。

YouTubeとビリビリに上げられた動画をとにかく観てまわった。生配信のアーカイブも、ちゃんと観た。意外にも、素直に楽しむことができた。時が傷を少しは癒したのかもしれないが、それにしても勿体ないことをしたなと思った。
そして、動画の中の彼女たちを観ていく僕は、だんだんと自責の念にかられていった。どんな企画でも、彼女たちは真剣に、そして生き生きと活動していた。そんな彼女たちの姿をもっとしっかりと見ておくべきだった。
そうなのだ、僕はとても外形的な部分にとらわれすぎていた。そんなものに惑わされず、彼女たちの本質にちゃんと目を向けるべきだった。さすれば、こんな中途半端な結末にはならなかったのだ。
僕はこの半年間の自分の過ちに大いに後悔した。

そんなどんよりとした思いが募っていく中、僕は昨年末のある動画内での歌唱が強く引っかかった。流行りに流行った、あの「炎」のカバーだ。例の作品を履修していない僕にとっては何の思い入れもないのだが、世間の波に押され、いやというほど聴いた (聴かされた) あの曲に、僕は初めてドキリとした。
その詞は、あまりにも今の彼女たちを代弁しているかのようだった。それは、歌にのせる彼女たちの感情にも。そして、歌唱後の感想にも。まるで、今の結末を知っているかのようだった。
いや、さすがにその時には彼女たちにもまだ知る由もなかったはずなのだが、その示唆的な曲のチョイスに、鳥肌が立ってしまった。

そして、彼女たちの最後の生配信。
本国版では、春節祝いとして中国で活躍する多くのVTuberたちとコラボしながらお祭り騒ぎをしていた。
日本版では、仲睦まじく伝言ゲームを楽んだり、今までのソロ曲や全体曲を振り返るように全員で踊ったり (他の子のソロ曲でもみんな踊れることが驚きだった) していた。ただ、配信終了前に欠かさず行っていた告知は無かった。
今このタイミングで観れば、確かに “そういう予感” があったような内容構成ではあるものの、画面の中の彼女たちはいつもと変わらず楽しげな姿を見せていた。この2週間後、突如として活動終了を迎えるような彼女たちには、とてもじゃないが見えなかった。


公式が活動停止を知らせた日、最後の動画として、彼女たちのお別れメッセージがひとりずつ公開された。中国語と日本語の双方で。
先に中国語版を観ておいた。約5分間、それぞれが今までの思い出と感謝を綴っていた。言葉がわからなくとも、声と身振りだけで彼女たちの思いは充分伝わった。
つづいて、日本語版。観ようと思っても、どうしてもためらってしまい、なかなか観ることができなかった。彼女たちが最期の時にどんな言葉を綴ったのか、それがわかってしまうのが怖かった。
意を決して、ひとりずつ観ていった。彼女たちの震える声を聴いていく内に、あの熱中してた頃の出来事がフラッシュバックのように思い起こされた。楽しい思い出ばかりなのに、とても、とてもつらかった。これを全員分聴かなくてはならないのか、なんて拷問なんだと思った。それでも、僕は、僕たちは、彼女たちの残した想いを受け止めていくことしかできないのだ。僕たちの行動や選択でストーリーは変えられても、「最期の刻」だけは変えられないことに無情さを感じた。
そして、彼女たちは決して “泣かなかった”。嗚咽をこらえようとする声や、鼻をすする音が聞こえてても、彼女たちは “泣くことができなかった”。
僕は、その “不完全さ” に感謝してしまった。もし “泣き顔” を見てしまったら、僕はもう本当に立ち直れなくなっていたことだろう。
彼女たちは “綺麗な偶像” のまま、僕たちの前から姿を消した。


僕は、彼女たちの活動をまともに追ってきた人間ではない。彼女たちに熱中していた時間よりも、認知してなかった時間と他界しかけた時間の方が遥かに長いし、ましてや、彼女たちの活動を結局は上辺でしか見れていなかった。そんな奴の言葉に、説得力なんぞ微塵もないかもしれない。
それでも、僕が彼女たちのことをここに書き殴るのは、せめてもの自分勝手な贖罪と、彼女たちが生きていた証を残すためだ。初めの頃から彼女たちを見てきた古参サポーターの言葉の重さには敵わないとわかっていながらも、こうして書いてしまうのは、彼女たちのひたむきな努力と成長と、そして並々ならぬパフォーマンスを知ってもらいたかったからだ。
たぶん、僕は彼女たちに報われて欲しかったのだと思う。でも、それももう遅い。彼女たちのことは、もう過去を振り返ることでしか語れない存在になってしまったのだ。本当に、ほんとうに悔しい……。


彼女たちは今後どうなるのだろうか。全員が辞めるという判断は彼女たち自身による選択であろうが、それは「卒業」という言葉よりも、言ってしまえば「引退」や「退職」といった言葉に近いはずだ。それに、リブドルの特性上、彼女たちは名を一切明かさずに活動してきた。そのため、この2年余りの時間が実績として残るかどうかは微妙だ。(これは、VTuberにおける問題と全く同じだ。)
ただ、彼女たちに備わっているポテンシャルがいかに素晴らしいものであるかということは、僕たちが一番よく知っている。だから、もしかしたら、また別の場所で彼女たちと出会える日が来るんじゃないだろうか。僕は、そんな予感がするのだ。


彼女たちのこの2年余りの活動が、デジタルコンテンツの膨大な歴史の中に刻まれることは、たぶん、ないのかもしれない。
それでも、僕は、僕たちは知っている。『リブドル』という「言語の壁」と「次元の壁」を打ち破った、エポックメイクなバーチャルアイドルのことを。そして、そんな挑戦的なプロジェクトに挑んだ勇敢な “歌姫たち” のことを……。


画像3

画像3

画像3

画像4

彼女たちの生きた証と、ひと足早い春 ──2021.2.23


──
────
───────

P.S.

僕が見逃したリブドルの2ndライブが、3月いっぱいまで、破格でアーカイブ視聴できるようになった。

「終わりであること」は変えられなくても、僕たちの行動と選択次第で「終わり方」ぐらいならまだ変えられるのだと、そう思えた。
なんだかんだ言っても、あの “レンガ運びの少女” は最後の最後まで憎めない奴だった。

彼女たちの勇姿を、その輝きを、しっかりとこの目に何度も焼き付けたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?