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秋分の宵 黄昏の空高く光る星
別件を調べるつもりでいたのが、どうにも春分について書かれていた部分が気になって仕方ない。なんとなく読み流していたそれを、「やはり見ておこうか」…そう思って『儺の國の星』を開く。
目当ては河原星の章後半。
春分の月を“あすかづき”という。一年の日数がつき果てることである。これを春日と書くに至った由来である。〜中略〜 昔は暦書の更新は春分の日をもってした。
秋分の月を“はつかづき”という。陰暦八月葉月の由来である。秋分を年末年始にする氏族があって、水無瀬宮の世(後鳥羽帝)までまだ生きていたと思われる。
ところがそれより先に、直前の一文の方に目がとまった。
河原星が秋分の宵に黄昏の空に高く光る頃は一一〇八年前であった。
真鍋は何を基準に、一一〇八年前等と細かな数字を表記したのか。
調べてみる事にした。
『儺の國の星・拾遺』の初版は昭和六十年三月となっている。執筆した年、あるいはこれより前の秋分を念頭に西暦を調べると一九八四年。引くと八七六年。源融の生年は八二二年。源融五十四歳に該当する。
『源氏物語』夕顔の段は、前半は夏であろうと考えられるが、後半の出だしに「秋になった」と記述している。某の院の庭には忍ぶ草が生えている。忍ぶ草は秋の季語でもある。後半部分の出来事、つまり夕顔を連れ出して亡くなってしまう出来事が秋に起こったことであると、強調するかのように書いてある。
このふたりの著者は、どこまで理解して書いていたのでしょう。
少なくとも、真鍋大覚はそれを読み取った。そしてそれを忍ばせて記した。
私は図らずも、『儺の國の星』の秘密を知った、のかもしれない。
この様なことを考えていれば、六条河原院で宇多上皇が源融の幽霊に会ったという話には、非常に信憑性を感じる。
宇多天皇や在原業平、そして源融。この辺りの方々は、この後の世でも袖すりあって生きていらしたのではないかと、脳内ファンタジーがはじまる。