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エピソード『人生のリスタート』


登場人物

主人公
花咲  七海 (かざき なみ)  

若手起業家
F.ノーマン


事故の翌日、七海は眠れない夜を過ごしていた。
カーテンを開けると東の空が少し明るくなっている。
バルコニーから明けのトワイライトを眺める。

病院で北斗に最後の別れを告げてから数日が経過した。
七海はまだ癒えない心の傷と対峙している。

静かな部屋で一人になると、どうしても考え込んでしまう。
テレビのスイッチを入れ、徐にタバコを咥える。
テレビの内容は全く耳に入ってこない。

部屋には誰にも届かないニュースが淡々と流れていた。

何もする気が起きない。
何も考えられない。

人前では気丈に振る舞う反面、優しさ故に弱い面も持ち合わせている。
淋しさから、衝動的な行動を起こさないとは限らない。
それは七海自身が一番よく解っていた。

前向きに生きなければいけない。

午後になり携帯を手に取り、親友の結惟に電話をかける。
内容はメールで簡単に伝えていた。


結惟とは何でも話せる学生時代からの親友だ。

2人でいると、2人にしか分からない世界観がある。
唯一、仕事の悩み、恋愛の相談も出来る友人である。
気の会う2人は周りを笑わせる事も多かった。


結惟は時には優しく、時には鋭い口調で、自分の意見をはっきりと言うタイプだ。
意見や考え方の違いから言い合う事もあったが、本音でとことん話し合える結惟は、七海にとって本当に大切な親友であった。

結惟と話していると、会話こそが人と人との絆を強固に築く、最大のコミュニケーションツールだと実感する。

会話は文字では伝わりにくい気持ちの抑揚や声のトーンなど、相手の熱量が直接伝わってくる。
それは恋人同士でも同性のやり取りでも同じだ。

いくら甘い言葉を文章で並べても、文字は所詮文字だ。
心への直接的な響きは弱い。

七海が誰かと繋がりたい時に、メールではなく電話を多用するのは、そんな理由からだった。
頻繁に電話でやり取りをする七海と結惟は、揺るぎない強い信頼関係が築かれていた。


七海は会話の中で、

「今夜からお店に出ようと思うんだ」

…と話した。

眠れぬ夜を過ごした事故から、まだ2日しか経っていない。

結惟は七海の心と体を心配して、

「今夜は、まだ休んだ方が良いよ」

と言った。

結惟は説得する様にしばしの休養を勧めた。

七海は、

「そうだね。ありがとう。考えてみる…」

と言って電話を切った。

七海は人一倍責任感の強い女性である。
結惟には考えると言ったが、自分の中では、お店に出る意思に変化はなかった。


どんな事があっても、私にとっては仕事しかなかった。
仕事に打ち込むしかなかった。

そんな日々を過ごした数日後、七海はSNSに現況を発信した。

彼が突然亡くなった事。
お店に出ている事などを綴った。


SNSでは応援や賛同のメッセージも多いが、誹謗中傷も少なからずある。

彼氏が亡くなったのに、休まずに今日もお金儲けですか? 
早速新しい彼氏探しですか?
心無いメッセージが散見された。

七海はショックに陥りながらも、自分の意見を返信する。


彼氏を亡くして悲しくないはずがない。なぜこの様な発想が生まれるのか。
不思議でならなかったが、七海は一つ一つ丁寧に対応した。

無責任に発せられたコメントは、七海の心を容赦なく傷つけるナイフになる。
誹謗中傷に耐えられず、悔しさや悲しさから自らの人生にピリオドを打つ人もいるだろう。


私が仕事をしている姿を、一番応援してくれているのはきっと彼である。
休む事は彼が一番望んでいない事だと信じていた。


結惟は仕事の前に、もう一度七海に電話をかけてきた。
仕事を休むよう説得を試みたが、最後は、

「何を言ってもダメだな。じゃあ行ってこい!」

と受話器の向こうから力強い声で、七海にエールを送った。

七海の決意が固いと察した結惟は、引き留めから一転して最高の応援団になる。

七海は、

「結惟、ありがとう」

と応えて電話を切った。
嬉しくて視界が少し霞んだ。


慣れた手つきで化粧を施し、手早く出かける準備を済ませる。

出かける前に玄関から部屋の奥を見た。

「じゃあ 行ってくるね」

七海はおそらく誰もいないリビングに向かって声をかけ、扉を閉めた。


店に着き、いつも通り開店準備を始める。
最後に鏡の前で髪を整え、プロの顔に変貌した。

お笑いタレントは、身内が亡くなっても舞台やテレビでお笑いを披露する。
スポーツ選手も、家族が亡くなったからといって、試合を休む事はほぼない。

彼女もまた、自分を求めるお客さんがお店に来てくれる以上は、休まずにお店に出るのが当然の使命だと考えていた。
彼女の中には鋼の様に強いプロ意識があった。


そんな人間が見せる共通の認識。
七海を理解してくれる人間は、彼女のお客さんの中にもいた。
いつも七海を贔屓にしてくれているノーマンだ。


ノーマンはドイツの出身。
日本に留学していた大学時代に、外国人専門の人材派遣会社を立ち上げている。

語学のレッスンやイベントコンパニオン。
また外国人を店員に起用したいお店に人材を送るなど、派遣先は多岐に渡っていた。
外国人専門のため需要は多く、順調に規模を拡大していった。


事故から数日が経ったある日、ノーマンが来店した。

いつも通り明るく朗らかに、お酒と会話を愉しむノーマン。
しかし、ふとした瞬間に見せる七海の影の部分を、ノーマンは見抜いていた。

テーブルで二人になった瞬間、ノーマンは真顔になって話を切り替える。
ノーマンは七海が辛い経験をした事を既に知っていた。

「お店に出ても大丈夫なのか?」

七海は急な話の展開に驚いた。
何か見透かされた様な、同時に私の不安定な心の状態を、敏感に察してくれた嬉しさもあった。

心の波長の重なり。
以心伝心の様な言葉で言い表せない何かを、ノーマンが感じ取ってくれたのが嬉しかった。

ノーマンは続ける。

「七海。お店に来てもフロアに出なくても良いから、49日を過ぎるまでは無理をしないほうが良いよ」

七海にとってノーマンは、フレンドリーで兄の様な存在であった。

ノーマンに今の心境を話してみようかな。
素直にそう思えた。

七海は重い口を開いて、
お付き合いしていた彼が事故で亡くなった話。
彼の母親に言われ葬儀も参列できず、彼とは病院でお別れになってしまった事。
大切な人を失ったのに、時間は止まってくれない。
無情にも毎日は訪れる事を話した。

今まで七海のプライベートは客は誰も知らず謎めいていた。
ノーマンは信頼して話してくれる彼女を見て、いま自分に出来る事は何かと考えた。
もちろんお店の客としてではなく、大切な妹の相談に乗る感じで接する。

七海は仕事に打ち込む事で彼を忘れようとしていた。
しかし心は常に疲弊している。
このままでは、私はいつか壊れてしまうかもしれない。
七海自身もそれは自覚していた。

ノーマンは少し思案した後、七海に向かって

「もしよければ温泉でも行かない?」

・・・と誘った。

傷ついた心を癒すには、殺伐とした都会の喧騒を離れ、環境を変える事も一つの手段である。
七海は今の自分にプラスになると正直思った。

久しぶりに温泉でゆっくりとしたいな・・・
七海は少し考えて、彼の誘いを受ける事にした。


数日後。
自宅近くのコンビニで、ノーマンと待ち合わせをした。
少し早めに向かうと、駐車場には運転手付きの彼の車が止まっていた。

ノーマンはラフな格好で、車の傍らに立っていた。

「おまたせ!」

待たせたのは私の方なのに…

「後部座席にどうぞ」


ノーマンは後部座席のドアを開けて、七海をエスコートする。
ドアを閉めると徐ろにコンビニに向かい、アイスカフェオレを買って七海に渡した。

シートベルトを閉め、車が静かに動き出す。
用賀を抜けて首都高から東名に入る。

「どこに行くの?」

飾らない言葉。時にぶっ込んでくる冗談。自信を持った話し方。
七海は安心と信頼感を抱いていた。

七海はノーマンに尋ねた。

車は西に向かって直走る。

七海は一方的に話を続ける。

「熱海? 箱根? もしかして有馬温泉? まさか別府だったりして…」

「東京から車で別府?」

二人は大笑いした。

ノーマンは、

「楽しみにしていて…」

と言って、笑いながら話をはぐらかす。


二人は仕事やプライベートの話題で、車の中でも話が弾んだ。
ノーマンは人を惹きつける話術を持っている。

七海はノーマンと話すことで話術を身につけた。
若干23歳にして、この人から色々なことを吸収する。
ビジネス、接客、交友関係。

良い事も悪いことも、何を言われても聞いた。
本来、人は指摘されると素直に聞き入れられない生き物だ。
七海はお店では聞けないノーマンの話に食いついた。

車内での会話は、ダメ出しのような指摘される内容も多かった。
正直悔し涙も出た。

なぜそこまで私との人間関係が崩れる事を言うのかと感じた。

「なんで私にそんな事を言うの?」

「お前はまだまだだな。人はね、言いにくい事をわざわざ言わないんだよ。価値観が合わないと言えば簡単に逃げられる世の中だ。居心地の良い言葉だけを発する人が、七海の事を本当に大切だと思っている人間なのかい?」

七海は首を傾げた。

「そんなの体裁じゃん。人は上部だけの付き合いの方が、人間関係は上手く行くと思うんだけど…」

「いいかお前。世の中を渡るには体裁も必要だ。でもお前を本当に大切だと思っている人間はそうじゃない。言いにくい事を言うのは、お前の事を本当に大事だと思っているからだ。お前にとって嫌なことでも、きちんと話してくれる人間を大事にしろ」

と言われた。

人は上べで付き合う。
でもノーマンは違う。
ノーマンは七海に変わって欲しいと希望を持っていた。

七海は最初、わざわざ休日に説教されるために時間を割いたのかとふてくされた。

七海はこの時は気づかなかったが、後にノーマンに言われた言葉の意味に気付く事になる。

七海は彼から人間性を学んだ。


安心感からか、少し眠くなってきた。
いつしかウトウトとする七海。

ノーマンはサービスエリアに車を停め、七海の膝にそっとタオルケットをかけてあげる。
全ての疲れから解放され、安心して眠る七海の寝顔を見てノーマンは微笑んだ。

七海の寝息が聞こえる。余程疲れていたのだろう。
連れてきてあげて良かった。
ノーマンは心底そう感じた。


車は箱根ターンパイクを駆け上る。

次に気付くと車は停止していた。

ノーマンが私に声をかける。

「七海 起きてごらん」

七海は薄目を開けた。
ピントが徐々に鮮明になる。

目の前には雄大な富士の裾野が広がっていた。
ターンパイクで有名な、富士山のビュースポットだ。
車から降りて、二人並んで深呼吸をする。
富士山をバックに運転手に撮影してもらい、再び車は走り出す。

車は河口湖畔の老舗温泉旅館に到着した。
ノーマンの会社が、毎年慰安旅行で使う常宿である。

ノーマンはこの旅館のお得意様で、女将さんとも顔馴染みであった。
女将さんに七海を紹介する。

「僕の大切な友人です」

「ようこそいらっしゃいました。どうぞ」


女将さんに案内され、最上階の4階に向かう。
案内されたのは、間接照明に照らされたシックな玄関付きの部屋。
入り口には四神の霊獣である白虎の掛け軸が、力強く睨みを効かせている。

「素敵なお部屋」

七海は自然と呟いた。

玄関を入って左側は20畳はあるかと思われる和室。
調度品が豪華で高価なのは一目で分かった。

真ん中のリビングには50インチのテレビと本革のソファ。
右側の寝室には天蓋付きのベッドがあり、室内にはガラス張りの浴室があった。

室内の浴室は外にも繋がっており、そこには部屋備え付けの露天風呂がある。
露天風呂からは、河口湖越しの富士山が眼前に広がっていた。

ノーマンは、

「何も気にしないで自由に使っていいからね」

と言った。

七海は尋ねた。

「ノーマンは他の部屋に泊まるの?」

「いや、僕は今日帰るよ」

七海は、

「えっ!」

と驚いた。

ノーマンは続けて、

「七海の事は全て女将さんに任せているので、必要な物があれば何でも言って大丈夫だからね」

後で女将さんから聞いたのだが、ノーマンは最上階の部屋全てを貸し切ってくれていた。
七海が誰とも顔を合わせず、開放感に浸りながら自由に1日を過ごせる様に・・・


七海はノーマンの心使いに感謝した。
ノーマンは続けて言った。

「僕は来れないけれど、明日の2時に迎えの車を寄越すね。それまではここでゆっくりと過ごしてね」

ソファで寛ぎながら2人でコーヒーを嗜んだ後、駐車場までノーマンを見送った。

七海はノーマンの車が坂を下り、テールランプが完全に見えなくなるまで・・・いや見えなくなってもしばらくの間、ノーマンが帰った方向をいつまでも目で追い続けた。

七海はノーマンに感謝しながら、最高の眺望と最高の料理を堪能する。
夜の河口湖もまた素晴らしい。

翌朝、七海は富士山を見ながら川口湖畔をゆっくりと散歩した。
なんて素敵な場所だろう。
いつの日か、大事な人とまた訪れたいな。

お昼すぎにノーマンが手配してくれたセンチュリーがやってきた。
ノーマンの専属運転手で七海も顔見知りである。

運転手の西田さんに話しかける

「帰りに忍野八海に行きたいけどダメかな?」

西田は笑顔で返す

「今日は七海さん専用の運転手ですよ。遠慮なくおっしゃって下さい。どこへでもお連れします」

間髪入れずに西田は付け足す。

「もちろん別府でも行きますよ」

河口湖への行きの車内で、七海とノーマンが交わした会話だ。
どうやらノーマンは西田に話したらしい。

2人は声を出して笑った。


忍野八海で1時間ほど時間をもらい、1人で食べ歩きの時間を堪能する。
富士山麓の湧水で作った添加物なしの胡麻豆腐。
富士の湧水も冷たくてとても美味しい。

七海は名物のソフトクリームを2つ買って車に戻る。

「はい、西田さん。今日は私のためにありがとう」

七海はソフトクリームを西田に渡す。
一気に食べ終えた後、今度は西田が富士の湧水で抽出したコーヒーを買ってきた。

「少し休憩したら行きましょうか」

七海は応える。

「はい。東京までお願いします」


数時間後・・・

七海は自宅に戻り、ノーマンにお礼の電話を入れた。

「素敵な休日をありがとう。何かお礼をしなくちゃね」

ノーマンは応える。

「七海の心からの笑顔が、お店で見れるだけで私は満足ですよ。リラックス出来て良かったですね」

最後にもう一度お礼を言い電話を切った。

なんとも忘れられない濃い2日間だった。

後日、ノーマンがお店にやってきた。フロアには七海の笑い声が響いていた。


私の価値観と人間性を変えてくれた事が、ノーマンからの最大のプレゼントだった。

七海はこれ以上ない最高のリフレッシュを終え、翌日から人生のリスタートを切るのだった。



この場を借りて、当時の私を支えて下さった方に感謝の意を表します。

私と出会って下さった皆様が、素晴らしい人生を歩んでいますように…



エピソード『人生のリスタート』 完

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