縁は与えられるものか作るものか

インスタグラムでフォローしている千麻子さん(武者小路千家お家元千宋屋さんの奥様)が、今流行りのバトン投稿をされていた。ご主人から回ってきたお茶碗バトンで紹介されていたのは、そのご主人からプレゼントされたというかわいらしい紅志野のお茶碗だった。

その紹介文でご主人との馴れ初めについて書かれていたのだが、目に留まったのが「ご縁とは自分で作るというより与えられるものだと思う」という一節だった。

なぜ目に留まったかというと、私は縁は自分で作っていくものだと思っていたからだ。私がこちらに来てから得た友人は、自分のコミュニティを広げるために自分の意思で語学学校や茶道教室、夫関係の配偶者向けクラブなどに入ってそこで友達が増えた。なので、自ら動かないと縁ができないのであれば、縁は自分で作っていくものなのでは?思った。だからこそ能動的に動かないとまるっきり新しい土地でご縁に巡り合えるとも思えず、この外出できない状況を非常にもどかしく感じている。

しかしもう一度立ち止まって、本当に自分で縁を作ってきたのか、と考えると、私が求めてきたのは自分のコミュニティの中での人脈であり、ご縁そのものではなかったと気づいた。今仲良くしている友人も、ただ同じ組織に属しているから仲良くしているだけなのかもしれないし、今後も続く仲なのかは誰もわからない。そういう意味で、ご縁があったかどうかわかるのはもっと先になってからなのだろう。

千麻子さんがおっしゃる通り、縁は与えられるもの、と思うと、この状況で仲良くなった友人とも縁遠くなり、そもそも新しい縁もやってこないのではないかという日ごろの不安がふっと軽くなった。ただ海外に来たからといってものすごく深いご縁があるのかどうかもわからないし、自分で追い求めることはせず、自然体でいていいのだろうという気にさせてくれた。さらに言うと、海外生活=新しい友達が増える、増やさなきゃという固定観念に縛られていたことにも気づく。

麻子さんのご出身は存じ上げないが恐らく一般のご出身の方だとして、何百年も続く茶道の家元とご結婚されるのは相当なご決心があったと思う。そんな麻子さんの言葉だけに、しみじみ考えさせられた。

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