囀る鳥は羽ばたかない…59話感想
ひとまず矢代さんと百目鬼についての話は小休止ということであまり急激な心の乱降下無く読めましたが、読後じわじわと沁みるものがあり、色々と考えさせられた回でした。
奥山という人が思ったよりもずっと真っ当な考え方の常識人であったことに少し驚き、それは当の綱川も同様だったのではないかと感じました。えてして人は人や物事を一面的に見てしまいがちで、人間像とは見る人により大きく変わってしまうものなのだな……と思ったり。それは見る人が同じでもその年齢や経験、立場によっても変わってくるものと思われ、まだ若く血気盛んな若き日の綱川にとって奥山は、自分より経験値や精神的な成熟度(おそらく人望も)が上回る、父親の後継者の座を脅かす存在にしか見えていなかったのも仕方のないことだとは思うのですが。
そして甲斐。その生い立ちに息を呑み、同時にどうして彼があれほど綱川に対して憎悪を剥き出しにしたのか、謎が解けた気がしました。
甲斐にとって綱川は、本来自分があるべき位置にいる男、自分が得るはずだったにも関わらず得られなかったものを持っている男だったのだ。甲斐の綱川に対する感情の根底には、全てを奪われた理不尽な運命への恨みと苦しみ、そして自分と同じような環境に生まれ育ちながら、自分とは逆に全てを手にした人間への妬みと羨望があった。それを知ったとき、ああ、ここにも光と影が……と思わず深い溜息をついてしまったのでした。
「面子と体面を重んじるヤクザが女子供に手を出すはずがない」という暗黙の了解を破ってまで仁姫を誘拐したのは、奥山ではなく甲斐の私怨によるものだった。甲斐の過去を知ることで、そこのところがすっきりしました。かつて仁姫の祖父である先代に恩のあるはずの奥山が誘拐の首謀者というのはどうもしっくりこなかったので。
甲斐からすれば、恵まれた環境で育ち、大学まで卒業させてもらいながら組の後継者となり、さらに妻と子供のいる幸せな家庭をも持つ綱川は、自分が喉から手が出るほど欲しかったもの全てを手に入れているように見えたことだろう。しかも大した苦労もせずに(とおそらく甲斐は思っている)。何も持たない自分と全てを持つ綱川。本来自分と綱川にそう大きな差があるとは思えず、ただ違ったのは「運」だけ。それなのにどうして自分はこうもその相手から見下され、蔑まれなければならないのか。そうした激しい怒りが、甲斐を綱川から何かを奪うという行動に駆り立てずにはおかなかった。そして綱川を苦しめる最も効果的な方法として、彼が最も大切にしている存在を奪うという凶行に走ったのだろう、と思います。
私は以前55話の感想で「余所から入ってきてイキがる新参者の若い衆に対する(綱川の)処し方がもう少し違っていたら、あるいは仁姫ちゃん誘拐事件は避けられたのかもしれない」と書いたのですが、甲斐の過去を知った今も、やはり少しそう思ってしまいます。もちろんどんな理由があれ、幼い子どもを巻き込むのは許されることではなく、それを実行に移してしまえること自体が甲斐という人間の資質の表れといえなくもないのですが、それでも(甲斐の境遇を知らなかったとはいえ)、綱川は人の痛みに鈍感過ぎ、傲慢過ぎる、それが彼の強烈なカリスマ性の源であり一種の能力でもあるけれど、敵をつくりやすく、身近の大切な人達を危険に晒すリスクも孕んでいるという危うさを感じざるを得ません(彼にとっては大きなお世話でしょうが)。
もし、奥山が当初の意思通りに綱川が跡を継ぐことが決まれば組に残り、綱川を側で支えていたら(きっとそれが先代の願いでもあったのでは…)、綱川ももう少し違う感じになっていたのではないか……などと考えても仕方のないことを考えてしまいます。まあ綱川が奥山の助言に耳を傾けたかは分かりませんが、綱川も本心はそれを望んでいたのではないかと思ったりもしました。つまり、自分は奥山に捨てられた(裏切られた)と綱川は思っていたのではないかと(綱川は死んでもそんなことは認めないと思いますが)。それが余計に綱川を頑なに、肩肘張らせていた。でも奥山に再会して、組を出た本当の理由、そして仁姫ちゃん誘拐に関わってはいないことを知り、彼の中でかなりの部分のわだかまりが解けたのではないかと思いました。
一方、奥山にとっては綱川も甲斐も同じように世話になった人間の息子で、守るべき存在だった。だから複雑な思いがあったのではないかと思うのです。この二人はどちらも幼い頃から組長の息子として周りにかしづかれて育ったからでしょうか、「人の話を聞かない」「我が道を行く」という点でよく似ていて、だからこそ余計に反発し合うのだという気もしますが、奥山はそういう似た者同士の二人を半分諦めの境地で見ながらどちらも気にかけていた。だからでしょうか、綱川が自分の話を覚えていたと知ったとき、どこか嬉しそう、あるいは感慨深そうに見えました。
ちなみにですが、個人的に、奥山と天羽さんはちょっと似たタイプに感じます。どちらも綱川とは正反対で、だからこそ相性は割と悪くないと思うのですが、どうでしょう……。
ここで、先ほどの「光と影」に話を戻します。
似た者同士の「光と影」といえば、どうしても久我と矢代さんが浮かんでしまうのですが、その綱川・甲斐との共通点と相違点について。
「光」は大抵の場合、自分が光の中にいることに無自覚で、また「影」の存在に気づくこともない。これに対して暗がりにいる「影」は、自分から見て目が眩むような明るさの中にいる「光」を羨み、同時に「なぜあいつであって、俺ではなかったのか」と忸怩たる思いに陥る。けれども同じ「影」であっても矢代さんと甲斐が大きく異なるのは、矢代さんは「けっして自分の運命を人のせいにはしない」という信念を持って生きてきたということで……
俺は全部受け入れて生きてきた
何の憂いもない 誰のせいにもしていない
俺の人生は誰かのせいであってはならない
(2巻第8話138P)
これは矢代さんの生きる上での最大のポリシーであり矜恃なのだと思われますが、これこそが、どんなに淫乱と言われようが、一見無節操でちゃらんぽらんに見えようが、矢代さんという人を一本筋の通った、根本的なところで高潔な人たらしめているのだと思います。と同時に、矢代さんを縛り自由を奪う鎖にもなっているのかなあ……などとも思ってしまうのでした。
(百目鬼とママの関係についてはあまり心配しなくてよさそうですね?そしてキレッキレの矢代さん、格好よかったです)