【たった3年で廃港に!?】幻の日本初西洋式港湾・野蒜築港計画(RECラジオ配信アーカイブ)
2021年4月にREC.というラジオアプリで特集した、宮城県を代表する港になるはずだった日本初の近代式西洋港湾「野蒜築港(のびるちくこう)」。しかし、わずか3年以内で廃港となり、今はその面影をほとんど見ることはできません。その理由を地図と共に振り返っていきましょう。
すずはろー!すずしろ大根です(*´▽`*)
住んでいるマンションが全面改修工事のため、工事の音が絶えません(+o+)
工事の音が響いているとREC.も録音できないので、アーカイブ記事の執筆をすることにしました。
記念すべき初回の人気配信アーカイブは、「【しくじり土木計画】幻の日本初西洋式港湾・野蒜築港計画」です。」です。
もしお耳がお暇でしたら、博物館の音声解説同じく、REC.の音声も同時にお楽しみください。REC.というラジオのアプリを入れればバックグラウンド再生ができます。
【しくじり土木計画】大久保利通肝いり・幻の日本初西洋式港湾・野蒜築港前編
https://rec.audio/recs/c1m70j223akg02kguit0
【たった3年で廃港に!?】しくじり土木計画・世界を夢見た野蒜築港の歴史・後編
https://rec.audio/recs/c1ngauq23akg02g6rdgg
【野蒜築港番外編】現在に残る夢の跡・野蒜築港が残した運河たち
https://rec.audio/recs/c1qp9hi23akg02m6v3f0
↑今回は紹介しないので、RECに聞きに来てね!
REC.運営さんのnoteはこちら(アプリダウンロードリンクもあります)
https://note.com/rec_uuum
■ Chap.1 明治時代までの交通手段は??
現在の日本では、鉄道や道路などの交通網が発達しています。どこへ行くにも、鉄道やバス、自家用車で移動ができますね。時には飛行機を使うこともあります。
しかし、江戸時代以前、そして明治時代の最初までは、鉄道さえもありませんでした。そんな時代の主要な大量輸送機関は、船だったんです!!
今回のお話の舞台となる宮城県(旧仙台藩)にも、たくさんの港がありました。こんな感じです。
明治の初め、これらの港の規模を遥かに上回る巨大港が計画されます。それが野蒜築港です。
■ Chap.2 大久保利通の野望
時は明治初期。誰もが名前を知っている明治新政府の超重要人物・大久保利通は、ある日東北地方の巡検に訪れました。
この巡検で大久保利通は、東北に発展の可能性を感じ、東北開発計画を打ち出します。その最も主要な事業が築港計画でした。東北の物流を加速させることが目的だったと考えられます。
築港にあたり、「どの場所に港を作るか」が考えられました。最終的に新築港の場所は、現在の東松島市・野蒜(のびる)に決定します。下の地図の場所です。
この理由として、
1. 東北地方の大動脈・北上川と阿武隈川に近く、物流に便利
2. 既存の石巻港や塩竃港と近く、連携が可能
などの理由が挙げられていました。他にも、たくさん理由はあるそうです!
特に1. は、決定を下すのに非常に重要だったと思われます。
当時のメインの輸送手段は船でした。
米などの重いものを陸路で運ぶのは大変なので、河川に船を走らせて大量輸送していたんですね。
北上川と阿武隈川はこんな感じです。(雑ですいませんm(__)m)
■ Chap.3 建設開始!完成!!
鳴り物入りで建設計画された野蒜築港は、1878年(明治11年)に第一期工事が開始されました。
そして、1882年(明治15年)には、内港が完成し、無事落成式が行われました。
日本の発展のためには、内港だけでなく、外港も必要ですよね!
どんどん作っていきましょう!!!!!
......。
............。
いつの間にか廃港になっていました...。
現在(2021年)の野蒜築港の周辺地図です。港の雰囲気は感じられませんね...。
■ Chap.4 廃港の理由1 : 資金不足
というのも、当時、明治新政府にはお金がありませんでした。
大久保利通の肝いり事業とは言え、資金がなければ計画を進めることはできません。
当時は役人の給料を払うことにも苦戦していた時代だったようです......。
資金不足により、外港の建設計画は一時中断を余儀なくされました。
しかし、それだけでは廃港にはなりません。
日本が豊かになればいつか夢は叶うはずです。
それまで細々とやっていきましょう。
しかし、、、。
■ Chap.5 廃港の理由2 : 土砂の堆積
既に完成した内港でも、問題が起こっていました。
それは、土砂の堆積です。
船が入港するためには、ある程度の水深が必要ですよね。
あまりに浅いと座礁してしまいます。
歴代の港たちも、土砂が溜まって使えなくなってしまった!!という例は多数存在するようです。
江戸時代後期には、石巻港も同じ悩みを背負っていたそうです。
だから、河川から流れてくる土砂量の事前のチェックは超重要です!
しかし、事前の調査不足で、土砂量の見積もりを誤ってしまったんですね。
結局、土砂の掻き出しには、多額の費用が掛かることに...。
明治政府には、その費用が捻出できませんでした。
■ Chap.6 廃港の理由3 : 台風の直撃
以上の2つの理由から停滞していた野蒜築港計画ですが、最後にダメ押しのタイムリーを打たれてゲームセットとなります。
それは、台風です。
落成式からたった2年後の1884年(明治17年)、野蒜地区を台風が襲います。
いくら東北とは言え、当然台風はやってくるので、十分な設計が必要ですね。
明治政府の威信にかけて、台風で破壊されるわけにはいきません。
台風も大型とは言え、平成や令和で爪痕を残す巨大台風には及びません。
きっと大丈夫でしょう!!
...。
突堤が壊れました。
別に、手抜き工事と言う話は聞きません。
ただ、お金がなさ過ぎて作り逃したものがあります。
それは、、、防波堤です。
■ chap.7 そして、廃港へ。
もちろん、防波堤を作るべきという意見はありました。
おそらく、この時代も防波堤の建設は必須だったと考えられます。
しかし、お金がなかった。
災害大国日本で、絶対に外せないものを作り逃してしまいました。
結局、壊れた突堤を作る資金もなく、野蒜築港は完成からわずか3年以内に廃港の決断がなされたのでした。
■ Chap.8 宮城県の港・その後
野蒜築港が担うべきだった役割は、石巻港と塩釜港に戻されました。
宮城県に近代的な港湾ができるのは、日本が列強の仲間入りを果たした後、大正時代のことです。
塩釜港が近代的な形に改良されました。
さらに、戦後の1971年には、仙台港が開港します。
塩釜港と仙台港は、一体とした発展を進め、2001年には東北で唯一の国際拠点港湾(当時は特定重要港湾)に指定されました。
下の写真は、私が免許を取りたてで、仙台港周辺をドライブしたときの写真です。
■ Chap. 9 もし野蒜築港が実現していたら...?
こういった「幻の...」という計画を見ると、実現していたらどうなったのかと妄想したくなりますよね。
それがオタクの性というものです。
実は、私はあまり歴史は変わらなかったのではないかと思っています。
その理由として、1891年(明治24年)には、東北本線が上野・塩釜間で開通したことを挙げます。
鉄道が普及すると、船はひと昔前の乗り物に変わってしまいました。
もちろん、その後資源や大型製品の輸送のため、復権しますが、明治中期からは鉄道に圧倒されていきます。
江戸後期や明治初期と比べて、野蒜築港の意義は、大きく薄れていた可能性があります。
だからこそ、限られた資金を野蒜築港に費やすことはできなかったのかもしれません。
ただ、野蒜地区は、横浜や長崎のように、異国情緒溢れるハイカラな港町になっていたでしょう。
お隣の松島・塩釜と並んで、宮城県の観光スポットになり、宮城県の魅力が更に上昇していたかもしれません。
ということで、今日は以上です!
もし、面白いと思ってくれた方がいたら、REC.に遊びに来てくださいね!!
それでは、また会いましょう(*´ω`)ノシ
■ 今日のまとめ
・明治初期に、宮城県東松島市野蒜地区に、日本初の西洋式港湾・野蒜築港が計画された
・北上川、阿武隈川に近く、利便性抜群の野蒜築港は、1882年に内港が完成した
・しかし、資金不足で外港の建設ができず、調査不足で内港にも課題が出てきた
・防波堤を建設しなかったため、完成からわずか2年で台風に破壊され、後に廃港となった。
この記事は、REC.すずしろ大根チャンネル内の、以下の配信のまとめです。
【しくじり土木計画】大久保利通肝いり・幻の日本初西洋式港湾・野蒜築港前編
https://rec.audio/recs/c1m70j223akg02kguit0
【たった3年で廃港に!?】しくじり土木計画・世界を夢見た野蒜築港の歴史・後編
https://rec.audio/recs/c1ngauq23akg02g6rdgg
【野蒜築港番外編】現在に残る夢の跡・野蒜築港が残した運河たち
https://rec.audio/recs/c1qp9hi23akg02m6v3f0
↑今回は紹介しないので、RECに聞きに来てね!
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