障害者きょうだいから見る小山田圭吾
【はじめに】これは小山田圭吾氏(以下敬称略)が子どもの頃に「したこと」を擁護する文章ではありません。障害者のきょうだいとして小山田の音楽と出会い、問題となっている記事をリアルタイムで読み、その上でその音楽を聴き続けてきたのはなぜなのか。その理由の考察です。
障害者が家族にいるということ
私には、自閉症で知的障害を併せ持つ3歳離れた兄がいる。自閉症にも様々なタイプがあり、兄は他者を害する傾向の強いタイプではなかった。子どもとしては大人しい部類に入っていたと思うが、それでも時々かんしゃくを起こしたり、パニックになったり、奇声を発したりし、周囲の注目を集めることがあった。そして意思の疎通はなかなかに難しい。兄は、同級生の兄弟とはどうも違っているようだ……と私が理解するのにそう年月はかからなかったと思う。
子どもの頃の私にどんなことが起きたか、少しだけ紹介する。
1)「1+1 は?」とよく知らない相手から突然聞かれる(知的に劣ると思われている)
2)「お兄ちゃんって、バカなの?」と言われる
3)「かわいそうね」と言われる(大人から)
4)兄と一緒にいると遠巻きにされる
5)遠巻きにされた上でジロジロと見られる
6)見て見ぬふりをされる
どれが悲しかったでしょう?
1と2。これは、腹は立ったものの、悲しくはなかった。ずっと理由がわからなかったが、いま考えてみると、1と2は、バカにはしていても、相手が少なくとも兄や私に関心を持って接してきているのがわかったからではないかと思う。怒りは感じても、幼い私は傷つきはしなかった。
一方、3。一見、関心があるようには見える。しかし、かわいそう、って何だろう? 私たちはかわいそうな存在ではない。それに、かわいそうと思うなら、あなたは私たちに何をしてくれるの? ただ憐れまれても不快な悲しさが残るだけだった。
4〜6。兄を「異質なもの」と認識し、近づこうとしない。兄=アンタッチャブルであるかのような空気が黒い海として広がり、私の首をジワジワとしめた。今となっては、その腫れ物あつかいや無関心に見える感情の中にもいろいろあったのだろうと想像はできる。しかし、当時の私はただ冷たい壁を感じるだけだった。
心の断絶。自分でも自覚できないレベルでの深い悲しみを醸成していたのは、4〜6だ。そして、出くわす機会が圧倒的に多いのもまた、4〜6の反応なのだった。幼少期から思春期にかけて、私が心の奥で感じていた孤独が、少し伝わるだろうか。
世間的には、1と2は、いじめまがいのけしからん言動として映り、3は優しい人なのね……と捉えられるのかもしれない。4〜6については意識もされないだろう。しかし障害者の近親者として、全く違う受け止め方をする者もいるという事実に、まず触れておきたい。
小山田音楽との出会いといじめ報道
中学生の頃に、Fripper's Guitar を通じて小山田圭吾の音楽に出会う。あっという間にディープに聴き込むようになった。
高校生の頃、ロッキング・オン・ジャパンとクイック・ジャパンを読んだ。問題の「障害者に対する犯罪級のいじめ/虐待」が載っているとされる雑誌だ。結論から言うと、16・17歳の私は、小山田圭吾を嫌いにならなかった。それどころか現在に至るまで、いちファンとしてコーネリアスや METAFIVE の音楽を聴き続けている。これはどういうことなのだろう。人格と音楽は別だから? 人格以上に音楽が好きだから? それとも……。
オリンピック前に小山田の「障害者いじめ/虐待」にまつわる報道やSNSでの批判が再燃して以来、私は懊悩した。インタビュー記事の引用部分を見ると、確かに酷い。SNSでは極悪非道の人非人、その音楽を聴いている人の品性を疑う、というような言葉まで踊っている。リアルタイムで記事を読んでもなお、小山田の音楽を聴き続けてきた自分は、人としておかしいのだろうか? そんなことを思いはじめていた。
できるなら、インタビューを読み返して、高校生の自分が感じたことを思い出してみたい。そう思ったが、残念ながら記事は手元にはなかった(おそらく実家だ)。
クイック・ジャパンの記事全文、再読
やり場のない思いを抱いてモヤモヤしていたところに、95年8月発行のクイック・ジャパンの記事全文をアップロードしている方を見つけた。
この方は小山田擁護派のようだが、そこには目をつぶって記事を読んでみてほしい。フラットな目で見て、あなたは何を感じるだろうか。
私が抱いたのは、誤解を恐れずに言えば、小山田は「無邪気」で「正直」、そして「垣根がない」人だという印象だった。
無邪気さと正直さ
まず、ここでいう無邪気さ・正直さには功罪両面があると思っている。
小山田は、いわゆる「異質」な人を無視できないようだ。それはダウン症の生徒たちのマラソンを眺めているシーンにもあらわれている。
ダウン症の人ってみんな同じ顔じゃないですか?『あれ?さっきあの人通ったっけ?』なんて言ってさ(笑)
(P.65)
最後10人とか、みんな同じ顔の奴が、デッカイのやらちっちゃいのやらがダァ〜って走ってきて、『すっげー』なんて言っちゃって(笑)
(P.65)
この箇所を読むと、やはりダウン症のお子さんを持つ方などは不快に思うだろう。小山田がこのように語る感覚は、私には子ども特有の正直さ・残酷さのあらわれのように見える。当時高校生だった小山田の、そしてその記憶を成人しても悪びれずにあけすけに語ってしまう小山田の、幼児性と軽率な面が出ていると思う。
しかし、小山田の無邪気さと正直さには、すなわち悪であると一刀両断にはできない部分も含まれていると思うのだ。いじめをしていたとされる沢田くん(仮名)について、小山田はこう振り返っている。
でも、だからもう、とにかく凄いんです、こいつのやることは。すっごい、バカなんだけど……勉強とかやっぱ全然できないんです、数学とかは。でも国語のテストとかになると、漢字だけはめちゃくちゃ知ってて、スッゲェ難しい字とかを、絶対読めないような漢字とか使って文章とか書くのね(笑)
(P.57)
沢田くんは学習障害だった。学習障害の人が持つ「能力のアンバランスさ」について、小山田は表面的には口汚く語っているものの、沢田くんの特性に興味をもち「スッゲェ」と思ってしまう、無邪気な敬意を抱いていたのではないかと推察する。
わりとそういう特技なんかも持ってるっていう(笑)なんか電話番号覚えてたり、漢字うまかったりさ。『レインマン』みたいな。あの頃『レインマン』なんかなかったけどさ、『もしかしたら、コイツは天才かもしんない』とか思うようなこともやるしさ。結構カッコいいんですよ、見方によっては
(P.70)
この無邪気なリスペクトに、私は共感する。できること・できないことで言えば兄にはできないことの方が多いが、兄にしかできない特技も確かにあるのだ。兄は我が家の家族写真を見ると、それがいつ撮影されたものか、即座に答えることができる。どういう頭の構造をしているのだろう? 妹でありながら思わず「スッゲェ」と言ってしまいたくなるのだが、それは兄に触れたことがない人には知る由もない。同様に、沢田くんに触れたことがない人には、その特性はわかるはずがないのだ。
垣根のなさ
また1年下の犬川くん(仮名)とのエピソードからは、小山田がいわゆる「異質」な相手に対する心のバリア(障壁)を持っていないことを窺い知ることができる。
で、ちっちゃい頃に感電したとか言って、なんか体の半分ブワ〜っとケロイドみたくなっちゃってて。『オレは感電してバカになった』とか自分で言って(笑)。で、いつも学校にすげー早く来てて、校門の前にいるんですよ。それでみんなが通学してくるといきなり寄ってきて『問題を出す』とか言って(笑)。答えられないような、すっごい難しい問題を出してくるんですよ。(中略)なんか適当に答えたりすると『ブー』とか言ってね、ツバかけてくんの(笑)。そうそう、スフィンクスみたいなの。で、ツバをペッ!ってかけてくんの。俺とか先輩だから『ふざけんなよ!』とか言って、バ〜ンとか蹴っ飛ばしたりするんだけど。全然、バ〜ンとかブッ倒れてもへこたれないの。
(P.66)
犬川くんは、文字から想像するに、見た目も挙動もあまり「普通」ではない人だとわかる。朝登校すると、その犬川くんがよくわからない問題を出すために「いきなり」間合いを詰めて寄ってくるのだ。この状況、どうだろうか。ほとんどの人は急ぎ足で避けて通りかねないと私は思う。
しかし小山田は、無視することなく、腫れ物に触るでもなく、出された問題に適当に答え、ツバを吐きかけられ、仕返しに蹴っ飛ばしたりしている。乱暴、酷いという声もあるかもしれないが、私には、蹴っ飛ばしているところも含めて、この2人の関係はとても健全に見える。相手に興味を持って接し、やられたらやり返す。これ、ふつうの子ども同士の関係ではないか? 「ちょっと変わった人」に対してこのように接することができる小山田を、「酷い人」とくくって片付けることは私にはできない。
終わりに
ここでは、クイック・ジャパンの記事の一部のみを紹介した。問題となっている記事全文からどのような印象を持つかは、ぜひご自分の目を通して判断してほしい。私とは違う感想を持つ人ももちろんいると思う。ここに述べた文章で、私が受けた印象をあなたに押し付けたいわけではないことをお断りしておく。
雑誌が出た当時はインタビュー記事を分析的に読んだわけではなく、読み流して終わったのだと思う。でも高校生の私はこれらのエピソードを読んで、「たぶん小山田は、兄に会ったとしても無視することなく、興味をもって接するだろう」と無意識に期待したのではないかと想像する。兄が何かやらかしたら、頭をはたくぐらいのことはされただろうか? でも、小山田は「無関心の黒い海」に漂う人ではない。こちら側の人間だ。そんな気持ちを抱いたのではないかと思う。
子どもだった小山田は、酷いこともしたと思う。それに、当時は現在のようなネット社会ではなかったとは言え、成人してから、文字として残る媒体の取材に対して自分の行為をくったくなく語ってしまったことの問題も大きい。オリパラの音楽担当としては不適格だ。
でも、この記事なしに私は小山田圭吾という人の中身を知ることができなかった。そして、知ることができて良かったのだと思う。記事を読んでも小山田のことを嫌いにならなかった高校生の私を、私は支持したい。
210731 追記
言葉足らずな部分もあったので、補足といただいたご意見への考えを書きました。よろしければ。