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続・障害者きょうだいから見る小山田圭吾

この note は、読者の方が1995年8月発行の『クイック・ジャパン』(QJ)に掲載された「いじめ紀行」の記事全文を読んでいることを前提に書いたものです。まだ読まれていない方は、こちらなどからお読みください。


前回の note を読んでくださった方、ありがとうございました。


前回は、考えを述べるために、象徴的な小山田のエピソードを QJ 誌から引用して書くに留めたため、言葉足らずなところがあったと思う。ここで補足と、いただいた一部のご意見に対する考えを述べたい。

資料としてのROJとQJ

前回の note を受けて、なぜ「ウンコ食わせてバックドロップ」の虐待を取り上げないのか、というご指摘をもらったので、問題となっている2誌を資料としてどう考えるかについて触れておく。

1994年、『ロッキング・オン・ジャパン』(ROJ)の小山田圭吾2万字インタビュー(食糞バックドロップ、全裸にして強制オナニーの記載あり)を読む。その内容に引いたことを覚えている。

1995年、QJ の「いじめ紀行」を読む。
・ROJ で明かされた小山田のいじめに着目して組まれた特集。
・だが、食糞バックドロップのエピソードが語られていない(これが何を意味するのかは読者にはわからない)。
・村田くんへのオナニー強要については小山田ではなく別の先輩の命令だったことがわかる(P.63〜64)。小山田は引きながら傍観していた(だから悪くない、と言いたいのではない。ROJ では小山田が主語となっていたが、そうではないということ)。
・身体的ないじめを行っていたのは小学生・中学生の頃。
・学習障害のある沢田くんとの関係は、小学校から高校にかけて変容していった。

発刊当時の露悪的な文化的背景や「(話が)盛られていた」という話も聞くが、実際のところはわからない。ただ、1)ROJ と QJ では内容に齟齬があること、2)エピソードの詳細さでは QJ の方が資料としての重みと厚みを持っていること、の2点から、個々のいじめの行われた文脈(いつ、誰に)が読み取れない ROJ について、QJ に掲載されたエピソードと同列にして扱うことは難しいと判断した。そのため ROJ の内容について取り上げることは保留とし、QJ の内容のみを引用することとした(もちろん、食糞バックドロップが事実であるなら酷い虐待であるのは言うまでもないし、話を盛ったにしても酷い)。

「関心→いじめ」につながることがある

前回の note はたくさんの方にお読みいただき、様々なご意見を頂戴した。

私は白か黒かをはっきりさせたいわけではなく、立場としてはグレーである。小山田のことを擁護はできない。でも、自閉症の兄を持つ身として、高校生の私は小山田のあり方に救われた面も大きかった。その微妙な立ち位置を、「嫌いにならなかった」という言葉に込めたつもりだ。

小山田は「異質」な相手を無視できず、障害のある人に対して無関心な人には見えない、という旨のことを前回書いた。小学生の頃、沢田くんが転校してきた時のことを、小山田はこう語る。

別に最初はいじめじゃないんだけども、とりあえず興味あるから、まあ色々トライして、話してみたりするんだけども、やっぱり会話とか通じなかったりとかするんですよ。
(P.56)

小山田ははじめから沢田くんに興味を持ち、手を変え品を変えしてアプローチしていたらしいと想像できる。だが、このような好奇心や関心の強さがいじめへと発展してしまった側面は、残酷だが存在したのだと思う。小山田が「(沢田くんは)かなりの実験の対象になっちゃう(P.57)」や「色々試したりしてた(P.69)」といった言葉で表しているように、沢田くんが「どんなやつか」を把握するための手段が、身体的ないじめの方向へ向かってしまった。それは残念だと思う。無関心だがいじめをしない人、関心があるが故にいじめてしまう人。私はこの二者択一にはあまり意味はないと感じるが、興味があるからいじめていい、とは私も思わない。こういったことを未然に防ぐための教育的配慮が当時あったなら……と思う。

無関心は悪くない?

そう考えると、障害者に害を与えない、無関心な人は別に悪くないのでは?という見方もあるだろう。Twitter では「障害者を見て、面白い、と近づく人と、『きもちわるい』『おっかない』と遠ざかる人に、そんなに大きな違いがあるのか?」という内容の返信ももらった。こういう率直なご意見は、とても嬉しい。

障害者きょうだいの立場からすると、兄に対して「面白い」と思ってもらえるほうが、無関心で遠巻きにされるよりはずっといい、と感じる。

単純に、距離を置かれてしまうと、家族としては悲しい。障害者の家族は、本人のことを理解してほしい気持ちが強いのだ。

それは、当人や家族の生きやすさにつながるから、という実利面での理由が1つ。「障害者は怖い」「よくわからない」という認識が一般的な状態だと、例えば障害者の福祉施設の建設などに大きな壁が生まれたりする(実際に兄が過去に入所していた施設は、住宅地から離れた郊外にある)。
大きな音がもとでパニックを起こしてしまう自閉症の人もいる。それを遠くから奇異の目で見て終わるのではなく、「刺激になっている音を断てばいいのだな」と考えてもらえたとしたら。少し落ち着くための静かなスペースを用意してもらえたとしたら。本人にも家族にも、どんなに助かるかわからない。

また、家族としては、障害がもとで人との繋がりが薄くなってしまう状況を改善したい、という思いもある。兄は、理由なく暴れたりすることはないし、すごく面白い一面もある。なのに、先に距離を置かれてしまっては、兄という人間をわかってもらう機会はなくなってしまう。自閉症であっても、兄は、人と関わりたい気持ちを持っている。でも残念ながら、兄は自ら歩み寄って自己紹介したり、関係を構築するための行動をとったりすることはできない。だから、まず興味を持ってもらえるというのは、兄を理解してもらいたい家族にとって、関係作りのきっかけとしてとてもありがたいことなのだ。

障害者への「興味」を持つことは、子どもの時分には、先述したように方向性を誤るといじめに向かってしまう恐れもあり、痛し痒しの面はある(兄もいじめと無縁であったわけではない)。だが、その「好奇心」を長い目で見た場合には、障害者理解へつながる大きな可能性が秘められているのではないかと思っている。

小山田の「いつ」に注目するか

少々、小山田の話からそれてしまった。
「小山田=黒」「100%許せない」とする人が見ているのは、いじめの実行者としての小山田や、26歳にしてくったくなくその内容を語ってしまった小山田の人間性ではないかと想像している。実際、オリパラの音楽担当を降りるより前に、小山田は過去について反省したり、悔い改めたように見える行動を起こしたりしてきてはいない。だから、その人間性は52歳になった今も変わらないはず、と固定的な人間観を持つ人もいるのかもしれないと思う。

現在の小山田がどのような人であるかは、私にはわからない。周囲の人が判断して、つき合うかどうかを決めればいいと思っている。

高校生だった私が小山田を嫌いにならなかったのは、誌面を通して読み取れる、小山田の変容が大きかったことも一つの理由だったと思う。
身体的いじめからは卒業(?)したものの、高校生になった小山田はダウン症の生徒たちを「すっげー」と興味本意に眺め、休み時間に障害のある生徒たちが「たまる」図書室を見物しにいくなど、幼さは抜けていない。

その一方で、クラスメイトの沢田くんへの眼差しや関わり方は、明らかに変化していっている。

肉体的にいじめてたっていうのは、小学生ぐらいで、もう中高生ぐらいになると、いじめはしないんだけど……どっちかって言うと仲良かったって言う感じで、いじめって言うよりも、僕は沢田のファンになっちゃってたから。
(P.57)

小山田が無邪気な敬意を持って沢田くんのことを見ていたのではないか、と前回の note でも述べた。高校生になって、小山田が沢田くんと「友達」になったと言えるかどうかはわからない。でも、沢田くんがエチケットを気にするようになったことを喜び、鼻紙を切らしていれば箱ティッシュを買ってやるような、温かい目線を送るようになっていた。小学校から一緒に育って、こんなふうに成長を喜んだりしてくれる同級生は、兄の周辺にはいなかったと思う(高校から養護学校へ進んだせいというのもあるが)。いてくれたらよかったのにな、と思わずにはいられない。

そして、インタビューの終盤近くになって、小山田の沢田くんに対するスタンスがどのように変化していったかが語られている。

なんかやっぱ、小学校中学校の頃は『コイツはおかしい』っていう認識しかなくて。で、だから色々試したりしてたけどね。高校くらいになると『なんでコイツはこうなんだ?』って、考える方に変わっちゃったからさ。だから、ストレートな聞き方とかそんなしなかったけどさ、『オマエ、バカの世界って、どんな感じなの?』みたいなことが気になったから。なんかそういうことを色々と知りたかった感じで。で、いろいろ聞いたんだけど、なんかちゃんとした答えが返ってこないんですよね
(P.69)

「コイツはおかしい」から、「なんでコイツはこうなんだ?」へ。小山田は、沢田くんの「できない部分」も含めて否定も無視もせず、このような疑問を持つようになっている。その言い換えが「オマエ、バカの世界ってどんな感じなの?」である。表面的に見ると言葉は汚いが、自分とは明らかに異なる相手の内面世界に関心を持っていなければ、出てこない疑問だと思う。

私自身、兄から見える世界はどのようなものか、幼い頃から興味を持ってきた。中学生の頃、友人のお父さんから「(兄は)人間というより動物に近いのかもしれないね」と言われたことがある。これも、受け取りようによっては酷い言い草だ。でも、私はなんとなく嬉しかった。このように言う人からは、多少言い方が悪くとも「兄を理解したいと思ってくれているのだな」と感じるからだ。

沢田とはちゃんと話したいな、もう一回。でも結局一緒のような気もするんだけどね。『結局のところどうよ?』ってとこまでは聞いてないから。聞いても答えは出ないだろうし、『実はさ……』なんて言われても困っちゃうしさ(笑)。でも、いっつも僕はその答えを期待してたの。『実はさあ……』って言ってくれるのを期待してたんですよね、沢田に関してはね、特に
(P.71)

沢田くんの「実はさあ……」を期待していたという小山田。これは、心情的に、沢田くんにかなり寄り添っていなければ出てこない感情ではないかと思う。私も子どものころ、「ある日突然、兄が自分について語り出したらどんなにいいだろう」と思っていた時期がある。「実は今までの、ぜんぶ演技だったんだよね」とか言って。そんな期待と恐れを持って兄を見ていたことがあった。こんなことを思ってくれる知り合いが兄にもいたら、と高校生の私は思ったのではないかと思う。

終わりに

前回でも書いた通り、私は自分の見方を、全ての人に押し付けたいわけではない。私の小山田観は、ある1人の障害者きょうだいという特殊な立場から光を当てて見たものに過ぎない。雑誌記事を読んで自らの被害者体験を思い出してしまった人や、障害のあるお子さんを持つ親御さんなどから見れば、このようないじめを行う者は100%許せない!と思う人がいるのは当然だろう。私自身、ここに書かなかっただけで、子どもの頃はいじめに近い目に何度も遭っているため、その立場で考えれば別の意見を言うこともできる。同じ「きょうだい者」の方から見ても、同じ見方にはならないこともあるだろう。立場や境遇が違えば、見える風景も変わる。

知的障害のある人って、ちょっと怖い。気持ち悪い。そんなふうに捉える人のことを、義憤の目を持って見ていたこともあったが、歳を取るにつれて理解できるようになってきた。自分とは違う異質な相手に対して、人は防衛本能を持っているのだと思う。こんなことを書いている私だって、どんな人にもフラットな態度で接することができるかなんて、自信はない。
でも、だからこそ、小山田が「異質」な人に対して無邪気に関心を持ったり、垣根なく接したりしていたさまは高校生の私には驚異的に映ったし、こういう人がいることは救いでもあったのだと思う。

小山田が行ったいじめ(と、それを反省なく語ったこと)は悪い。でも、ちょっと見方をずらすと違う面も見えてくる。前回と今回の note を読んで、何かを感じ取ってくださる方がいれば、それだけで嬉しい。



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床山すずり
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