うさぎがいる世界
このまま眠れば、また朝が来てしまう。
月は雲の向こう。窓には街灯の少ない道。気だるい頬杖。
行きたい学校があって、一年間頑張ったのに。
諦めて入学した先でワタシを待っていたのは、大して興味のない授業。クラスメイト。
バイト先だって、テキトーに決めた。
ワタシの人生、知らない国の、文字ばかりの本をずっと読んでいるみたくつまらない。
早く明日が来ないかな~なんて最後に思ったのはいつだっただろう。
バイクの光が去る。それに合わせて、スマホの通知音がした。
『課題、おしえて』
同じクラスのソウからの連絡。
ソウも、私と同じで浪人組だった。
服装も派手で、目立っていて、クラス1の人気者。
仲良くはないけれど、会話はしないこともない。
同じ苦労をしてきたからだろうか。
性格はまるで正反対なのに、なんとなく気が合うような、そんな気がする。
「なあ、これから飲みにいかね?」
日が暮れるのが早くなってきたころ、ソウが初めてワタシを居酒屋に誘った。
他のクラスメイトより早く、ワタシたちは成人していた。
ビールが運ばれてきて、ある程度料理がテーブルに並んでも、会話は全然弾まなかった。
いつも、あれだけ調子のいいことを言っているソウが、あまり口を開かない。
なんで今日、声をかけられた? ヒマだった?
この静けさがいやだった。
「ラストオーダーでーす!」
新人かなあ。弾ける笑顔と疲労感が混ざった顔をしている。
「そろそろ出よっか」
こくりとワタシはうなずいて、割り勘をして、角を曲がったところで別れた。
ソウは、2週間に一度くらいのペースでワタシを誘う。それも同じ店。
大して学校では話さないのに、なぜなのだろう。
「また来てくれたんですね! こちら割引券です!」
断る理由もなく、ソウの後に続いて地下へと階段を降りる。
「いらっしゃいませ!」
ワタシに気付くと、あからさまに嫌な顔をする。
トイレから帰ると、必ずオーダーを聞きに来ている。
ナギ。もう覚えた。
「30円のお返しです!」
レシートじゃない、ちっちゃなメモ紙……
食事中、ソウは笑っている。
少しは会話が進むようになって、いろんな話をした。
本当は、地元を離れたくなかったこと。部活は陸上部で、マンガが好きなこと。
将来はパイロットになりたいとニヤけて言うソウに、
それってCAさんと仲良くなりたいだけでしょ、とツッコミまでできるようになった。
居心地がよかった。
陰キャラのワタシに、明るいソウが話しかけてくれるのも嬉しかった。
でもそれより、同じ悔しい思いを抱えていて、面白みのない毎日を過ごしていて。
共感できたから。通ずるものがあったから。
ワタシ、ソウのこと、好きになったっぽい。
「ねえ、あのバイトの子さー、絶対ソウのこと好きだよねー。なんか、やだなあ。笑」
アルコールのせいにして、口にする。
会話の間合い。グラスに流れる水滴。
「おれ、ロシア人の彼女がいるんだ」
「そう、なんだ……」
ちっちゃな顔に、金色の髪。スタイルも良いんだろうなあ。
それじゃあ、リアルセーラームーンじゃん。
シベリアと化したワタシに、次々と降ってくる、鋭い氷柱のようなことば。
「あいつは大学時代、日本に留学していた」
「おれの影響で、関西弁をしゃべる」
「去年の夏は、一緒に甲子園へ行った」
「来月、あいつに会いにロシアへ行く。だからビザ取らなきゃ」
飲みに行った次の日から、ソウは学校に来なくなった。
気が変わって、早く出国したのかな。
みんなは、来週からの実習に気がいっているらしく、誰も気に留めていないようだ。
連絡も、返ってこない。
ふた月経って、やっと既読がついた。それから一週間ほどして、返信が来た。
「おれ、学校やめた。内緒な」
知ってる。本当は、入学し直すために勉強していたことを。
だって、リュックから財布を出すときにテキストが見えたし。
建築、やりたいって言ってたじゃん。
努力家だってわかっていた。
ロシア人の彼女だなんて、わかりやすいウソなんかついてさ。
今の状況に不満を抱えた私たちは、キズのなめあいを続けたって、なんの成長にもならない。
若くてキラキラとした時間が、水の泡になってしまう前に、ソウは飛びだしたのだ。
もしかして、ワタシに喝を入れるために、毎回誘っていたのかな。
街頭の少ない道を、とぼとぼ歩く。
「月に代わって……」
口に出して、虚しくなった。
お仕置きする相手はソウじゃなく、ワタシの怠けた気持ちだ。
「あの、」
ふり返ると、ナギが立っていた。
バッグにぶら下げていたはずの、ワタシの定期を手にして。
「落としましたよ。『うさぎ』さんっていうんですね。かわいい名前」
ワタシは、黙ってそれを受けとった。
「あの、いつもの男性は?最近、見かけなくなったけど……」
「ああ。もう来ないと思います。違う世界に行っちゃったんで」
ふうっと息を吐いた。雲がゆっくりと動く。今夜は満月だ。