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芹沢怜司の怪談蔵書「30.霧の中のピエロ」

 怪談を読み終えた直後だ。ギィギィと、真横の家から扉が開くような音が聞こえてきた。相当古い家だから、何かに引っかかってすぐに開けられないのだろう。

 巻き込まれるのだけはごめんだ。老婆の声を聞いてしまう前にさっさと帰ることにした。

 ところで……あの話の語り手はその後どうなったのだろう。連れ込まれたまま帰ってこなかったとしたら……誰が伝えのかな?

 ※ ※ ※

 なんとかアパートに戻ってこれたので知人に電話をする。

「戻ってきたけどドアは開けなくていいよ」
『怪談話をするんですね。僕も今日は大人しく怜司さんの話でも聞こうかな』
「おや珍しい。いつもなら怪談を体験しに飛び出していくというのに。どういう風の吹きまわしかな」
『引っ越し疲れですね。慣れない環境ですし、一日ぐらい何もしない日を作らないと。怜司さんだって疲れているでしょう? なのに体力作りで図書館に行くと張り切って……。これは予言です。明日は筋肉痛に悩まされますよ』
「君は予言者としては三流だね。老体はすぐに筋肉痛はやってこない。早くて二日後だよ」
『おや、それはそれは……心身ともに若輩者ゆえ、ご老輩の体のことはまったくの不知でした』
「はっはっは! 本当に失礼な奴だよ君は」

 ひとしきり笑った後、私たちは書斎に行き好きな場所で寛ぎはじめた。もちろん私はお気に入りのマッサージチェアだ。書斎にいるときはずっとこの椅子に座っている。大きいからアパートの方に持っていけないのが残念だ。

「それで、今日は何の話をするんです?」
「借りてきた本の中にあった怪談なんだけど、ようやく詳細が分かったんだ。ほら、あのピエロだ」
「ああ! ピエロがヤバいってだけで肝心の怪異が不明だったやつですね。どんな内容だったんですか?」
「一言でいうなら地味。よく言えば堅実だね。逃げ場がなくて視界もままならない状態で狙ってくるから質が悪い」

【霧の中のピエロ】

 ピエロって見たことありますか?
 私は映像の中でしか知りません。ピエロといえばサーカスですけど……そもそもサーカス自体を見たことありません。
 だからピエロというのは、馴染みがあるにもかかわらず実物を見たことない……不思議な存在でした。

 目に付くのは真っ白い顔に真っ赤な鼻と唇。間抜けな顔だと言う人もいるでしょうけど、私はどんなにコミカルに描かれていても、不気味で恐ろしいものだと認識してしまったのです。

 ピエロに出会ったのは早朝、数センチ先も見えないほどの深い霧に覆われた日のことでした。その日の私は夜勤明けで、もう早く帰って寝たいとちょっとイライラしていました。
 一緒に帰ろうと誘ってくれた同僚の申し出を断り、普段は通らないけど時間短縮になる裏道を歩いていたときに遭遇したのです。

 あと五分ぐらい歩いたら家に着く――そこで視界の端で鮮烈な赤色がチラついたのです。霧のせいで周辺の家の色すらよく見えないのに、赤色だけはハッキリと見て取れました。

 なんだろう?
 赤色はグングンと近付いてきている。

 ちょっとした好奇心を持ってしまった私は、立ち止まって何が出てくるのか見守りました。

 やがて霧から抜け出てきたのは、上から下まで真っ赤な服を着たピエロだったのです。先が二つに割れている帽子、よく見ると服には血飛沫模様、漫画やアニメに出てくるような一見可愛らしい間の抜けた顔。そして両手には古ぼけたカッター。

 私は一歩も動けませんでした。顔と、それ以外の部分とのギャップに、ピエロから目を離すことができなかったのです。あの時、逃げ出せていたなら……いえ、逃げられたとしても私はまたピエロが出現する条件を満たして、今度こそ死んでいたかもしれません。

 ピエロとすれ違う――その瞬間に私の喉は搔っ切られました。

 その後の記憶はありません。目が覚めたら病院のベッドの上だったのです。私は近所の人たちに助けられたようです。
 そして搬送された病院で「最近引っ越してきた人だね。この辺りで狭い道、特にこんな霧の日を一人で歩くのは危ないよ」と教えられました。

 その日以来、私は人通りの多い道を選ぶようになりました。そして数日後にようやく町の様子を思い出したのです。

 思い返せばこの町に住んでいる人はいつも誰かと一緒に歩いていました。

 ピエロに襲われないために。

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