『表現したい』という本能
――自分はいったい何者なんだろう。
そんな、ちょっぴり哲学的なことを考えてしまう今日この頃。
私は基本的に、やってることが四方八方に散らばっている。このnoteのエッセイ、アメブロ、ラジオ……YouTubeでダンスを踊り、ときにイラストを描き、ときに小説執筆に没頭する。
もともとは自己啓発系の発信からはじまったものだったのに、もはや何を発信しているのかコンテンツの内容ですら定まらなくなってきた。
――いったい、自分は何をしたいんだろう。
考える。けれど、何をやりたいのかは、ほんとうにその瞬間瞬間で変わる。それはときに、天気よりも気まぐれに。だけれども、一つ、言えることがある。
私は、自分の考えてることや価値観や感情、その時時の情熱や思考を、何かしら、形にして外に出さないと気が済まない性分なのだと思う。これはもはや病気なのかもしれない。
表現したい、という本能といってもいい。
もはや『表現』という言葉では、自分の感覚にしっくりきていないのだが、表現が一番ニュアンスとしては近いのでこの言葉を採用した。
最近読んだブルーピリオドという漫画で『絵は言語だ』という台詞があった。
自分の言いたいこと、感じたこと、想い、熱、感情、わけもわからず湧き上がるもの――それら全ては、絵という『言語』を通じて伝えることができる。
――あぁ、これに近いかもしれない、と私は思った。
この『絵は言語である』という考えに則るならば、私はたくさんの言語をそれなりに、たぶん日常生活を送るうえでぐらいのことは話せる。
エッセイという言語、小説という言語、イラストという言語、ダンスという言語……。うーむ。
私に与えられたのはこういう武器なのかもしれない。小説しか読まない人、ダンスしか見ない人、イラストしか見ない人、そういった、そのジャンルに特化したオンリー層に、私は幅広く届けることができる。
また、ひとつの言語では伝えきれないものは、他の言語(表現方法)と重ねて表現する。小説で伝わりきらないものは、絵で、というふうに。
多種多様な言語を持ち合わせながら、その時々で一番良い(もしくは使いたい)言語を駆使して、創る。表現する。伝えていく。それが私の『本能』であり才能なのだろう。
ただ、私はアウトプットするとき、伝えたい、教えたいというよりも『これを外に出したい』『ひとつの形に仕上げたい』という欲が強い。むしろそれこそが私の原動力。だから、私がエネルギーと時間をこめて創った何かが、たとえば誰かの心を動かした。たとえば、誰かの細胞を刺激した。感情が、揺れた。何かを、思い出した。そんなふうに、私が創った何かと、誰かという人間が衝突し、化学反応が起きる。結果的に伝わる形になっていたら嬉しいなと、そう思うのだ。
伝えていくことも大事だけれども、私はどうも表現欲が強い。要は、ふつうの人よりおしゃべりなのだと思う。たくさん表現したいことがあって、とにかくそれを、出したいのだ。だから、おしゃべりなのだ。そして、おしゃべりだからこそ、色んな言語で話したくなって、どの言語もそれなりに使いこなせるようになるのだと思う。
いつか、私が今まで手を出してきたことたちが、たくさん言語たちが、集約して、ぴたりとパズルのピースがはまるように、重なり合う瞬間が来るといい。
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