「生き方」はカラダから滲み出る
「すずちんさんって、言葉がキレイですよね」
知り合って間もない、とある男性から言われた台詞だった。一瞬、きょとん、とし、その後猛烈な嬉しさが私の肚の底からこみあげてきた。
「言葉がキレイ」という誉め言葉は、実は以前、友人から言われたことがあった。しかしそのときは私がSNSで発信している文章に対して「すずちんが紡ぐ言葉はキレイだよね」と、そういう意味で、褒められた。そりゃそうだと思った。私は、自分が発する言葉にめちゃくちゃなこだわりを持っているから。言葉が好きで、一文、一単語、そこにどんな言葉をはめこんで、何も分からない他人に伝えていこうか?と、そんなことに心血を注いでいる。
ただ、今回は違う。その男性は私がSNSで発信しているのも知らないし、私が言葉にめちゃくちゃなこだわりを持つ言葉ヲタクということも知らない。となると、「言葉がキレイ」というのは「私が喋る姿を見て」という前提に基づいていることになる。
私はびっくりした。私は、自分の口から放たれる言葉がキレイだとは思ったことがなかった。けっして、マナー上級者のような美しい言葉遣いはしていない。めっちゃ、とか、マジ、とか、そんなフランクなフレーズも、ちょいちょい使うような、ごく普通の若者だ。だから、びっくりしたし、そして、嬉しいとも思ったし、何より自分のこだわりや熱を注ぐものというのは否が応でも「滲み出る」のだな、と体感した。
私は文章を書くとき、言葉に対するこだわりを、遺憾なく発揮する。けれども、私は誰かと話すとき、そのこだわりは影を潜めていて、ぶっちゃけ、文章を書くときとは打って変わって、あまり意識せずに喋ってしまう。でも、それでも伝わるものなのだな、と実感せずにはいられなかった。普段私が心の奥底で持ち続けている言葉に対する異様なこだわりや情熱や、美しい言葉に対する興味や憧れや。そんな他人からは全く見えないところで、私の脳内や心の中で繰り広げられている言葉に対する情熱の数々は、いつしか私の口から放たれる喋り言葉にまで漏れ出てしまうのだな、と。
私の憧れであるかんころさんが「生き方は滲み出るよ!」と、よく言っていたことを思い出した。あぁ、本当に、自分が気付かないところで、自分の身体に眠るその情熱たちは、滲み出るのだな、と。ときに、顔つきや、表情や、言葉や、オーラや雰囲気、という形で。
以前、書道家の武田双雲先生が『その人の書く文字を見ただけで、どんな性格なのかが一発で分かる』と言っていた。そういうものなのだろう。生き様というものは、きっと、本人の意識していないところで放たれているのだ。
また「年のわりに落ち着いていて大人っぽい」とも言われた。これもまた嬉しかった。私の外見はかなり子供っぽい。童顔だし、社会人になっても未だに学生だと普通に間違えられる。
おそらく「大人っぽい」というのは精神的に成熟している、だとか、思慮深い、みたいなニュアンスに近いのではないか、と私は思っている。多分、これは、普段、私が自己対話を欠かさず行っていることや、色んな人生経験を積んで、そこからまた新たな学びを獲得したり、と、自分の体験や想いに対して、敬意を払いながら、自分という人間を生きているからだと思う。
それもまた、ブログやnoteなどのSNSで日々の気付きを発信しているおかげであろう。言葉にすることで、見えなかったものが見え、影になっていた部分に光が当てられ、人生の視野が広がる。アウトプットは、自分の人生の輪郭をより明確にするための、素晴らしい魔法だ。