人生と感情
自分が今まで経験してきたことの中で、無駄なことなんて何一つ、ないのかもしれない。余すことなく、全てが自分の血肉となり、生き方を支え、自分を突き動かす、その原動力になっているのかもしれない。
去年、2020年は自分にとってとてもつらいことがあり、ずっと暗闇の中を彷徨っているような、出口のないトンネルをただボロボロになりながら歩き続けるような、そんな先の見えない苦しさがあった。暗闇の中で、泣き、もがき、なんでこんなに苦しい思いをしなきゃならないんだと、虚しさに打ちひしがれた。
年が明けて、2021年。ようやくその暗闇から抜け、光の差し込む温かい世界を歩き出した。振り返ると、長い道のりだった。とても、長かった。けれど、一瞬のようにも感じた。渦中で味わった苦しさも、哀しみも、こうして霧のように、時間が経てば消えていってしまうのだろうか。それはそれで、なぜか悲しかった。私は、私が味わった感情たちを、忘れたくないのに。
前を見る。自分の近くには、昔の自分のように己の人生や未来に悩む人がいた。私は彼らに何ができるのだろう。彼らに、何を与えられるだろう。
あぁ、そうか、と思った。
私は、これまで私の人生を生きてきた。その中で、去年味わったように、悩み、苦しみ、もがいた時期もたくさんあった。世間というレールから外れた自分は、自分の幸福とはいったい何なのか、未熟な頭で必死に考え、調べ、動き、挑戦し、学び、ときには転び、ときには失敗し、笑い、泣き、喜び、悲しみ、そんな中でかけがえのない仲間と出会った。気づけば、私の人生の視界は大きく広がっていた。
戸惑う彼らを見る。私は彼らに大丈夫だと声をかけてあげたい。君たちは、君たちの人生を生きる権利があるんだ。それはとても素晴らしいことなんだ、と。けれど、不安が大きいのは当たり前で、今の自分が何をやりたいかなんてわからないのは当たり前で。
私は、ただ彼らを見守ることしかできない。けれど、世間や社会常識から外れ、自分を獲得しようと、自分の人生を見つけようと、もがいてきた私は、彼らをじっと見守ることができる。そして、彼らに何があろうと、何が起ころうとも、それは彼らにとっての大切な人生の糧になるから、と。静かに、見守ることができる。どんなことがあっても、彼らは生きていける、と信じることができる。
私の今まで生きて獲得した経験は、彼らを安心の目で見守るという行為の、その根底を支えてくれている。何があっても大丈夫だよ、と、過去の自分に声をかけてあげたかった。その代わり、その声を、言葉を、私は彼らにかけることができる。
私がもがいてきたように、彼らももがくのかもしれない。けれど、いいのだ。常に、彼らは、彼らの人生の主人公なのだから。戸惑い、迷い、間違い、失敗し、泣き、笑い、学び、そしてまたひとつ、成長する。
私の人生の経験、その中で味わった、過去の感情たちは消えたわけじゃない。こうして、誰かを支えたいと思ったとき、その感情たちが一つにまとまって、私に「安心の目」を与えてくれる。安心して、彼らを見守ることができる。己から生まれる感情は、全て、私の味方であり、未来の誰かを優しく見つめるための、大切な要素であるのだと思う。
辛い過去も、それに伴う感情も、想いも、全て。どれだけ時間が経過しても、消化しきれないこともある。自分にとって、魂をえぐられるような、そんな、大きな経験であればあるほど。
けれど、その経験が、他人の為に役立てる瞬間が訪れたとき、もしかしたら全てはひっくり返るのかもしれない。無駄じゃなかった。ただ辛いだけじゃなかったんだ、と。暗い中を一人で歩き続け、彷徨いながらもがきながら、苦しみながら、いつか光が差し込むことを信じて、ボロボロになりながら、それでも歩みを止めなかったあの日々が――いつか、自分以外の、誰かの人生と交わり、その誰かの人生に活きる瞬間がやってきたとき――きっと、そのときの私は、温かい瞳で、あの日の孤独な自分を見つめながら、やさしく笑っているのだろう。