私はまだBLというものを知らなかったのかもしれない。
年末年始、体調を崩してしまって、布団の中でひたすら過ごす日々が続いた。
体調不良で思うように動けなかったとき、私は読書をしていた。動かなくていいし、余計なことを考える脳みそは作者が紡いだ文章とその世界に引っ張られるから、体調不良時によくある無限ネガティブループに入らずに済む。
なので、年末年始は布団にくるまりながら読書に明け暮れた。
そして、体調が回復した今もなお、読書欲は全く潰えることなく、むしろ増し増しで私の部屋には日に日に本が増えてゆく。
話は逸れるが、私はBL(ボーイズラブ)が好きだ。今までたくさんのBLを読んできた。しかしそれは漫画に限った話だった。
今まで、BL小説というものを手に取ったことがなかった。興味がなかったわけではなかったが、漫画という媒体で私の欲は十分満たされていた。
しかし、今回この年末年始の期間を経て生まれて初めてBL小説というものを購入し、読んだ。
――後頭部を鈍器で殴られたような、衝撃。虚脱感。絶望感。切なさとやるせなさ、それらの感情が一気に押し寄せてきて、言葉にならず、読了後にはしばらく放心状態に襲われた。
私はまだBLというものを知らなかったのかもしれない。
BLの真髄、というか、もはや男女とか男同士だとか、そういうものを全て超えて、人間の持つ『愛』の根源、愛し愛されることの醜さ、美しさ。その全てを見せつけられた。そんな衝撃を、とある作品を通じて出会ったので、ここで紹介したい。
『箱の中』著:木原音瀬
これを書いているのは、読了した翌日なのだが、未だに、うまく言葉に表せないような、虚脱感や空虚、そして衝撃が全身に残っている。
これまでBLに限らず、私はたくさんの小説を読んできた。そしてその中で『これは素晴らしい!』『これは面白い!』と思う作品にもたくさん出会った。
そんな魅力的な作品の中で、更に、私の全身の細胞を震わせては、身体のその底にあった感情を無理やり引きずり出しては、あっちに振り回しこっちに振り回し、と、どうしようもない感情を生み出すような、自分の中で『傑作』と呼べる作品は、実は、片手で収まりきるほどの数しかない。
そしてこの傑作(私の殿堂入り作品)は、これから先、きっと増えることはないだろうと、なんとなく、予知にも似た予感があった。自分にとっての『傑作』は、なかなか出会えるものではないから。
しかし、出会ってしまったのかもしれない、と私は思った。私の予想を何度も覆しては、どこまでも感情を振り回し、ここまで叩きのめすような作品に。そう、私にとっての『傑作』に。
私は作品紹介というか、ネタバレをせずに作品の魅力を語るのがうまくないが、それでもこの作品を布教するために、ちょっとだけ頑張ってみようと思う。
そして、この小説は確かにBLではあるのだが、BLに馴染みのない人でもお願いだから読んでくれと世界の中心で叫びたくなるぐらいにものすごい作品なので、BLに興味がなくても、ちょっとでもいいから以下の私なりの本の解説を読んでみてほしい。
主人公は堂野崇文。常識のある平凡な社会人だ。しかし物語は、彼が刑務所内で作業をするシーンから始まる。
堂野は強制わいせつ罪で逮捕されていた。電車内で痴漢をされたと同乗していた女に訴えられ、判決は有罪となり、現在、服役中である。
堂野は全くの無罪だった。しかし被害者の女や周りの乗客の証言によって、彼は有罪に覆った。冤罪でありながらも前科がつき、こうして刑務所内での生活を強いられている。罪がないにもかかわらず自分の人生が悪い方へどんどんと転がり落ちていき、彼の心は絶望と悲しみで覆い尽くされていた。
そんな彼と同じ部屋で過ごす、喜多川圭。彼が、冤罪という残酷な現実によって人や社会を信じられなくなった堂野の孤独な心を、少しずつ解きほぐすように救っていく。
無口で朴訥とした喜多川は、淡々と淡々と、そしてどこまでも献身的な姿勢で堂野に尽くす。堂野はどうしてそこまで自分に尽くすのか分からない。しかし喜多川は言う。
喜多川は愛というものを知らない人間だった。幼少期から『家庭』や『家族』と呼ぶにはふさわしくない、過酷すぎる寝床しか用意されておらず、普通の人間から見れば、ひどく残酷な、非道な環境で成長してきた人間だった。
だからなのだろう。喜多川は人の愛し方を知らない。喜多川の献身と思えた優しい態度はどんどんエスカレートし、次第に依存や執着と呼べるような形に成り代わっていく。
それでも、どこか不安定で、生まれたての雛鳥のような喜多川を放っておけない堂野。そしてただただ、堂野へ愛し尽くしたい喜多川。この作品は、そんな二人の『愛』の物語だ。
物語は全三部に分かれており、一部は二人の刑務所内での物語、二部・三部は堂野と喜多川二人ともが出所した後の物語だ。
この物語全編を通して語られるのは、喜多川圭という男の、実直で、ただただ一途で、一途で、切ないぐらいの、痛々しくなるぐらいの、堂野への『愛』だ。この喜多川の『愛』の描き方こそが、この作品の真髄であり、傑作たらしめている所以であろう。
(ちなみに、この作品はBLの中でも傑作中の傑作と言われている。つまり、傑作と思っているのは私だけではないということだ)
人を愛するというのはどういうことか。愛されるとはどういうことか。誰かひとりを、人生の伴侶として選ぶというのはどういうことなのか? 愛は人を救うのか? 愛したい人間がいるというのは、誰かに愛されるということは、本当に幸福なのか?
自分が誰かを愛したとき、同じ気持ちで、同じ温度や熱量で、相手から愛してもらえないことは多々あるだろう。どれだけ愛していても、相手が自分のものにならないことも、あるかもしれない。
そういうとき、あなたはどうする?
あっさりと諦めるか? 一縷の望みをかけて、相手に振り向いてもらえるよう、積極的にアプローチをするか? それとも、報われないならばとその想いを胸の内に秘め、ひっそりと相手を想いながら生きていくのか――その『愛』が、時間をかけてゆっくりと薄まり、そして消えていくことで、自分の中で決着がつくまで。
喜多川のように、ここまで自分の全てを注ぎ、その全身を搾り取るように、誰かをただ一途に一途に愛し抜く姿勢に、私は震え上がり、時に頭を抱え、そして激しく心揺さぶられた。読んだ誰もがそう思うであろう。それぐらい、喜多川という男の愛は深く、重く、常軌を逸している部分も、正直、多くある。だからこそ向けられた側である堂野は、その『愛』をどう受け取ればいいのか、そもそも受け止めてしまっていいのか、戸惑い、迷い、混乱し、悩む。
最後、二人は結ばれるのか。どういう形で二人の関係に決着がつくのか。
どうか、あなたのその目で、喜多川の愛と、二人の物語を、体験してほしい。