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あなたにとっての『ギブ』は何ですか?

『人に必要とされたいなら、まず“ギブ”だよ』

 ノートに走らせていたペンの動きが止まった。スマートフォンから流れてくる音声に、意識を集中させる。

『人から何かをしてもらいたいなら、まずは自分から与えないと。人に親切にしてもらえたら嬉しいし、その人のこと好きになるでしょ? 小説もそれと一緒。ギブだよ、ギブ』

 そのとき、私のスマートフォンから流れていたのは、とあるプロ作家のTwitterのスペースの音声。その方が話されていたことがどれも勉強になることばかりで、私は手元のメモに会話の内容を片っ端から書き殴っていた。

 その中でも特に印象に残った言葉。

『小説でもね、結局ギブ。ギブ、ギブ』

 音声配信が終わり、乱雑なメモ用紙を目の前にし、腕を組んだ。私の脳内に浮かび上がった一つの疑問。

 小説においてのギブって、何だろう?

 ギブ、すなわち『与えること』

 例えばこれを人間関係に置き換えると分かりやすい。困っている人に手を差し伸べる、だとか。素敵だな、という部分を褒めるとか。気づいたら必ずこちらから先に挨拶をするとか、接客ならばとびきりの笑顔で対応するとか。

 しかしこれを小説に置き換えると、私は途端に分からなくなった。

 ギブ。与えること。与える? 与えるって――何だ? 

『小説』と『与える』こと。私にとって異次元のものだったその単語たちが、隣同士に並べられた。全くピンとこなかった。こなさすぎで、逆に私の脳みそに強烈に刻み込まれた。

 私はそれまで考えたことのないことを投げかけられたのだ、と、後になって気づいた。

 小説を書き始めて9年経つ。受験勉強のストレス解消から始まり、自己完結の趣味になり、私の紡いだそれが他人を喜ばせられることを知ったとき、心の奥深くがぶるりと震え、誰かにとっての忘れられないものを描きたいと思うようになった。

 ただ、そうであっても、私にとって小説は『究極の自己満足』であって、それ以上でも以下でもなかった。心底、楽しんで描いて、結果的にそれが自分のみならず他人まで巻き込んで心を動かせたのなら、これ以上の喜びはない。

 そして、このスタンスは変えたくないし変える必要は正直ないと思っている。何故なら、このやり方だったからこそ、完璧主義で頑張り屋の私でも、執筆という、とてもエネルギーがかかることを楽しく続けてこられたからだ。うまくなりたい、とか、もっと面白い物語を書きたいとか、そういったことはもちろん望んでいたものの、だからといって特訓めいたことはほとんどしたことはない。私自身が『楽しんで描く』ことを何より優先してここまでやってきた。

 だから、この『楽しんで描く』はこの先も絶対に譲りたくない。今まで、『好き』という感情を噛み締め味わいながら、描きたいときに、描いてきた。それでも、昔に比べたら見違えるほどうまくなれたし、面白い物語を描けるようになった。楽しみながらでも成長できる、というのは私にとって貴重すぎる成功体験だった。

 そんな私に降り注いだ『小説としてのギブとは?』という疑問。

 こんなことを、考える必要はないのかもしれない。考えなくとも、小説は描ける。

 今まで通り、自分の描きたいことを、正直に、忠実に、楽しみながら描いていけばよい。しかしそれと同じぐらい、私は最近『もっと面白い作品を描きたい』『もっと魅力的な作品を生み出したい』という気持ちが日に日に膨らんでいる。

 スルーしようかと思ったがどうしてもできなかったこの問いを、私は暇さえあれば考えていた。

 読者は、小説を手に取るとき、何を求めているのだろう? ここではない架空の世界を描いた物語に、お金を払ってまで、何を期待しているのだろう。

 私自身もそうだ。小説が好きだ。誰かの紡ぐこの世に存在しない物語や人物に触れる瞬間が好きだ。

 小説でなくとも、ドラマや映画、アニメもそうだ。これを読んでいる人の中には、ドラマが好きな人や、映画が好きな人もいるかもしれない。

 そんなあなたに聞いてみたい。

 あなたは、何故それを見るのですか?

 わざわざ時間を作ってまで、お金を払ってまで、何故『物語』に触れようとするのですか?

 フィクションに、繰り広げられるドラマに、何を期待しているんですか? 何を、求めているんですか?

 視聴者や読者側であるのなら尚更、こんなことを考えたことはないだろう。きっと答えは人それぞれだと思うし、述べられる解答すべてが、正解であると思う。

 私の中で、色んな可能性、思考、回答が浮かんでくる。そのどれもがおそらく正解であり、そして、どこか自分の核心を突くのには惜しいというか、まだ足りない、どこか違う、そんな言葉にできないもどかしさみたいなものが常に漂っていた。

 そして、ある時ようやく気がついた。

 読者として、私が求めているものは何だっただろうと考えたとき、自ずとそれは浮かんできた。

 私は、物語が好きだ。

 そして、今までの体験を思い返したとき、物語に触れていて、一番高揚する瞬間は、『裏切られた時』だった。

 裏切られた、というのは、すなわち、私の脳内には全くなかった筋書きを叩きつけられる、ということだ。一ミリも、その可能性すら掠ることのなかった物語が、そこに描かれた瞬間、私はどうしようもなく高揚するし、どうしようもなく物語を愛してしまう。

 裏切られる、それは、平たく言ってしまえば『予想外』であること。

 そうだ――そうだった。

 私はようやくすとん、とした気持ちになった。私は、いつも心のどこかで裏切られる瞬間を待っている。だから裏切られたら心底嬉しいし、自分の予想を超えなかった物語には、不完全燃焼な気持ちが残ってしまう。

 では、そんな私の、作家の私にとっての『小説においてのギブ』とは一体何か。

 それは――読者にとっての予想外を提供すること。

 ようやく生まれた自分としての解答に心が満たされるのと同時に、わざわざ言葉にするまでもない解答だな、とも冷静に思う。

 だってそうだろう? 読者や視聴者にとって予想を超えない物語なんて、たぶんきっと、つまらない。予想を超えるから、それによって予定調和だったはずの自分の感情がここぞとばかりに振り回されるから、だからこそ人は皆『物語』にのめりこむのではないか?

 私はこれから先『楽しく描く』というスタンスが変わることが、おそらくない。ただ、これからの私は『楽しく描く』のと同時に『読者にとっての予想外を今私はこの物語を通じて与えられているだろうか』と考え続けることになる。果てのない自問自答を続ける。

 これは一種のプレッシャーだ、と思う。それを自ら課す。馬鹿みたいかもしれないが、この挑戦にどこか覚悟が決まってドキドキしている自分もいる。

 もちろん、超えられないときもあるだろう。それならば、そのときはそれでいい。『超えられませんでした〜』と、白旗を上げてしまおう。そういう経験もまた、面白いのではないかと思う。

 また、生み出すこと、存在すること自体が『ギブ』である、という考え方もあるだろう。それは私も大賛成だし、生きているだけで素晴らしいと思う。

 ただ、もしその上で自分のできるギブは何だろうと、自分だからこそできるギブは何だろう、と考えてみるのも面白いかもしれない。

 家族の一員として、恋人として、発信者として、会社員として、友人として。

 今あなたの向こう側に見える人たちに、あなたができることは何だろう?

 それは、手を差し伸べることかもしれないし、ただ何も言わずに寄り添うことかもしれない。周りの人の顔色を気にせず自分の意見を言ってみることかもしれないし、逆に、空気を読んで周りの言葉に耳を傾けることかもしれない。

 例えばその答えが、オリジナリティに溢れていなくても、問題はない。だって、その答えを、あなたなりのギブを、あなたが行うことに意味があって、その行動自体はありふれたものであっても、この行動をとるあなたはこの世で唯一無二の美しい存在であり、あなたなりの導き出した答えに、その姿勢に、あなたらしさという唯一無二の輝きが芽生えるのだから。

 未知の行動を起こそうとすると、迷いや不安が芽生えることがある。そんなとき、私を含めて人はどうしても『正しさ』に縋りたくなる。無意識に『正解』を求めている自分に気がつく。

 そんなときに、私は私が決めたギブに立ち返ろうと思う。

『楽しく描く』こと

 そして

『読者にとっての予想外を提供する』こと。

 今自分がやろうとしていることは、それに則しているだろうか、と。たとえ、完璧に則していなくても、極力そこに近付こうと努力しているか、ということを。

 私たちは人間だ。迷いや不安なんてものは、生じること自体が当たり前で、そこで必要以上に自分を貶める必要はない。

 だから、何度だって問いかけよう。

 あなたにとっての『ギブ』は、何ですか?

 その答えは、きっと、あなたにとって最高のあなたを創り上げるための、大きな一歩になる。

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