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いにしえのオタクが片思いの暴力性に物申す話

昨日の記事、かなり長いけれど、あれでも推敲して1200字ぐらい削っている。

後になって、削らなければよかった……と後悔したので、今日は削らずに書くことにする。

『美しい彼』のシーズン1を見始めた時、

ーーあ、これは流行るわ……。

としみじみ感心した。

同性愛とかボーイズラブを超えた「片思いの暴力性」が描かれていたからである。

そう、片思いは暴力だ。
片思いしたこともされたこともある人なら、わかるはず。
好意というのは、相手の都合も考えず、こちらが一方的な思いを抱くところから始まる。

そして、今世で女性として生まれてきたのであれば、異性からの好意がどこか暴力的なものを孕んでいることに、かなり初期の段階で気づかされるのではないだろうか。

私たち女性が男性から好意を向けられる時、大抵その好意の矢印は上から下をを向いている。

守ってあげたい。
養っていきたい。
幸せにしたい。

もちろん、いつの時代も例外はある。
尊敬できる女性が好きな男性もいるし、私自身もそういった好意を向けられることはある。
特に最近はものすごい勢いでジェンダーに対する認識が変わりつつある。昨日の常識は今日の非常識だ。

だが、男性の本当の本音のところ、普段は絶対に表には見せない、ひょっとしたら無自覚であるかもしれない心の底では、やはり女性を「か弱き者」「自分が守るべき者」「自分に従うべき者」として見ていると感じざるを得ないのだ。

愛されることは嬉しい。
けれど、私は別に「弱い者」になりたいわけではないのだ。

そんな私にとって、BLの世界で繰り広げられる「男性が男性を好きになる世界」は、日常の中にある「下方恋愛」を忘れられる虚構の世界だった。

実際の同性愛ともまた違う、一種独特なBLの世界では「女だから可愛く振る舞わなければ」もないし、「男だから強くあらねば」もない。

お互いがお互いの持っている美点(時には汚点)を個人の特性として愛し、そして愛される対等な世界がそこには広がっていた。

だが、ジェンダーに対する意識がものすごい勢いで更新され、BLが市民権を得てくると、とりあえず顔の綺麗な男の子が2人でキャッキャウフフしてればいいだろう、という底の浅い作品が世間に流れるようになってきた。

いにしえのオタクとしては「そういうことじゃねえんだよなあ」と文句の一つも言いたくなる。

だが『美しい彼』のドラマでは、ちゃんと一方的な片思いは暴力であり、気持ち悪いものであり、受け入れられ難いものである、ということが描かれていた。
清居がヤンデレでその一方的な片思いを「もっと……!」と求めたから、二人はめでたく結ばれたが、普通なら成立しない関係である(だからこそ尊い✨)

ーーこれは下方恋愛に疲れていたり、そもそもする気がない女性たちの心をわしづかみするよねえ。

どちらも譲れない自分の世界があるという意味で、双璧を誇る俺様主人公二人が織りなすドラマ。

そして、平良の「別に男子は好きじゃない。女子も好きじゃない。清居だけが好き」というのは究極の愛の告白だなあと思う。

水城せとなの『失恋ショコラティエ』で言うところの「ハムスターは同じカゴの中にいるハムスターとつがいになる」恋愛ではなく、非日常の夢物語。

それこそが、私がBLに求めるものであると再認識させられた。

そういえば、同じ水城せとなの『脳内ポイズンベリー』の舞台版再演で、八木勇征くんは吉田を演じたのね。

八木くんがあのお堅い議長吉田を!?と思うと、観に行きたかったと今さらながらに後悔している。と思ったら、Blu-ray出てるの?ええっ?

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