森下佳子版『大奥』の奥深さ
NHKドラマ『大奥』のシーズン1が終わった。
シーズン1では家光・有功編、綱吉・右衛門佐編、そして吉宗編が描かれたが、私の一押しはなんと言っても綱吉編である。
俳優陣の持ち味がピタリと役にハマり、終盤の悲劇に向けて緊張感が高まっていく構成が素晴らしかった。
今回の綱吉編は原作に比べると、山本耕史演じる右衛門佐のキャラクターが少し異なっている。山本耕史は将軍である綱吉に対してかなり忠節を尽くしてみせ、いついかなる時も最大限の礼節をもって接している。
原作の右衛門佐はもう少し露骨に野心家で、貧しさを経験した者特有のギラついた魅力があるが、山本耕史はそれを綺麗に漂白して、公家のプライドとして表現していた。
随分とお上品な右衛門佐だなと思いながらドラマを見ていたが、物語の終盤になって山本耕史のキャラ作りが生きるのを見ることになった。
仲里依紗演じる綱吉は将軍でありながら、自分は世継ぎを生むだけの存在だと自分を卑下している。そのため小さい頃から欲得抜きで自分を愛し育ててくれた父親・桂昌院がいくら耄碌しても逆らうことができない。
周りが次の将軍に甲府宰相・綱豊をいくら推しても、桂昌院は自分と寵愛を競った男の孫であるという私怨から絶対に認めようとしない。
娘の綱吉にも紀州藩主・綱教を後継ぎにせよと再三再四言い含めている。
その父親から自立して、綱吉が己の人生を歩み始めるのが綱吉編のクライマックスだ。
綱吉は右衛門佐に「自分を欲得抜きで愛してくれるのは父上だけだ」と幼い頃の思い出を語る。よしながふみお得意の「愛に飢えた娘の独白」である。それだけでもう泣ける。
ところが、森下佳子の脚本はそれだけで終わらない。
山本耕史演じる右衛門佐に「桂昌院様こそ、己の望みを叶えるために綱吉様を利用している。最も欲得ずくなのはあの方だ」と断言させる。
物語を愛に飢えた娘のファンタジーで終わらせず、その先の現実まできちんと落とし前をつけさせるあたりがさすが森下佳子である。
それに対して綱吉は「そなたは体を差し出さずに力を得てみたいと思ってここに来たのだろ?」と踏み込む。「とどのつまりは父上と同じ欲得ずくではないか」と右衛門佐に向かって吐き捨てるように言う。右衛門佐は心外だというように眉を動かすが、そこで場面は一転して寝所のシーンに変わる。綱吉は夜伽の相手である若い男に殺されそうになり、間一髪でお側の者に助けられる。
その後で右衛門佐が自害しようとする綱吉を止め、遂に自分の思いを成就するという流れは原作もドラマも同じだが、山本耕史演じる右衛門佐にはずっと己の恋情を耐え忍んできた説得力があった。
綱吉の孤独も、その周りの人間関係も、父親との欲得ずくの関わりもすべて見抜いていながら、将軍に対する礼節を常に持っていたからこそ、自分の気持ちを押し隠してきたんだなあと納得するものがあった。
なるほど、だから原作よりもお上品でどこか遠慮がちな右衛門佐なのだと、そこで合点が行った。
原作の右衛門佐は支配欲や自己憐憫の混ざった複雑な感情で綱吉を愛しているが、森下版の右衛門佐はもう少しピュアな恋情といった感じである。その辺りのきめ細かさを表現する山本耕史はすごい俳優だなと改めて思う。
さて、シーズン2は幕末までを描くということだが、幕末にはまたもや「愛に飢えた娘」である和宮が登場する。彼女を誰が演じ、どのような人物像となるのか楽しみである。