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自分の中の加害性に気づいた話

2年ほど前からご縁があって、宝塚歌劇団にハマっている。

その宝塚歌劇団で、劇団員の方が亡くなられるという痛ましい事件が起きた。

小さい教育機関を管理・運営していたことがある身としては、事件の第一報を聞いた時に「ああ、初動が失敗だったか…」という取り返しのつかない思いが込み上げてきた。

人が集まるところでは、日々さまざまなことが起こる。そのさまざまなことは、通常であれば内部で自浄作用が働いて表に出てくることはない。

それが外部(今回の場合は週刊誌)に出てきた時点で、自浄作用が働かなくなっているのだから、管理側としては「初動」でも、事態としては「最終局面」である。

だからこそ、何かトラブルが起きた時には「初動」がすべてである。ここでトラブルの芽を摘んでおくことが、後々のすべてを決定すると言ってもいい。

教育機関の管理側として、数々のトラブルを処理してきた身として、まずはそう思った。
「初動」で適切に対応できなかった、または動いたつもりが全くの的外れだったことが、今回のことを引き起こしたというのが、第一報を聞いた時の正直な感想だった。

事件が起きてからしばらくは、後に続かないようにと祈るような気持ちで毎日ニュースを眺めていた。
いや、今も心のどこかでビクビクしていて、一日に何度も歌劇団のホームページを見に行ってしまう自分がいる。

一社会人としての私は、自らの経験と照らし合わせて、そのように今回の事件を見ている。

一方で、一個人としての私は、今回の事件を通じて、なぜ自分がこれほどまでに宝塚に惹かれるのだろう、ということをもう一度、考え直すことになった。

ご縁があるとはいえ、なぜこれほどまでにのめり込むのか?
特に私自身、演劇経験があるわけでもなく、ミュージカルが好きというわけでもない。普通の一市民である私が、なぜこれほどまでに宝塚に惹きつけられるのか?

一言で言うと「全員が尋常でないぐらい一生懸命に舞台に立っている姿に感動したから」である。

そんなのは他の舞台であっても、ミュージカルであっても同じだろう?と思われるかもしれない。

でも、宝塚は飛び抜けて違う。何しろ舞台に立っている組子達の熱量が違う。端にいるモブ役まで全員が手を抜かず芝居をしているのは当然として、その真剣さが尋常ではない。

間に30分の休憩を挟んで3時間、入れ替わり立ち替わり70人ほどの組子達が歌って踊ってお芝居をして、一糸乱れぬフォーメーションで夢の舞台を創り上げている。その熱量たるや只事ではない。

さらに、トップと呼ばれるスターのオーラが半端ではない。私は別にスピリチュアルな人でも何でもないが、センターに立つ男役トップは、誰がどう見ても尋常ではない光を発している。
それは衣装が豪華とか、ライティングがどうとか、そういうことではなく、もう存在自体が異次元なのである。

余談だが、同じようなオーラを感じたのは、仙台空港で同じ飛行機になった阪神の岡田監督ぐらいだ。
テレビで見ると、どこの好々爺かと思うような親しみやすい雰囲気を醸し出している岡田監督だが、間近で見た時は、辺りを祓うような威厳があり、思わず一歩下がってひれ伏しそうになったぐらいだ。

ま、それはともかくとして、今回の事件が起きた時に、宝塚の舞台が異常なまでに発光しているのは、一人ひとりが己の身を削って舞台に立っているからだと思った。

本当のところはわからないし、私の思い過ごしかもしれない。けれど、あの舞台から発せられる尋常ではない光と熱量は、タカラジェンヌ達一人ひとりが自分を犠牲にしているからこそ可能なのだ。
これまでも薄々感じてはいたことではあるけれど、それを改めて突きつけられた気持ちだった。

そして、あの事件があってから観に行った東京宝塚劇場の公演でも、タカラジェンヌ達は変わらない光と熱量を舞台の上で発し、そしてとんでもなく輝いていた。

二幕のショーでの客席降りで、近くに来たタカラジェンヌ達は同じ人間とは思えないほど美しく、まさに「フェアリー」だった。辺り全体にキラキラした粉が舞っているように見えた。

私は夢中で一番近くにいた下級生の娘役さんに手を振った。娘役さんは一瞬、驚いたように目を丸くして、それからにこやかに微笑んで手を振り返してくれた。

天使だと思った。

でも、この素晴らしさも美しさも、彼女達が身を削って体現しているのかと思うと、申し訳なさで泣きたくなった。
その時、私は自分の中にある「加害性」を心の底から自覚した。

一人の人間が身を削って体現している輝きを肯定する私もまた、同じものを自分の内に秘めているのだ。

もちろん、私は一社会人としての立場を忘れることなく、自分がしている努力を他人に要求することはないし、常に常識と法律、そして時代感覚のバランスを取りながら働いている。

でも、自分の仕事に関しては、成果を出すためなら努力を努力とも思わず、どこまでも努力を続けるワーカホリックな部分があることは自覚している。
もちろん、組織の一員なのでコスパも計算の内だし、むしろコスパとのギリギリのせめぎ合いの中で、成果を出すことにハマっているとも言える。

だから、最近の何事も無理をしない風潮の中ではいつも孤独である。そもそも頑張っていること自体が時代遅れだし、そんな自分を畏怖の目で見る人もいれば、馬鹿にしている人もいるだろうことはわかっている。

なんであんなに真剣に仕事してんの?
結婚もしてないし、子供もいないから?
自分の存在意義を仕事に見い出してるの?
哀れだね。

でも、そんな風に思われる孤独を、宝塚を観ている間は忘れられるのだ。
ここには私以上に頑張って、輝いている人達がいると、そう思えるから。

一社会人として、今後の劇団側の対応には大企業としての矜持を見せてほしいと思っている。
起きてしまったことは取り返しがつかないからこそ、今後の対応は何をしても手遅れというところからの厳しく、かつ正しいものが求められる。
そして、明らかに現代のコンプライアンスにそぐわない部分は改革してほしいし、実際にこれを機会にそうしようとする動きが、報道の間からチラチラと垣間見える。

そして願わくば、私が心惹かれている宝塚の輝きの部分は残ってほしいと思っている。

あまりにも都合のいい願いかもしれないが、努力したい者には努力する自由を、できない者にはできないと言う自由を、風通しの良い組織になってほしいと願っている。

そして何よりも、亡くなられた方のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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