家族のこと。母の話。

今日は母について記しておこう。

母について書くのは、
実はすごく苦手で胸の奥がぎゅっとなる、
未だにそんな感覚になる。

母81歳。
私が小さい頃からいわゆる精神疾患を抱えており、まともな会話をした記憶があまりない。
精神疾患は、
本人に自覚があまりないから厄介だ。

3人姉妹の長女で田舎町で育ち、
薬局を経営する厳格な父(わたしにとって祖父)のもと、薬科大学卒業後は薬剤師として働き、結婚後は専業主婦となる。
ヒステリック、他人を蔑むような発言、先入観が強く譲らない頑固なところ、現実と空想が入り混じった物言い、実は寂しがりや。
そんな性格だ。

母との楽しかった思い出はあまりないし、
思い出せない。

小さい頃から今日も怒られるんじゃないか、
叩かれるんじゃないかと怖くて、
ずっと顔色を伺っていた気がする。どうか今日は何事もなく終わってほしい。そんなことをよく願っていた。

中学2年の頃だ。父は単身赴任で不在。母と兄と私の生活だった。部活の合宿から帰ってきたある日、家の物が少し無くなっていることに気づいた。その晩も徹夜で母は家のあらゆる物を捨てはじめた。あまりに異常な姿に怖くなり、父に話をした。久しぶりに帰宅した父は、自分の書斎にあった書類、タンスの中身、大切にしていた物が無くなっていたことに激しく怒り母を罵倒した。支離滅裂なことを言う母。途方に暮れたわたしたち家族は、母のふたりの姉妹を呼び緊急家族会議をした。

叔母ふたりは、当時中学生だったわたしをすごく心配してくれて、たくさん話を聞いてくれた。『叔母さんたちがわたしのお母さんだったらいいのに。』何度も思った。未だに思う。親子の血のつながり以上に勝る関係性はあるのだと。

高校、大学、社会人になっても、母との関係は良くなることはなかった。

叔母たちとは定期的に連絡を取っていた。ある日2番目の叔母から手紙が届いた。

内容は、いつ自分が死ぬかわからないから私に母のことを伝えておく。ということだった。

大学入学とともに上京、家族と離れて友人もいない寂しい生活。ほとんど両親は来てくれず、長女としての意地があって、絶対泣き言を言わなかったけど、きっと寂しかったし、東京という場所にすごく疲れていたんだと。不器用な性格で、人付き合いも上手くないから。お母さんのこと許してあげてほしい。きっとお母さんも苦しかったし、今でも苦しんでいるんだと。あの時、母が半狂乱になって叔母たちが駆けつけてくれたとき。母は、叔母が母に送った聖母マリア様のポストカードを握りしめていたことを今でも忘れられないのだと。叔母は敬虔なクリスチャンで、聖書やら絵本やらをたんまりと家に送ってきたことがある。その時に同封したポストカードだったのだ。叔母は、母が何かに縋りたいくらい苦しかったのではないかと、その頃感じていたようだ。

別に怒ってるわけではない。許さないなんて思ってない。ただ、言葉に詰まってしまう。次の瞬間には涙が溢れてしまう。わたしも到底厄介だ。

あと母は何年生きるのだろう。母の最期、私は涙を流すのか。肩の荷が降りたという安堵感に満ちるのだろうか。それともお母さん、苦しかったね。ごめんね。って言ってあげているのだろうか。

#母の話



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