何者にもなれなかった私
才能を持つ限られた人への憧れ
小さい頃から、芸能人やスポーツ選手など、テレビに映る方々に憧れた。あの人達は多くの人の生きる希望になっている。芸能人は笑いかけるだけで、多くの人を幸せにしている。他人の生きる希望になれる存在、他人に良い影響を与えられる存在。優れた才能を持って生まれた選ばれし存在。
そんな人間に私もなりたいと子供ながらに思った。
中学生くらいになって、大企業の社長・スポーツで活躍する一流選手・由緒正しい家柄に産まれた一族にも憧れを抱くようになった。それと同時に、自分にはあまり大それた能力がないことを自覚してきた。中学受験をしたのだが、希望する学校には不合格だった。第一志望ではない学校に進学したが、そこですら自分は所謂優秀な部類ではないことが何となくわかった。容姿が秀でている訳でもない。中学生にして自分には能力がないことに絶望を感じたのだと思う。
自分への諦念
それ以降、中学・高校は生きる理由を見つけるのが難しかった。価値のある特別な存在になりたい。有能だと思われたい。誰かを元気づけたり、必要とされる存在でありたい。でも、自分はきっとキラリと光る何かを持っていない。家柄も実家の資産も、遺伝的身体要素も自分では選べない。つまり、生まれながらにして自分は持っていない人間の部類なのだと悟ったのです。
今思えば、中学生で諦めてしまったのが良くなかった。努力しても得られないものは確かにあるが、勉強や人脈、自分の思考等、努力すれば磨きがかかるものも沢山ある。もっともっと、努力すれば良かったと今では思う。社会の頂点で活躍する方々と私は人種が違うと悟り、努力を怠り、自分の人生から逃げてしまった。30代になった今でも諦めずに向上すべきだと思う。ただ、今からバリキャリ女性と同等に働けるかと言われたら、不可能だ。今の自分が持っているモノで勝負するしかないのである。
学歴主義とコンプレックス
兄と私に中学受験を促すくらい、母は学歴主義に傾倒していた。そして、私も幼いながらにその思想を受け継いだ。偏差値の高い大学・一流と言われる大企業で働いている人は優秀で、綺麗な人生で勝ち組なのだとインプットされて育った。
勉強すること自体は得意ではなかったが、頭が良くなりたいという願望はあった。何故なら、勉強は自分の努力がシンプルに結果に反映されるため頑張りがいがあると思っていた。勉強に他人は影響しない。自分ができるか・できないかの問題だけだから。
現役で希望する大学に合格できなかった私は浪人することを決意したが、その根底には「名のある大学に入れないと私の人生は終わり、価値がない」という思いがあった。その思い込みが原動力となり、浪人を経て希望する大学に合格することができた。努力から逃げた私も大学受験だけは頑張ったのだ。
浪人時代に通った予備校の先生に「入学してからが始まり。遊び呆ける学生になるな。」とあれだけ口酸っぱく言われていたのに、私は大学入学以降勉学を怠ってしまった。サークル活動に明け暮れ、アルバイトに精を出し、勉強は二の次だった。自分の将来を考えずに過ごした結果、就活は散々な結果だった。大学受験で浪人するくらい効率の悪い私なのだから、就活も早く動くべきだったのだ。新卒では許容範囲かなという企業に就職したがフィットせず、何度も転職を繰り返した。最終的に自分の理想とする職種・年収に近づけたと思っているけれど、転職回数に対して未だにコンプレックスを抱いている。
これから
という訳で、学校を首席で卒業できるような人にもなれず、一流企業に勤める人にもなれず、自分の好きを追求し続けられる人にもなれず。私は何者にもなれなかった。30代後半にして今もそう思っているのは変わらない。これから自分の人生、何を目指して生きていこうか。
母親としてだけでなく、私が私として何を生み出せるのか。
日々考えている。
家族の存在
中学生以降、自分の能力に絶望する私は生きる理由を見つけられなかった。
有名人がこの世を去ったニュースを見ると、なぜこの人が亡くなって、私が生きているのかとさえ思った。私よりも生きる価値がある方が何故なくなってしまうのか。私が先に命を落とすべきだと感じていたのだ。命の重さを比べてしまう価値観は私の自己肯定感を益々蝕んでいった。
だが、そんな考え方に変化が起きた。数年前に私は生きる理由を見つけることができのだ。
それは結婚し、自分で選び創った家族の存在。
パートナーと娘にとって、現在私は重要な家族の役割を担っている。私が体調を崩せば、家族の歯車が狂う。有名人の規模とは比べものにならないが、家族にとって私は必要とされる存在になれた。何者にもなれなかったけれど、この二人にとっては何者かになれたのかもしれない。
また、パートナーの人生を隣で見守り共に歩みたいという願望ができた。娘の成長をできるだけ長く見守りたいという願望ができた。そう、生きるのが辛いと数年前まで思っていた私は今、生きたいと思っている。誰かに命を譲る気持ちはなくなったのだ。
一方で、私の生きる理由を100%家族にするのは危険だと思っている。娘はいつか自分の道を自分で選び巣立っていく他人であるから。
パートナーとは長く添い遂げたい。万が一彼に何かがあったらと思うだけで怖い。そんな存在と出会えたことは幸せだけれども、私の生きる目標全てが彼がいないと成立しないことだとしたら、それは依存になると思っている。
大切な存在である彼と娘と共に過ごせていることに感謝しながらも、私は私の人生の目標と楽しみを見つけていく必要がある。現在はその目標探しの最中といったところでしょう。
また書きます。