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【小説】#27 怪奇探偵 白澤探偵事務所|はんださま

あらすじ:丸井から紹介された依頼人から、地元の神様について調べて欲しいという依頼を請けた白澤と野田。「はんださま」と呼ばれるその神様を祀る土地には毎年死人が出ていて――。

↓シリーズ1話はこちら↓

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 思い返せば奇妙な夏だった。
 しとしとと雨の降る音がしている。冷たい空気と金木犀の匂いが秋だと伝えてくれていた。じっとりとした暑さは雨が降るごとに夏は鳴りを潜め、すっかり過ぎ去ってしまった。
 完成しない報告書が目の前にある。本当にあった出来事なのだからそのまま書けばいいのだが、どう伝えていいのかわからずに手が止まってしまう。丸井さんが待ちかねているのはわかっているのだが、だからこそ書くべきことと書かないことを選ばなければならない。
「野田くん、そろそろできそう?」
「……あと少しです」
「手を貸そうか?」
「いえ、できます」
 白澤さんの手を借りるのは違う気がして、再び報告書に向き直る。こういうときは、何があったか頭から思い出すのがいいだろう。あの依頼を受けた日から思い出そうと、自分の記憶を紐解いていくことにした。

 雲一つない晴天だった。
 じりじりと照り付ける日差しを浴び、蝉が延々と鳴く。そういえばこういうのが夏だったな、とぼんやり思った。ほんの少しの間、外に出ただけでも汗が浮かぶ。白澤さんから日傘を持たされてからは暑さも幾分かましにはなったが、晴れの日に傘を射すのはまだ慣れない。
 白澤さんに頼まれた用事を済ませ、事務所へ戻る足は何となく重い。暑いというだけでこうも動きづらくなるのだから、熱が人間に与える影響は大きいのだと改めて考えてしまう。
 俯くと、額に浮かんでいた汗が流れた。地面に落ちる影の色が随分濃くて、ぼんやり地面を見てしまう。
 ふと、視界の端にひっくり返った蝉がいることに気付いた。足を開いている蝉はまだ生きていると丸井さんから聞いたことがある。いや、足を閉じていたらだっただろうか。いまいちはっきり覚えていない。
 どちらにせよ、道路に転がっている蝉はいずれ踏みつぶされるだけだ。平らになった蝉を見るのは何となく気分が悪く、つま先で弾いて街路樹の植え込みへ転がしておいた。
 事務所に戻る前に、玄関に取り付けたポストを覗く。いくつか、郵便物が入っていた。あまり大きくないポストに紙が束になっていると取り出しづらく、中身を一枚ずつ引き抜いていく。
 郵便物のいくつかはダイレクトメールで、いくつかは遠方からの依頼が入った封筒だ。御礼のはがきが入っていることもある。ついこの間までは、暑中見舞いも見かけた。
 その中でふと、写真付きのはがきに目が留まった。犬と猫の写真がプリントされていたのだ。ダイレクトメールにしては画質がよくなく、御礼のはがきにしては単調すぎる。何となく見覚えのある犬と猫で、どこで見たのか思い出そうとしてはっと気付いた。
 いつだか、犬と猫に擬態をした龍を預かったことがあった。預かった頃と比べると、写真の二匹は随分大きくなったように思う。犬の垂れていた耳はぴんと立ち上がり、猫はすらりと長い手足を床に投げ出して寝転んでいる。けれど二匹とも視線はカメラを向いていて、写真だけ見ればペットのいるありふれた風景という感じだ。写真の二匹に被らないように、また宜しく、と達筆な字が書き添えてある。
 とりあえずこれを白澤さんに渡さなくてはならない。玄関を開けて事務所に入った瞬間、ひやりとした冷風に迎えられた。
「ただいま戻りました。あと、郵便です」
「お疲れ様。確認しておくよ」
 ダイレクトメールを除いた郵便物は全て白澤さんの手に渡すことになっている。白澤さんもまた、写真付きのはがきに気が付いて手に取った。以前事務所にきた犬と猫を見て、僅かに表情を和らげる。
「前に来た子たちだね。元気そうだ」
「でかくなってて驚きました」
「成長の速度も似せられるらしいからね……野田くん、少し休憩しておいで。水分補給も」
 ちらと白澤さんが俺を見たあと、こめかみから汗が落ちた。涼しい室内に入って暑さはかなり落ち着いたが、失った水分を摂取しなければ脱水症状が起きてしまう。熱中症予防だからと言う白澤さんに了解の返事をして、二階のリビングへ上がることにした。
 冷蔵庫に常備してあるスポーツドリンクを飲み、水分補給のついでに背中に張り付いて不愉快なシャツを着替えてしまうことにする。こういうときに自宅兼事務所というのは便利なのだと知ってしまった。もう通勤はできないな、とぼんやり思う。
 諸々を済ませてリビングを出る。この後の業務は夏の定例業務と言ってもいい護符の送付や、墓参り代行の予定を立てなくてはならない。どれから手を付けようかと悩んでいると、階下で電話の鳴る音が聞こえた。
 白澤さんの話し声に耳をすませる。営業の電話であれば常は短く断ってすぐ終わるのだが、それよりは長い。依頼の電話であれば訥々と説明をするのだが、そういう声音でもない。前にも白澤探偵事務所に連絡をしたことがある人からの電話だと考えるのが自然だろう。そうなると、思い浮かぶ相手は自然と一人しかいなくなる。
「野田くん、これから丸井さんがいらっしゃるって」
「了解です。コーラ確認しておきますね」
 予想を立てているうちに電話は終わっていた。やはり、先ほどの電話は丸井さんからのものだったらしい。
 お得意さんである丸井さんが来るときは、直前に電話で予告がある。事務所に丸井さんが来るときの大体は雑談なのだが、雑談の中から何らかの依頼を受けることが多い。この後は来客も切迫した予定もないから、丸井さんの用件が依頼でも雑談でも問題はなさそうだ。
 さて、問題は用件が何であるかである。ただの雑談ならいい。ゲームに付き合って、と言われることもある。サークルの方で仕入れた噂を確かめにいったこともある。鑑定物を持ってきたこともあった。予想がつかない分、丸井さんの来訪を楽しみにしているところがほんの少しだけある。
 事務所の冷蔵庫の中に丸井さんをもてなすための炭酸飲料があるのを確認して戻ると、玄関のベルが鳴った。早い到着である。
 丸井さんであることは明らかで、出迎えに玄関に出れば白いタオルを首に結んで鍔の広い帽子を被った丸井さんがいた。
「こんにちは。お待ちしてました」
「野田くん、お疲れ様! 突然ごめんね、ちょっと急いでたものだからさ」
 玄関を開けたとき、丸井さんの後ろに見知らぬ人がいることに気付いた。どこか居心地悪そうな顔をした女性が立っている。丸井さんが人を連れて来たのは初めてで、少し面食らってしまった。
「……どうぞ、事務所は冷えてますんで」
「ああ、助かっちゃうな! 僕もだけど、彼女もしんどそうだったからさ。今日はね、サークルの子からちょっと相談されてて……僕はあんまり役に立てなさそうだから白澤くんならわかるかもって思って来たんだ」
「オーナーもお待ちです。あの、お連れの方も応接の方へどうぞ」
 帽子を取った丸井さんの顔があまりに真っ赤になっていて驚く。これは濡れタオルか何かで体を冷やしてもらった方が良さそうだ。女性の方は、逆に顔色が悪い。緊張からなのか、俯いたままだ。
 事務所の中に案内すると、女性はおどおどと視線を彷徨わせながら丸井さんの後について入ってくる。丸井さんの怪異オカルト研究サークルの一員ということだが、どんな相談があって来たのだろう。まずは話を聞く支度をしなくてはと給湯室へ向かいながら、いつもとは違う雰囲気の依頼になりそうだと何となく思った。

 応接テーブルを挟んで、氷の浮かんだ麦茶のグラスが三つと炭酸飲料のペットボトルが並ぶ。白澤さんの向かいに座った丸井さんは即座にラッパ飲みしていて、丸井さんの隣には緊張した面持ちの女性が座っていた。
「はじめまして。探偵の白澤と申します」
「……助手の野田です、よろしくお願いします」
 落ち着かない様子の女性に名刺を渡す。女性は慌てながらも名刺を受け取ってくれ、受け取った名刺へ視線を落とす。俺とオーナーを交互に見て、それからようやく口を開いた。
「尾花(おばな)と言います。丸井さんのサークルでお世話になっていて……あの、丸井さんにお伺いしたんですけど……不思議なこととか、怪奇現象についても調査をしてくださる探偵さん……なんですよね?」
 訝しむような口調に、なるほど無理もないと思う。少し不思議なこと、怪奇現象について調査をする探偵なんて、俺も想像がつかなかった。けれど、白澤さんは事実としてそういう探偵なのだから、否定しようもない。
「そうですね。私の方で解決し得ない事象でも、専門の人間に繋ぐこともできます」
「……例えば、その……かみさまのことでも、大丈夫ですか?」
 かみさま、という尾花さんの声は微かに震えている。神様、ということだろうか。一体何が知りたいのかにもよるが、まずは詳しく聞かなければわからない。
「お話を詳しく聞かせていただけますか?」
 白澤さんは尾花さんを安心させるように、柔らかく声をかける。尾花さんはどこかほっとした様子で、ゆっくりと話し始めた。
「……相談したいのは、私の地元で祀られている神様の話なんです」
 早口になったり、時折口ごもったりしながら尾花さんは地元の神様について話した。
 曰く、尾花さんの地元には雷様を祀る社があるそうだ。ただの雷様ではない。臍を取るのではなく、命を取るなんて言われているそうで、地元の人たちははんださまと呼んでいるそうだ。
 地元に伝わる昔話では、雷のたびに命を落とす人間が出ることに困った地主が雷を神として祀り上げ、夏の暑い盛りにその年の死者の魂を捧げる祭りを開くことにしたらしい。死者の魂を捧げるようになってからは雷は遠くで鳴るばかりで、命を取られる人間はいなくなったと言う。
「命を捧げられるようになったはんださまは、ここに住む人間たちの暮らしが豊かになるように助けてくれるようになったそうです。釣りをすれば必ず魚が取れて、作物はのびのび育ち、子どもから老人までが飢えることなく豊かに暮らせるようになった……と言われてます。今は死者の魂を捧げるというのは形だけで、死者の名を書いた灯篭を川に流すくらいです。あとは小さな縁日をして、それで終わりなんですけど……」
 尾花さんは口を噤み、俯く。丸井さんはいつの間にか給湯室の冷蔵庫まで炭酸飲料を取りに行っていたようで二本目のペットボトルに口をつけている。炭酸の封を切る空気の音が沈黙を破った。
「私の家系は昔話に出てくる地主にあたるもので、お祭りに関わることを取り仕切っていたんです。あの、何て言うか……うまく言えないんですけど、毎年、この人は連れていかれたなって人がいるんです」
「連れていかれたというのは、どのように?」
「持病の発作だったり、老衰だったり、死因は色々なんですけど……雷が鳴ってるんです。お葬式の間、ずっと聞こえるんです!」
 雷様に死者の魂を捧げるようになってから命を取られる人はいなくなったという話なのに、喪服を着た誰もが気付いていて触れないようにしている。それが妙に不気味に感じて、地元から逃げるように東京に出てきたという尾花さんの顔はどこか青白い。
「地元に仲のいい従姉がいて……そろそろはんださまが迎えに来るからお別れをしたいって電話が来たんです。従姉は体が弱くて、二十歳まで生きられたら重畳だってお医者さんに言われてて……単に、私を地元に連れ戻したいだけならいいんですけど、本当に連れていかれてしまったらどうしようって……」
 尾花さんの声は掠れて震え、ハンカチで目元を押さえる。かなりパニックになっている様子だ。白澤さんは彼女が落ち着くまで続きを急かすつもりはないようで、何も言わずに見守っていた。
「あのさ、お話中に腰を折って悪いんだけど。尾花くん、話を聞いてて思ったんだけど、つまり君の地元には民間信仰があって、特殊なお祭りをしているってことだよね? それって、今までずーっと続いていたってこと?」
 今まで黙って話を聞いていた丸井さんが、突然割って入ってきた。尾花さんは驚いた表情をしながらも、小さく頷く。
「僕、神様について調査したいとしか聞いてなかったから何とも言えなかったんだけど、その土地にだけ伝わる神様やお祭りってすごく興味あるなあ! 尾花くん、白澤くんを君の地元に案内してくれるのなら僕が調査費用出すよ!」
 丸井さんはいつも通り、肩から提げたショルダーバッグをひっくり返す。輪ゴムで止めただけの現金が出てくることにもはや違和感はないが、さすがに尾花さんは驚いたようだ。
「私の都合でご紹介いただいたのに、お金まで出していただくのは流石に……」
「いやいや、よく考えてごらんよ! 僕はただ知りたいだけだよ? 君が白澤くんに依頼した場合、僕はその後どうなったか知る術はなくなるじゃない? 僕は何でも知りたいんだよ、だからここは僕に譲ってくれない?」
 サークルの後輩に対しての先輩というより、そこにある怪奇現象を逃さないという勢いがあった。仮に尾花さんが依頼したとして、調査の見積もりを見て依頼しないという可能性もある。それを考えると、悪くない話だと思う俺もいる。決めるのは、最終的には尾花さんの意思だが。
「大丈夫、白澤くんには今までも色々頼んできたんだ。幽霊ビルの話、君も読んだだろう?」
「あれって……こちらだったんですね」
「そう! だから、ね? いいだろう? もちろんサークルの方で回覧はしないからさ! ね、尾花くん!」
 丸井さんの最後の一押しが決まったようで、尾花さんは深く頭を下げた。それから、丸井さんは俺と白澤さんに向かって小さくピースサインを作っている。この人は本当に、知るということへの執着が強い。
「それでは、丸井さんからの依頼ということで……尾花さんには協力者として、私たちに同行いただいて調査を進めましょう」
「やったー! 尾花くん、よろしくね!」
「……こちらこそ、よろしくお願いいたします」
 尾花さんは、俺と白澤さんにも深々と頭を下げた。神様の調査なんて今までしたこともないけれど、何か役に立てればいいと思う。俺もまた、小さく頭を下げた。
 丸井さんは慣れた手つきで依頼に関する書類を埋めていく。その間に、尾花さんと簡単に打ち合わせをした。例えば祭りの詳細だとか、尾花さんの実家の住所だとか、そういう必要な情報を揃えておかなくてはならない。
「住所はここなんですけど……山の奥なので航空写真はないです」
 尾花さんの示した住所を検索してみる。確かに、航空写真は一切出てこない。灰色の地図と、不明瞭な森の画像があるばかりだ。近くに登山ルートがあるらしく、登山客の撮ったらしい鬱蒼とした森の写真がヒットしただけだった。
「従姉から連絡があったのは一昨日で……お祭りは五日後です」
「私も下調べをしたいので、そうですね……二日後、ご自宅までお迎えに上がります。尾花さんは実家に帰る普段通りのお荷物をお持ちになってください。私たちは尾花さんからお祭りの話を聞いて着いてきた人間ということで、現地へ向かいましょう」
「尾花くん、せっかくだから手土産持ってお帰りよ。百貨店寄ってもいいし、お取り寄せ買ってもいいからさ……お酒でもいいし!」
 丸井さんはいつの間にか折りたたんだ万札をティッシュに包んで尾花さんの鞄に突っ込んでいる。丸井さんの懐はどうなっているのだろうと未だに不思議に思う。尾花さんは恐縮しながらも小さく頷いた。
「それでは、私は帰省の支度をするのでお先に失礼します。丸井さん、あの……本当に……このお礼は必ず、別の形でお支払いしますので……」
「いいのいいの、首突っ込んでるの僕だから!」
「……ありがとうございます。白澤さん、野田さん、よろしくお願いします」
 深く深く頭を下げる。事務所に入って来たときは不安で落ち着かないと表情と態度が語っていたが、今はすっかり安堵の色が濃い。事務所を出て帰路に就く足取りはしっかりしていて、俺の方もほっとした。あとは調査で何かわかればいいのだが、現状俺ができることはまだない。
「白澤くん、書類書けたから見て! あと、尾花くんの家にはお土産があれば客がいても多少見逃してもらえるんじゃないかなと思うんだけど、余計なことしてたらごめんね!」
「お気遣いいただいてありがとうございます。書類確認しますね」
丸井さんにも考えがあってのことだったらしい。意外だ、と少し驚いて、俺は丸井さんを一体どう思っているのだろうと反省した。
「……じゃあ、俺は足の方抑えておきますね」
 さて、出発が二日後となるとレンタカーの調達を急がなくてはならない。ついでに今週分の予定のいくつかを繰り上げたほうがよさそうだ。出発が二日後となると、なるべく数を片付けておきたい。
 俺が仕事に戻った後ろで、白澤さんと丸井さんは書類の確認が終わったのか別の話で盛り上がっている。民間信仰がどうとか、儀式からお祭りの移り変わりとか、俺にはよくわからない言葉が飛び交っている。詳しく聞きたいが、聞いてもわからないような気がする。それに、必要なら白澤さんから話してくれるだろう。
 白澤さんは下調べをすると言っていた。俺も何か調べておこうと、検索キーワードを打ち込んでおく。これでわかるなら苦労はしないだろうが、目を通しておいて悪いことはないはずだ。検索結果を読むのは後にして、まずは手を動かすことにした。

 翌日、白澤さんは終日事務所を留守にした。曰く、下調べをするのに方々を回るということで、俺は留守番と白澤さんに頼まれたものの調達を済ませた。倉庫から出してくるものもあれば、特定の場所に行かなければいけないものもあり、なかなか大変だったが何とかこなすことができた。
 準備ができたことを連絡すると、出発は深夜になるから早めに休むようにと返事が来た。諸々の調達なんかは白澤さんの方で済ませてくれるらしい。予約は馴染みの店であったから、多少融通が利くのだろう。
 指示をされたのなら従うのが助手である。支度を済ませた後は早めに眠っておくことにした。
 明日は何があるのだろうとぼんやり考える。結局、自分で調べた範囲でははんださまと呼ばれる尾花さんの住む地域の神様についての情報は見つからなかった。行かなければはっきりわからないということだろう。寝入る前に、白澤さんが帰宅したような物音が聞こえた気がした。

 まだ深夜に近い時間に起き、事務所を出て尾花さんを迎えにいく。合流した頃には日の出が差し迫っていて、外は薄明るくなっていた。まだ蝉も鳴いていない時間で、妙に静かな朝だった。
 尾花さんの故郷へ向かう車の中で、簡単に打ち合わせをする。素直に神様を調査すると言えば、信仰をしている人たちはいい顔をしないだろう。
 だから探偵としてではなく、尾花さんの大学の先輩として帰省に同行している、ということにした。俺は普段と変わらない格好だが、白澤さんは普段のスーツではなく、いわゆるラフな服装をしている。服装が変わると印象が違って見えるのが何だか面白い。
 短い打ち合わせが済んだ後、首都高に乗ったまでは覚えているがその後の記憶はおぼろげだ。何しろすっかり眠ってしまっていたからである。
 助手席に座ったものの、ナビゲーションはスマホのほうが確かであるし、後部座席では尾花さんの寝息が聞こえる。ついでに運転手である白澤さんから近くなったら起こすから寝ていていいと言われ、素直に甘えた結果である。
 目を覚ました頃には、一般道を走っていた。後部座席の尾花さんは目を覚ましていて、ぼんやりと窓の外を見ているのがミラーの反射で見える。車内の沈黙を埋めるように、小さな音量でラジオが流れていた。
 街並みは消え、田畑の合間にポツンと立つ民家が過ぎていく。何か地名がわかるようなものが外にないだろうかと眺めてみたが、伸びた稲と錆びて何が書いてあったかわからない看板の他には鬱蒼とした木々しか見えなかった。
 広々とした道路から、山の中に一本伸びる道へ入る。対向車が来たらどうなるんだと思ったが、道の左右を木々が取り囲む様子からあまり車が通らない場所なのであることは何となく想像できた。
 苔むしたガードレールの向こうは薄暗くてよく見えない。木々が育ちすぎると根本の方には光が差さないんだな、と今初めて知った。
 山道の途中、唐突に車が止まった。同時に、スマホのナビゲーションが途切れる。画面の地図を見れば道が途切れていた。
 道案内を終了したらしい画面と目の前の景色を比べて、思わず首を捻ってしまった。目の前にはコンクリートで固めただけの短いトンネルがあり、その先には道が続いている。地図上にはない道路が目の前にあるのは、少し不思議な感じがした。
 道を間違えたにしてはずいぶん進みすぎている。戻るにしても、切り返す場所がない。白澤さんはどうしたものかと考える仕草を見せ、止まった景色を見た尾花さんがハッとして顔をあげた。
「すいません。この辺り、田舎すぎてどこにも登録されてないんです。このまま道なりに進んでいけば、家が見えてくるので……」
「わかりました。もし違う道に入っていたら教えてください」
 私有地であったり、航空写真が記録できない場所であったりすると地図には登録されないのだろうか。何にせよ、現地に詳しい人が言うのだから間違いはないだろう。車はゆっくりと動き出し、トンネルを潜った。
 道はさらに続いていて、緑の勢いはさらに増している。もはや道路すら薄らと暗い。昼間であるのに薄暗い道、伸び放題の木々は少し不気味ですらある。
「……何にもない所なんです。ただ、星が綺麗に見えるとかで……一時期展望台を作るとかそういう話があったみたいなんですけど、いつの間にか無くなってました」
「そうなんですね。今日の夜が楽しみです」
「それ以外は……本当に、何もないですね」
 住んでいる人からすれば、特別にあるものというのはわからないものだ。
 車の外を見ていると、何もないとはとても思えない。木々の合間に、時折白い物が見えるのだ。木々に並ぶように立っているあたり、ずいぶん大きい。何だろうと思っていたが、どうやら旗であるらしい。雷様奉納という文字が見えた。
 神社に奉納するのぼりだとして、なぜ林の中にまで旗が立っているのだろう。この山の中全てが雷様の土地なのだろうか。違和感はあったが、それがこの土地の決まりだと言われたらそれまでのような気がして、そのまま疑問をしまいこむ。
 山の奥へと登り続けていた道が急に緩やかになった。道路もやや広がり、緑も開かれている。ようやく明るくなった気がして時計を見れば、東京を出発して半日ほど経っていた。
「この道を進んでいくと神社に着きます。神社の近くにある大きな門の家が私の実家で……あと、何か気になるものが見えたら言ってください」
「わかりました、ではこのまま行きますね。野田くん、何か気になるものがあったらちょっと視てくれるかな」
「了解す」
 窓の外を見る。街並みはなく、商業施設もない。集落、というのが正しい気がした。
 一つ一つの家が大きく、広々とした庭と蔵が並ぶ家も珍しくない。庭先に繋がれた犬が見慣れぬ車に驚いたのか、顔を上げて吠えたてている。犬の声に気付くより前に、畑で作業をしていた人が顔を上げて不思議そうな顔をした。すかさず、尾花さんが車の窓を開けて顔を出す。
「どうも、ご無沙汰してます」
「あら、なっちゃんじゃないの! しばらくだねえ、はんださまに顔見せにきたの?」
「そうなんです。これから家に帰るところで……お土産あるんで、あとで寄ってくださいね」
 会話を短く切り上げ、車の窓が閉まる。尾花さんはほっとした様子であったが、俺としては少し驚いた。小さな集落だからこそ互いに声をかけるのは自然なのかもしれないが、家族に顔を見せるのではなくはんださまに顔を見せに来たと言ったのだ。
「……どこの誰だかすぐにわかっちゃう狭い場所なんです。挨拶がないとそれはそれで面倒で……」
 狭いコミュニティ独特の距離感があるらしい。窮屈そうな場所だと何となく思う。どうやら尾花さんも同じことを考えているようで、少し疲れた顔をした。
「尾花さん、それぞれの家に旗が立っていますけどあれは?」
 白澤さんはちらと窓の外を見る。俺がここに来るまでに見たような旗が、それぞれの家の敷地内にも立っている。雷様奉納、という文字はどれも同じだ。
「お祭りが近づくと立てる旗です。皆がはんださまを信じているのを示すために、なるべく多く、高く上げる決まりがあります」
 なるほど、林の中で見た旗は数を稼ぐためのものであったらしい。人の手で一つずつ立てているのだとしたら結構な力仕事だ。ここに住んでいる人はそう多くなさそうだが、手分けしてやればできなくもないのだろうか。
「そろそろ着きますね、車はどこに停めましょうか」
「神社の近くに集会場があるので、そこに停めてください。祭りの前後に帰省する人はみんなそこに停めてます」
 集会場、と聞いて人が集まっている場所を思い浮かべた。常に人が居る場所というわけではなく、人が集まれる広さのある場所ということだろう。道なりに進んでいくとしっかり草の刈られた広場があり、ミニバンが一台と、コンパクトカーが二台並んでいた。帰省している人がそれぞれいるらしい。
 車を停め、外に出る。まず驚いたのは涼しさだ。日が当たるとさすがに熱いが、空気の重さが違う。ただ、蝉の声はここのほうが随分大きい。自然が多いとそれだけ蝉もいるんだな、と今更思う。
 集会場の傍に大きな門の誂えられた家がある。竹の塀で囲まれたそれは傍目に見ても随分立派な家で、少し驚いてしまった。そういえば地主の家系と言っていた気がする。集落の中でも神社に一番近い場所に立っているあたり、この集落の中でも立場がある家なのだろうことは想像に容易い。
「尾花さん、我々はご挨拶をしたらしばらくこのあたりを調べてみようと思います」
「……わかりました。従姉に一度会っていただいてからでも、いいですか?」
「ええ、構いませんよ」
 尾花さんの用意してきた土産を持つのを手伝い、いよいよ門を潜る。塀に遮られていて見えなかったが、家の敷地は思ったよりずっと広い。母屋があって、離れがあって、蔵が二棟立っている。蔵とは別に木造りの倉庫もあって、倉庫の近くには軽トラックが停まっている。農業をするお宅らしい。
「あら、千夏! 帰ってくるなら連絡してくれればよかったのに……そちらはお客さん?」
 門の開いた音を聞きつけてか、母屋の縁側から尾花さんの母親らしい人が顔を覗かせた。俺と白澤さんと尾花さんを交互に見る目は好奇心が隠せていない。怪しまれていないのにはほっとしたが、その視線は何となく嫌な予感がある。
「お母さん、ただいま。サークルではんださまの話をしたら、ぜひお祭りに来たいっておっしゃって……こちらが白澤さんで、そちらが野田さん」
 大学の先輩として紹介してもらう。訝しまれないだろうかと内心ひやりとしたが、逆に焦ったり挙動がおかしいと怪しまれるだろう。俺が喋るとぼろが出るから、白澤さんの後ろで小さく頭を下げて挨拶の代わりにした。
「尾花さんにはいつもお世話になってます。民俗学を専攻しているもので、どうしても見に行きたいと無理を言ってしまいまして……家族水入らずのところ、お邪魔してしまいすみません。つまらないものですけど……」
「あら、あら……お気遣いただいてすみませんねえ」
 白澤さんはいつの間に持ち込んだのか、高級そうな土産袋を抱えている。尾花さんのお母さんは驚いたような顔をして受け取り、それから満面の笑顔で尾花さんを見た。客として受け入れられたのが手に取るようにわかり、初対面の人に信用を得にくい俺としては心底ほっとした。
「月子姉さんはお部屋?」
「離れの方よ。そろそろはんださまのお迎えだろうから、楽にしてもらってるわ」
「……顔出してくるね。先輩たちも紹介したいし」
 月子さん、というのが尾花さんの心配している従姉の名前だろう。俺も両手に持っていたお土産を縁側に預け、離れへ向かう尾花さんの後に続いた。表情がどことなく硬く、声をかけるのは迷う。こういうときにかける言葉も、俺はよくわからない。
 離れは母屋に比べれば小さいが、これが普通の家の大きさという感じがした。平屋で天井が高く、開けた窓を通り抜ける風が心地よい。楽にしてもらっていると言っていたが、療養というよりは安定させるための家に見える。
「月子姉さん、入るよ」
 尾花さんが声をかけ、戸を開ける。縁側に面した障子を開け、外をぼんやりと眺める女性がいた。顔色は白く、ほっそりとした首が目に入って視線を逸らす。お迎えが近いという尾花さんの母親の声が蘇って、確かにそう見えた自分に気まずくなっている。
「千夏、会いに来てくれたの? お客さんも一緒?」
 こんにちは、と白澤さんが先に声をかける。俺は小さく頭を下げる程度に留めた。怖がられやすいことはわかっているから、こういうときは離れて黙っているのがいいことも理解している。
「姉さん、具合が悪いってどれくらい? 病院にはかかったの? お迎えが近いって、いつもの嘘じゃないの? 姉さん、私で遊んで嘘ばかりついたじゃない」
「だから罰が当たったのかなあ」
「そういうことが言いたいんじゃなくて……」
 尾花さんは何とも複雑そうである。この場に俺と白澤さんがいることが場違いな気がして、居心地が悪い。しかし入ってすぐに出るのもどうなのだろうと思い、部屋の中に視線を彷徨わせる。
 瞬間、瞼の裏で何かが光ったような気がした。視ようとしていないのに視えるときは、大概何かがあるときだ。一体どこが光っただろうともう一度部屋の中を見回してみたが、畳の上に布団と、あとはお盆に水差しがあるくらいでそれらしいものは見当たらない。俺の気のせいだったのだろうか。
「とにかく一度、山を下りて病院に行こうよ。ちゃんと診てもらわなきゃ……先輩に車出してもらうこともできるし……」
「あのね千夏。私はいいのよ、元々そんなに保たない心臓だって言われてたんだから……それにはんださまがいるんだもの、すぐ会えるわ」
 はんださまはこの集落に住む人からよほど強く信じられているらしい。口ぶりからして、はんださまに魂を預けると早くこの世に戻って来られる、みたいな伝承もあるのかもしれない。生き死ににまつわる信仰は死後のあれこれか、早く現世に戻ってくるか、みたいなところがある。あまり詳しくはないから、イメージでの話だが。
「……尾花さん。我々はお邪魔だろうし、少し散策してくるよ」
「……わかりました。あまり、遠くまで行かないようにしてくださいね」
「気を付けます。それではまた後ほど」
 何と声をかけていいかわからず、そのまま部屋を出る。立ち上がった瞬間、また瞼の裏に光がちらついた。そこに何があっただろうと視線を戻せば、尾花さんと言葉を交わす月子さんがいる。一瞬だからはっきり視たわけではないが、何かはあるようだった。

 離れを出て、尾花さんの家から出る。目の前に広がるのは山々と青々とした畑くらいだ。時折、涼しい風が吹く。目の前に広がる景色はただの田舎だが、目に見える家の全てに白い旗が立っているのが異様に見えた。
「野田くん、気になるものがあったら私に聞かずに視ておいてほしい」
「了解す。あの、さっき……尾花さんの従姉って人、どこかわからないんですけど光って視える場所がありました」
 光って視えただけで場所ははっきりわからない。持ち物だったのか、本人の内側だったのかがわかれば白澤さんの助けになったかもしれないが、一瞬だったから判別がつかなかった。けれど、初対面の人間をじろじろ視ることは戸惑われて、結局わからないままだ。
「すぐに消えたわけではなく、どこかわからない感じだった?」
「そうすね……でも全体が光っているわけではなくて小さい範囲でした。俺の持ってるお守りくらいの……」
 口に出してみてはっとした。この集落に信仰が根付いているのなら、お守りを持っていると考えるのは自然かもしれない。白澤さんも同じことを考えたのか、僅かに目を細めている。
「神社に行ってみようか」
 尾花さんの家を出て五分も歩かないうちに、立派な鳥居を構えた神社がある。もしそこにお守りがあれば、そして視てみれば何かわかるかもしれない。白澤さんと足早に神社へ向かった。

 造られてから随分時間が経っていることがわかる石造りの鳥居を潜ると、苔むした狛犬に迎えられた。参道はところどころ欠けているが、歩きづらいわけではない。境内の中は落ち葉のひとつもなく綺麗に整えられていた。
「手水舎はないようだね」
「……お守りを売ってるようなところもないすね」
「このあたりの家々に一つずつ届けているのかもしれないな」
 それでは視て確認することはできない。さてどうやって確認しようかと社殿を見ながらぼんやり考える。質素な造りを見ると他の神社と変わらないが、高く旗が掲げられているのが特徴的だ。正面から見るとわからないが、斜めや横から見ると屋根が大きな曲線を描いているのがわかる。何造りとか名前があるのだろうが、俺はわからない。
 振り返ってみると、鳥居の向こうにこの集落が一望できた。緑の中に畑があり、道に立ち止まって声を交わす人たちの姿が見える。この集落の一番いい場所にあるのがこの神社であることはすぐにわかった。
 ふと、この神社を視たらどうなるのだろうと思って目を瞑った。瞼の裏で視界が切り替わる感覚があって、そこかしこにぼんやりとした光を感じる。それらを一つずつ見ていこうとした瞬間、眼球を貫くような眩い光が差してきて慌てて目を開けた。
 目を開けると雲の合間から夏の日差しが覗いている。太陽の光に似ていた。もしくは、雷光のようでもあった。目を閉じると瞼の裏に白い光が焼きついている気がする。
「野田くん、今、視ていた?」
「目を刺されるみたいな光が来ました。とても視てられないです、これは」
 光の強さもあったが、不思議と知らない人と目が合ったみたいな居心地の悪さがあった。とりあえずここを視るのはもうやめよう、と白澤さんに言われて内心ほっとする。
「あの、すみません」
 背後から声をかけられて少し驚いた。振り返ると、青年が一人立っていた。白いシャツにデニム、歳の頃は尾花さんに近い。しかし、この集落に暮らしているにしては何となく浮いている気がする。自分がどこに違和感を覚えているのかわからないのだが、ここで暮らしている人ではないような気がした。
 俺が返事をするより先に、白澤さんが柔らかい表情を作る。俺はゆっくりと振り返って、何でもないような顔をすることに努めた。
「はい、何でしょう?」
「千夏ちゃんのお客さんですよね。はんださまの神社を見に来たっていう……」
 客が来るのが珍しいにしても、誰の客というところまで知られているのは素直に驚く。噂が早いのか、単純に帰省する人間の当てがついているのか、どちらにせよ外から来た俺たちの様子を見にきたと考えるのが自然だろう。
「尾花さんからはんださまのことを聞いて、是非一度お参りしたくてお邪魔したんです。こちらが本殿ですか?」
 白澤さんが尋ねると、声をかけてきた人はわかりやすく明るい顔をした。
「いえいえ、これは拝殿ですよ! はんださまをお祀りするのはこの山全てですから、山が本殿みたいなものなんです。それに、本殿にはんださまがいたら不自然じゃないですか? あ、僕ばかり喋ってすみません。妻の帰省に着いてきた口なんですが、今では僕の方がここに来たがってるくらいでして……」
 どうやら自分と同じ外部の人が来たことが嬉しいらしい。面白がっているとも言えるだろうか。知識を披露しようと声をかけてきたんだな、と分かって内心白けてしまう。こういう人は話が長い。
「はんださまについてはどういう風に聞いてます?」
「死者の魂を捧げるというのは聞きました」
「あ~、なるほどなるほど、ちょっと自己流に解釈してるのかな。はんださまはこのあたりの生き物の魂を全部管理している神様で、死者の魂を捧げるんじゃなくてはんださまにお返ししてるっていうのが正しいみたいですよ」
 俺が言えたことではないが、これが正しいと外部の人間が言うのは少し筋が違うのではないだろうか。別に言っても何にもならないから黙っているが、白澤さんはなるほどと興味深そうに頷いている。気持ちよく話してもらおうという感じだ。
「はんださまにお返しすれば早く戻って来られるってよく妻が言ってるんですよ。言い方は悪いですけど、こんな田舎なのに若い人も結構いるでしょう? これがね、ずっと人数が大きく変わらないらしいんですよ」
 僕もその一部になってしまいましたが、という男はどうもへらへらしている。
「いやあ、すいません。ようやくこの集落に引っ越す算段がついたもので、ちょっと浮かれてるんですよね……ここに住むってなるとはんださまのお守りを貰えるんですよ。ついさっき受け取って来たところで」
「お守り……ですか?」
「良かったら見ますか? 僕が見せたいだけかもしれませんが……」
 調子のいい様子に半ば呆れていたら、白澤さんがちらと俺を見た。なるほどこれを視ろということか。瞼の裏にあった強い光はすでに薄れている。男が白澤さんの手にお守りを乗せたのを確認して、そっと目を瞑る。
 瞼の内側に、淡い光がある。これは尾花さんの家で見たものと同じだと直感でわかった。ただの光であるのにどうして同じだとわかったのかはわからないが、何というか、模様が同じだと感じた。光の中に、波打つような模様が見えるのだ。
「あの、これって、ここに住んでる人がみんな持ってるってこと……ですよね?」
 俺が訊ねると、男は少し意外そうな顔をしてから大きく頷いた。俺はただの付き添いか何かで、興味はないと思っていたらしい。
「妻も同じものを持ってるし、子どもが生まれたらその子の分も貰えるらしいんです。あ、これは妻の家で聞いたんですが……この集落に新婚が来ると、早く子宝に恵まれるって話があるんです」
 男は再びへらりと笑った。どうやら浮かれているのは引っ越しという理由だけではなさそうだ。それを望んでいるなら、確かにこの集落はいい土地だろう。
「それはそれは、珍しいものを見せていただいてありがとうございます。これって、中にははんださまの護符か何かが入ってるんでしょうか?」
「いやあまさか、護符じゃないよ。鱗だって聞いたよ、僕は」
 はんださまには鱗があるのか。まあ本物ではなく、鱗ということにして別のものが入っているかもしれない。
 突然、耳慣れた着信音が鳴った。思わずポケットからスマホを取り出すが、着信はなかった。白澤さんも同じだったようで、話し足りなさそうな男がスマホを見て苦い顔をしている。
「はんださまはそこに居るだけで言葉をくれるわけじゃない。だから、代わりに自分の一部を下さる……ってことみたいだよ」
 男は早口に言い、白澤さんの手にあったお守りをそうっと持ち上げた。まるで硝子でも取り扱うみたいな慎重さだった。
「明日はお祭りらしいし、せっかくだから参加するといいよ。それじゃあ僕はそろそろ戻るから……」
 男はそそくさとその場を離れていく。どうやら妻に呼びたてられたらしく、耳に当てたスマホからは微かに女性の声が聞こえた。
 男は社殿にあまり興味を示さなかった。本殿はこの土地自体だと言っていたし、この場所自体にそう思い入れはないのかもしれない。しかし妙な男だった。情報が手に入ったこと自体は助かったが、知らない人間に見せびらかしたいほど浮かれていたのかもしれない。
「白澤さん。さっきのお守り、尾花さんの家で見たものと同じでした」
「私も触ってみたけれど、確かにあのお守りの中には鱗が入っているのがわかった」
「……なんか、よく喋る人でしたね」
「不思議なことなんだけれど、どうも私が聞き役をやると色々喋ってくれる人が多いよ」
 それは白澤さんの人ではない部分が影響しているのか、それとも長年人間に接してきた経験値なのか、はたまたその両方なのか。十分にあり得そうなことで、俺はなるほどと唸る以外なかった。
「白澤さん、野田さん、ここに居たんですね」
 鳥居をくぐって尾花さんが現れる。どうやら話は終わったらしい。
「従姉が話し疲れて寝ちゃったんで、抜けて来ました。この神社の裏山にちょっとした川があるんですけど、はんださまはそこに住んでるって言われてるんです」
 良ければ案内します、と言う尾花さんは幾分か元気になったように見える。地元に帰ってきてほっとしたのかもしれない。しかし、十五分ほど話しただけで疲れて寝入ってしまうというのは、やはり体の具合は良くないようだ。
 尾花さんの言うように、社殿を通り過ぎ、境内の奥に山道へ繋がる入り口がある。地元の人たちもよく通るのか、草もなく歩きやすいように整備されているようだった。
「では、案内をお願いします」
「わかりました。そんなに急ではないですけど山道なので、気を付けてください」

 不思議と山の中はしんと静まり返っていた。鳥のさえずりもなければ、つい先ほどまで聞こえていた蝉の声すら聞こえない。
 尾花さんを先頭に、俺が続く。白澤さんは気になることがあるのか、最後尾をゆっくりと付いてくるつもりのようだ。尾花さんの足取りはしっかりしていて、地元の人からすれば慣れ親しんだ道なのかもしれないと思う。
 山道を進んでいくうち、薄く霧が出て肌寒くなってきた。山の天気は変わりやすいというが、これもその一部なのだろうか。
「ちょっと寒いっすね……」
 振り返って白澤さんに訊ねたつもりが、近くに白澤さんの姿がなかった。よく見れば、白澤さんの姿は、少し離れたところにある。どうやら早すぎたらしい。
「白澤さーん、大丈夫すかー?」
 大きく呼べば、大丈夫と白澤さんの声が返ってきた。これ以上離れるのはまずいだろう。道らしい道は一本しか見えないが霧は濃くなりつつあるし、はぐれたらと思うと不安もある。
「尾花さん、少し待ちましょうか」
「……そうですね」
 俺が立ち止まると、尾花さんもまた足を留めた。
 白澤さんが追い付くのを待つ間、妙な沈黙が出来てしまった。別に黙っていてもいいのだが、何か喋ったほうがいいだろうかとも思う。どうしようか考えているうち、沈黙に耐えかねたのか尾花さんが口を開いた。
「ここ、静かでしょう? 子供の頃は遊ぶ場所が山しかないんでよく来てました。大人はお祭りのときしか入っちゃいけないらしくて……禁山みたいな」
「ああ、それで慣れてる感じなんですね」
 ここに来るまでの間、見た限りでは商店もなく田畑ばかりが広がっていた。生活を支える田畑で遊ぶわけにもいかないし、かといって家の中だけで遊ぶなんていうのも考えにくい。そうなるとやはり、遊ぶ場所は山になるだろう。
「展望台を作ろうという話が出たときに一度、道を整備したらしいんです。随分気合いをいれてたみたいで……」
「結局、それは中止になったんすよね?」
「観光運営してくれそうな企業に誘致を始めたら、ひょうやあられが降ったり、一日に何度も雷が鳴ったりしてろくに山も登れなくなって結局だめになったんです」
 確かに、山に登れなければいくら道を整備しても仕方がない。山の天気が荒れやすいとはいえ、登れる日が少ないのなら企業が手を尽くしても運営は難しいだろう。
「祖母は、はんださまの祟りだって……はんださまを信じる心が弱くなったから、山を明け渡そうと考えるやつが出たって祖母が言ってました。実際、その年の夏祭りが済んだらすっかり天気は荒れなくなったんです」
 夏祭りの後はすっかり天気も落ち着いたが、はんださまの祟りと聞いた人たちは慄いてしまった。たまたま天気が悪かったと思い込むより、はんださまが怒っていたと考えるほうが納得できたのだろう。結果的に、はんださまは信仰の強さを取り戻したとも考えられる。
「私は……結局来る人がいないから中止になったんじゃないかと思ってます。景色がいいだけなら他の場所もありますし」
 尾花さんの言葉が辛辣で思わず笑った。笑うところではなかったかもしれないと気付いて黙ると、笑っていいですよと逆にフォローされてしまった。
「野田さんはどうですか? こういう場所に来ようって思ったこととか」
「俺は外に出る方じゃないんで、どこか行こうと考えることがあまり……」
「……都会に住んでる人はそうなのかもしれませんね」
 どことなく棘のある言葉にむっとして、思わず言葉を飲み込んだ。何となくだが、尾花さんは自分の地元に対してコンプレックスを持っているような気がする。ここにはこれしかない、みたいな言い方が多いのは都会と比較していたからではないだろうか。
「ここじゃない暮らしがしたくて上京しましたけど、まさかこんなことになるなんて」
「……お力になれればいいんですけど」
 結局のところ、はんださまというものを調べなければ尾花さんの心配していることは解決しないだろう。
 はんださま。神様がいる山。普段は子どもの遊び場で、大人が入ることが避けられている場所。展望台を作ろうという話が上がって、そして実現には至らなかった。
 しかし、禁山のような扱いなのに展望台を作ろうとしたのだろうか。ここに住んでいる人たちの中でも思想が別れていたと考えるのは何となく不自然で、違和感を抱いた。しかし中止になったというのなら、やはり神山であることが優先されたのだろう。
「霧が濃くなってきましたね。白澤さんも追いつきましたし、ゆっくり行きましょうか」
 尾花さんはゆっくりと歩き出した。背中を追うより前に、白澤さんの手に引き止められる。そのまま、白澤さんは俺にだけ聞こえるようにそっと声を潜めた。
「霧からここではない場所の気配がする。幻永界とも少し違うから、野田くんも何か見つけたら教えて」
「……了解です」
 薄靄のようだった霧は思いのほか濃くなり、道を外れた林の中は殆ど真っ白だ。来た道を振り返ってみるが、もはや道の先は見えなくなっていた。一本道であったから戻ることはできそうだが、見えないというだけで妙に不安になる。
 何か見つけたらと白澤さんは言うが、広すぎて視るべき場所は見つけにくい。
「水の音がしますね」
 白澤さんに言われてようやく俺も気付いた。耳を澄ませてみると確かに水が流れる音がしている。
「近くに小川もあるんです。道から外れるので寄らなかったんですけど、子供のころは釣りをしたり泳ぎに行ったりしてました……そこの突き当たり、少し開けた場所があります。道はそこまでです」
 尾花さんの指さす先に、ちょっとした広さのある空間がある。霧ではっきり見えなかったが、近づいてみると大人が数人集まっても十分距離が取れそうな場所であるようだった。この広場だけ頭上がぽっかりと開いていて、太陽の光が差し込んでいた。
 広場に足を踏み入れる。尾花さんの言う通り、どこにも道は続いていない。ここまでが人が入れる場所ということだろう。よく見れば、広場の突き当たりに当たる場所には手すりがつけられている。手すりには鳥居に付いているようなひらひらした紙が下がっていた。あの紙の名前を以前白澤さんから聞いたような気がするのだが、思い出せない。
「紙垂(しで)があるということは、あそこが本殿という扱いですか?」
「はい、あの手すりの下は崖になっていて……澄んだ川がちょうど見えるんです。ここの子たちはそこにはんださまがいるから覗くなって言われて育ちます」
 そうだ、紙垂と言うんだった。紙垂のかかった手すりの先、崖から見る川に居るというのが確かなら、俺が見なければいけない場所はここだろう。
「じゃあ、調べるならまずそこですね。ちょっと視てみるんですけど、何かあったら大変なんで……尾花さんはちょっと離れててください」
「……大丈夫です。何かあったらすぐ逃げますから」
 何かあったときに備えて声をかけてみたものの、尾花さんの意志は固いようだ。ちらと白澤さんを見れば、小さく頷かれた。構わないということだろう。何かあったら白澤さんが助けてくれるはずだ。
 手すりの向こうを覗き込む。視界を遮る木々がなく、切り抜かれたように太陽の光を跳ね返す水面が見える。霧も不思議とここにはないようだった。ここを見ろと案内されているようではあったが、目を瞑る。
 瞼の裏にちらちらとひかりがある。これは川の水面にあった光だろう。俺が見ようとしているものはそれではない。瞼の内側で視界が切り替わる感覚があり、不自然な暗闇が見えた。
 即座にぞっと鳥肌が立つ。嫌な予感がする。視てはいけないものがある、と体の方が先に反応した。けれど、ここで視ることができるのは俺だけだ。
 何かないか。
 川を辛抱強く視ている最中、背後で地面を蹴るかすかな音がした。
「危ない!」
 白澤さんの声に目を開く。瞬間、背中に衝撃があってよろめいた。目の前には崖がある。誤って落ちればただではすまない。反射的に手すりを抱えるように留まって振り返れば、必死の形相をした尾花さんが居た。
「なん、すか……!」
「何で落ちないの?!」
 渾身の力だろうが、俺と尾花さんには体格差がありすぎる。手すりが強固なのも幸いして、何とか落ちずに済んだ。全身全霊と言ってもいい様子だが、黙って落とされるわけもない。逆に押し返すと、勢いのまま尾花さんが転んでしまった。
 心臓がばくばくとうるさい。まさか崖を前にして人に落とされそうになることがあるとは思わなかった。さすがにすぐに立ち上がることができず、手すりを頼りによろよろと立ち上がる。
 立ち上がらなければならなかった。背中にした川から嫌な気配がある。早く離れなくてはいけないと、俺でもわかった。
「野田くん、川から離れて。早く!」
 鳥肌が立つのを通り越して、こめかみのあたりがびりびりしている。即座に崖から離れると、よろけながら尾花さんが立ち上がって俺を睨みつけた。
「あの子以外がはんださまに連れていかれれば、今年はもういいって言ってたの! 私は、私ははんださまに……」
 不穏な言葉が漏れる。あまりの気迫に押されて冷や汗が浮かんだ。
「だから、誰でもいいから、連れてくればいいと思ったのに!」
 尾花さんの執念が籠もった目が、俺と白澤さんを睨みつけている。
 白澤さんが、尾花さんに何かを言おうとした。けれど、言葉を遮るように轟音が鳴った。
 地面が震えるほどのすごい音だった。それが雷鳴であることに気付くまで、しばらくかかってしまった。いつのまにか頭上には暗い灰色の雲がかかっている。呆然としていると、尾花さんが立ち上がって駆け出していった。顔が真っ青で、かける言葉が何も思いつかなかった。

「野田くん、平気? 尾花さんも席を外してくれたし、続きをしようか」
「あの、尾花さんは……」
「雷が鳴って、はんださまが命を取りに来たと思ってるんじゃないかな。月子さんの命を確認しに山を下りたんだと思うよ」
 白澤さんは平然としていた。動じるような事態ではないのかもしれないと思うと、俺の足もしっかりしてきた。何より、助手としてできることをやらなくてはという気持ちもある。
「さっき、何にも視えなかったんです」
「もう一度、いけるかな?」
「いけます!」
 返事と同時に、再び手すりの先にある崖を見下ろす。目を瞑る。すぐに視界が変わって、再び暗闇になった。この暗闇はおかしい。絶対に何かがあるはずだ。辛抱強く視ている間にも、頭上ではごろごろと雷が鳴っている。
 再び轟音が響く。同時に、視界の端から端まで閃光が走った。中央に赤い二つの光がある。二つは並んでいて、ちかちかと瞬く。それはまばたきのようにも見えた。
「白澤さん! 雷と同時に閃光が走りました……あと、赤い目みたいなものが見えます。真っすぐ、川の中です」
「赤い目……」
 白澤さんが考え込む気配があった。また雷が落ちる。俺の視界一杯に広がる閃光は、網のようにも見えた。
「雷と一緒に見える光、網みたいに見えます」
「網か……わかった。野田くん、もう目を開けていいよ」
 目を開けて見える景色は変わらない。ただ川が流れているだけで、つい先ほどまで赤い光のあった場所には何もない。
「網のように見えるものは、恐らくあの川に何かを繋ぎとめているものだ。それを解くには……そうだな……」
 あの川に何かを繋ぎとめている。白澤さんの言ったことをそのまま繰り返してしまった。白澤さんは足元をきょろきょろと見ている。何かを探しているようだった。
「……何を探してますか?」
「あの川まで届きそうな石……うん、これがよさそうだ。野田くん、これをちょっとあの川に向かって投げてくれるかな」
 手すりの向こうに落ちていた石を拾い上げた白澤さんは、軽く石を叩き、それから短く息を吹きかけた。それで終わりなのかと思いきや、そのまま石を両手で握ったままじっとしている。ただ持っているというよりは、石を握る力を徐々に強めているようだった。
 少し沈黙があって、準備が済んだらしい石が俺に手渡される。予備も含めて石を三つほど受け取って、手すりの向こうにある崖を見下ろした。
 木々が開かれ、水面は見えている。投げることはできるだろうが、届くかどうかはわからない。運動能力検査にそういうのがあった気がするが、記憶の遥か彼方だ。
「大丈夫、投げたらそのまま川に向かっていくようにしたから。野田くんが投げてくれればあとは私の方が引き受けるよ」
「あ、そうなんすか。ほっとしました」
 どうやら本当に投げればいいだけらしい。それなら、と即座に崖の先に向かって石を投げた。一つは枝にぶつかって川まで届かなかったが、残りの二つは川に届いた。
 水が跳ねあがり、白澤さんが口の中で小さく何かを唱える。後は白澤さんに任せて、事の成り行きを見守った。
 頭上ではまだごろごろと雷が鳴っている。普通ならそろそろ雨が降りだしてもおかしくないが、不思議と雷の音だけが響いていた。不思議と稲光は殆ど見えない。厚い雲と不穏な音だけがある。
「野田くん、仕上げに少し大きな音がするから耳を塞いでくれるかな」
「了解す」
 仕上げというのは何だろう。言われた通り、大きな音に備えて耳に指を突っ込んだ。白澤さんは俺が備えたのを確認して、手すりにかかっていた紙垂をぶつりと切った。
 瞬間、視界が真っ白に染まった。雷だ、と気付いて首の後ろから力が抜けたのがわかる。近くに落ちたのだろうかと空を見上げた瞬間、空に向かって稲光が走っていったのが見えた。光から間をおいて、耳を塞いでいるのに轟音が聞こえる。体から力が抜けて、その場にへたり込んでしまった。目の前に雷が落ちるなんて、一生の中でも早々起きる出来事ではない。
「もう大丈夫だよ」
「何が……どのへんが大丈夫なんすか?」
 白澤さんの大丈夫はあまりに漠然としていた。何がどうなったのか知りたいが、どこから聞いていいのかも俺にはわからない。
「まず、はんださまと呼ばれていたものは龍だった」
「龍って……幻永界の龍ですか?」
「うん。誰かが、この土地に龍を結び付けた」
 雷が徐々に遠くなってきた。そういえば、以前犬や猫に擬態した龍を預かったとき、雷に反応していた。そればかりか、彼らが呼ぶと雷が応えるところがあった。雷と龍は近いものなのだろう。
「結び付けたってことは……ええと、本来居ないものを、無理やりってことですか?」
「野田くんが見た網がそうだね。あれのせいで、龍は幻永界に戻れないしどこにもいけなくなってしまった」
 白澤さんは空を見上げている。雷の音はいよいよ聞こえなくなり、雲が晴れてきたように感じる。霧も薄くなって、広場から集落に帰る道もはっきり見えるようになってきた。
「龍は環境によって在り方が変わるんだ。神様のように扱われれば、本来そういうものではないのに、そうあろうとしてしまう」
 環境次第でどのようにでもなるということは、本来はそうではなかったものがそういう風に変わってしまったとも言える。
 白澤さんが言うことには、龍は人間の魂を必要とするものではないらしい。けれど、捧げられれば受け取るし、代わりに豊穣を願われればできる限り尽くしてしまう。願われれば応えてしまうという性質が強いそうだ。
 龍は信仰されることでこの集落の力になっていたが、別に死者の魂を欲しがっていたわけではなかったのだ。互いに会話ができない以上、龍は魂を求めないことを人間が知ることはできなかっただろう。人間の方から代償を決めてしまったとも言える。
「随分長くここに縛られていたようだから、まずはこの場から切り離したんだ。野良の龍がうろついていると落雷被害が増えるから、専門家に連絡をしておかなくてはいけないね」
「……あの、つまり……神様はどっかにいったってこと、すか?」
「そうなるね」
 あっさりと白澤さんが認めたから、俺は何も言えなくなってしまった。この土地を豊かにしていた龍がいなくなってしまったら、この土地はどうなるのだろう。信仰している神様がいなくなったと知ってしまったら、変わってしまうのではないだろうか。
「龍は本来の場所に戻さなくてはいけない。私は、間違った方法で人間に栄えて欲しいわけではないんだ」
「……間違った方法って?」
「野田くんは気付かなかったと思うけれど、この山はとても濃い死の気配がする。死者がいない年は、恐らく死者を作ったんじゃないかな」
 それは人がやったのだろうか。それとも龍がそうなるようにしたのだろうか。どちらにせよ、死者を作ってまで神様に捧げていたのだとしたら、白澤さんの厳しい口調にも頷ける。それは間違っていると、俺にもわかる。間違いを正すのならば、早い方がいい。
 ただ、気になっていることがある。もうここに神様をしていた龍がいなくなったのなら、魂を捧げるという祭りもなくしたほうがいいのではないだろうか。
「お祭りって、どうなるんすかね」
「神様がいなくなったことで自然と信仰は薄れていくと思う。そのうち、ただの夏祭りになるだろう」
 どこにでもある普通のお盆になるんじゃないか、と言われてぼんやりと空を見上げた。いつの間にか、小鳥のさえずりや蝉の鳴き声が帰ってきている。雲一つない青い空に日差しが眩しい。思い出したように、じんわりと暑さを感じた。
「月子さんは……」
「今頃、尾花さんが病院に連れ出しているんじゃないかな」
 白澤さんはゆっくりと歩き出した。俺も続いて、広場を後にする。
 山道を下りながら、広場を振り返った。手すりの向こう、崖の下からは変わらず川の水がながれるさらさらとした音が聞こえる。けれど、もう嫌な気配はなかった。
「大丈夫だといいですね……あの、この後どうしますか?」
「帰っちゃおうか。途中で寄り道してもいい」
 もはやこの集落に用事はないらしい。寄り道は白澤さんに任せることにした。

 神社に戻ると、集落は大騒ぎになっていた。
 地面から空に向けて雷光が走ったことではんださまがどこかにいってしまったんじゃないかと老人たちが騒いでいた。騒ぎを横目に車に乗り込めば、山を下る車がいくつか見える。車の窓を開けて道端で話す人の声を聞けば、尾花さんが月子さんを連れて自家用車で山を降りたという。
「千夏ちゃんは我慢ならなかったんだろうねえ。月子ちゃんが諦めているから、家の人たちも諦めていたけど……」
「ちゃんとした病院に見せなきゃってずっと言ってたもんねえ。お医者さんになるって東京に出て……」
 井戸端会議を盗み聞きして、そっと窓を閉めた。白澤さんは運転席ですっきりした顔をしている。俺も仕事を終えて、とりあえず安堵していた。
「野田くん、今のうちに丸井さんにどう報告するか考えておいたら?」
「……龍ってどこまで言っていいんすか?」
「内容次第かな……」
 レポート作成を助けてくれる龍はいないですか、と言おうとしてやめた。自分でできることを他人に助けてもらうのは間違っているだろうことは、さすがに俺でもわかった。やれば終わることなのだから、手を尽くさなければならない。
 集落を出て車を走らせる。外の景色を見て気を紛らわせていると、青い空に白い稲光が一瞬走って、すぐに消えてしまった。白澤さんに声をかけようと思ったが、疲れによる眠気か声が出せない。そういえば山も登ったし、たくさんのものを視たんだった。疲れているとわかると疲労感はますます強くなった。
 全く大変な仕事だった。この後のことは、後の自分が何とかしてくれるはずだ。後の自分を信じて目を瞑る。瞼の裏にも白い稲光が一瞬走った気がしたが、もはや眠気でわからなくなってしまった。

 あれから、丸井さんのサークルに尾花さんが姿を見せることはなくなったという。その後彼女たちがどうなったのか、俺たちが知ることはできなそうだった。
 やはり自分が依頼をしたのは正解だった、早く顛末を知りたいという丸井さんは俺の作る報告書を楽しみに待っている。俺もこの夏にあったことを思い出すことで、あらかた報告書を埋めることができた。
 丸井さんに報告書を届ける前に、内容を白澤さんに確認してもらう必要がある。データを送って確認してもらっている最中、ふと疑問が浮かんだ。
「白澤さん、そういえばあの龍ってどうなったんですか?」
「専門家に回収してもらった。長く外にいたわりに状態がよかったそうだよ……何なら、少し肥満気味だったとか」
「えーと、まあ……良かったってことですよね?」
 白澤さんは穏やかに微笑む。よかったということらしい。
 神様として崇められていた龍を解き放った、とそのまま丸井さんに伝えたら興奮状態のまま質問攻めに合いかねない。龍であることは伏せ、本来そこに居るはずのなかったものを信仰して力を得ていたと濁すくらいが関の山だ。それでも詳細を直接聞きたいとやってくるだろうが、その時は白澤さんがうまく話してくれるだろう。
「龍から辿って誰があそこに結びつけたのかも調べられそうだ。幻永界のものがやったのだとしたら、人間への干渉としてそれなりに罰せられる」
「……誰でしょうね、こんなことしたのは。あそこに住んでた人たちにしても、こうなるはずじゃなかったと思うんです」
「そうだね……大方、土地を豊かにするためにこうしたほうがいいと唆した存在もいると考えたほうがいいだろう」
 自分たちの住む土地が豊かであるように、その豊かな土地を子供達に残せるようにという願いがきっかけだっただろう。その願いの犠牲になっていたものがあるのだと彼らは知らなかったはずだ。
「本当は尾花さんともう一度話ができたらよかったんだけどね。誰に言われて野田くんを川に突き落とそうとしたのか知りたかった」
 そういえばそんなこともあった。結果として俺に何もなかったからよかったが、もしあそこに立っていたのが白澤さんだったらと思うとぞっとする。しかし、だからこそ二度と姿を現すこともないだろうと思う。白澤さんもそれをわかっているからこそ、追及することができないのがもどかしいのかもしれない。
「難しいですね、色々……なんか、うまくいくだけじゃないっていうか……」
「そうだね。手助けをすることはできるけれど……野田くん、報告書の確認済んだよ。修正箇所にチェックを入れておいたから」
白澤さんからデータが返ってくる。修正箇所にチェックの入ったデータを見るたび、先生みたいだと毎回思うのだがそのたび喉の奥で留めている。
「……答えをくれるわけじゃないですよね、白澤さんも」
「考えさせずに答えだけ与え続けるのも、良くないんだよ」
 そういうことがあったのかどうか、俺には知る由もない。けれど白澤さんの言うこともわかる。結局自分で考えた方が力にはなる。ただ、遠回りをしなくてもいいように手助けをしてくれるだけありがたいとも言う。
 丸井さんも報告書を待っている。何より、そばで見守ってくれるひとがいるだけで、気の持ちようは多少違うものだ。
「相談に乗ろうか?」
「……ちょっと考えてから行きます」
 報告書の修正に取り掛かる。丸井さんも待っているし、早く仕上げてやりたい。何より夏も終わってしまった。これ以上引き伸ばしたくもなかった。
 早く終わらせてしまおうと思うと、不思議と手が動くものだ。引き伸ばしていた宿題がようやく終わるような感覚にいまだに学生感覚なのかと自分に呆れたが、一生勉強は続くのだしと言い訳をして手を急がせる。
 外ではしとしとと秋の雨が降っている。ひんやりとした空気に急かされるように、画面に向かった。