【小説】怪奇探偵 白澤探偵事務所 | 夜逃げの部屋
人外の探偵・白澤(しろさわ)と、視える助手・野田(のだ)のお話。一部作中の固有名詞に解説がありませんがご了承ください。
(2022年9月4日のイベントで無料配布ペーパーに掲載したお話です)
本編は以下のマガジンを参照ください。
白澤探偵事務所に勤めはじめてから、ある程度のことには怯まなくなった。
探偵事務所と言いつつ、怪奇事象の原因究明および事象の排除が業務の主を占めている。だからコンテナの集まる埠頭や人里離れた山奥にも行くし、人ならざるもの、こちら側と違う世界――幻永界のひとと関わることもある。今までの人生に存在しなかったものに出会うたびに驚きはするが、そういうこともあるかと受け入れられるようになっていた。
しかし、それでも全く驚かないわけではない。何かある、という心構えがあるからある程度耐えられるともいえる。だから、予想外のことが起きると今でもうろたえてしまう。白澤さんが取り乱すことは殆どないから見習わなくてはと思いながら、今日も助手として勤めている。
今日の依頼は、夜逃げのあった部屋の下見を頼みたいというものだ。
不動産物件を扱う依頼人が言うには、下見に行った人たちが軒並み逃げ帰ってくるものだから部屋がどうなっているものかわからなくて困っているらしい。自分の目で見るのはさすがに恐ろしいということで白澤探偵事務所を頼ったのだと依頼人が言っていた。
問題の部屋は東京の外れ、隣県に接したベッドタウンの住宅街にあった。駅までさほど遠いわけでもなく、近くに公園や学校がある閑静な住宅街を絵に描いたような場所で、ここに何人も逃げ帰るような部屋があるとはとても思えなかった。
ぬるい風が頬を撫でる。午後から雨になると天気予報が言っていたが、どうやら予定は早まったようでぽつぽつと雨が降り出していた。空を見上げれば、厚い雲が広がっている。次第に雨粒は大きくなり、傘を叩く雨音は随分激しい。自然と速足で現場に向かっていた。
依頼人から頼まれたアパートに着き、ようやく傘を閉じる。夜逃げをするほどなのだからとんでもないことになっているのかと思ったが、傍目には特に変わった様子はない。俺が昔住んでいた部屋よりよっぽどきれいなアパートで、少し拍子抜けしたほどだ。
しかし、依頼人に指定された部屋番号の集合ポストにはカラフルな封筒がいくつもはみ出している。この激しい雨で、封筒はいくらか濡れてしまったようでへたりと歪んでいた。
「郵便物ってどうするんでしたっけ?」
「後で依頼主が回収しに来るそうだよ。もし気になるものがあるなら、外から視てみる?」
ぎゅうぎゅうになったポストを改めて見て、それから目を瞑る。瞼の裏で何かが切り替わる感覚があって、普段は見えないはずのものが視えるようになった。けれど、ポストの中に俺が視えるものは何もない。目を開けて首を横に振ると、白澤さんにもそれは伝わったようだった。
「部屋を見た人は誰もいなかったんすかね」
「戻ってきた人たちは殆ど喋らなかったそうだよ。この場所のことも調べてみたけれど、何かが起きる場所というわけではなかったから私も検討がついていないんだ」
場所に理由がないのなら、人に理由があることになる。すっかりこの場所から逃げ去った人間のことは調べてもよくわからず、今も連絡がつかない状態であるという。
階段を上る。二階の西側に面した角部屋が問題の部屋だ。廊下には別の住民の育てているらしいプランターのミニトマトがあるくらいで、目立った何かがあるわけではない。部屋の外にまで影響を及ぼすようなゴミ屋敷なのではと考えていたが、そうではなさそうだ。
見た目に異常がないなら、部屋の中に一体何があるのだろう。
仕事には慣れた。驚くことにもある程度慣れている。けれど、それは自分が予想できたり、理解できるものではないと諦められるものだからだ。わからないものは、さすがにまだ怖い。
「野田くん。ドアを開けてから、部屋の中に入らずに視てみようか。どこに原因がありそうか目星をつけてからのほうが私も対処しやすい」
「了解す」
依頼人から預かった鍵を使い、白澤さんがカギを開ける。ノブを捻ってドアを開けた途端、内側からぶらんと何かが落ちてきた。突然予想もしない動きがあって、思わず口の中で呻く。
白澤さんがドアを開ききり、ストッパーで止める。一体何が落ちてきたのかと玄関を見れば、そこには先に輪が作られた紐が落ちていた。電車の吊り輪より輪が随分大きい。人の頭が入るくらいの大きさに気付いて、背中に嫌な汗が浮く。首筋の裏がちりちりと焼けるような感覚があった。
「野田くん」
「……すいません、ちょっと驚いただけなんで。視てみます」
目を瞑る前に、部屋の中をちらと見る。部屋の中にもいくつか紐が見えた。どうやらわざわざ天井に棒をぶら下げ、そこから紐を垂らしているらしい。ぶらぶらと揺れる紐を見ていると、さすがに何となく気分が悪くなる。
部屋はごく普通のワンルーム。入ってすぐ右手にキッチンがあり、その向かいにユニットバスの扉がある。なぜかユニットバスの明かりはついたままで、それが暗い部屋を微かに照らしているのが異様な光景だった。
目を瞑る。瞼の裏で視界が切り替わる感覚があり、部屋の中に薄ぼんやりとした光が見えた。光は大小ある。ここで何か、俺に視えるようなことが起きているというのはわかった。怪奇現象というより、怪異物が持ち込まれたという感じだ。
「結構数があります。嫌な感じがあるのは……ユニットバスの中ですかね?」
「わかった。野田くんは部屋の中に入らないで、ここで待っていて」
部屋の中を見て怯んだのが白澤さんにはわかっていたらしい。申し出に甘えて、部屋の外から視ていることにした。
「大きさはどれくらい?」
白澤さんの声が少し遠くなった。部屋の中に入ったらしい。俺は目を瞑ったまま、嫌な感じのする光を見ている。光は大きくなったり小さくなったりと不定形だ。ただ、何となく嫌な気配だけはずっとある。
「大きくなったり小さくなったりですね……低いところにあるのはずっと変わらないです」
「うん……ああ、これかな」
風呂場で白澤さんの声が反響している。何を見ているのかはわからないが、原因らしきものを見つけたようだ。小さな光の塊は、白澤さんの声とともに場所を変えた。
「それですね。今は小さい塊で……」
他には何もないと言おうとしたところで、刺々しい光が目についた。白澤さんの手に持つそれより、やけに眩しくて目に痛い。これはよくないものだと直感的にわかった。
「白澤さん、足元にまだ何かあります!」
風呂場から水の流れる音がした。雨とは違う音に一瞬驚くが、排水溝からまとまった量の水が流れる音だと気付く。同時に、やけに眩しかった光が急に弱くなり、ついには消えてしまった。
目を開く。白澤さんの手には、黒い紐の塊が握られていた。それは水を滴らせ、廊下に水滴を落としている。
「おそらくこれが原因だろうね。あんまりよくないものだから、野田くんは触らないで」
そういって、白澤さんはすぐに紐をしまい込んでしまった。紐は密閉性の高い袋に入れられたうえ、黒い布にくるまれてしまって中身は全く見えなくなる。一体どういうものだったのか、きっと俺が知ることはないだろう。
「……この家の人って、本当に夜逃げしたんですかね?」
「さあ、どうだろう。私にはわからない」
この部屋に住んでいた人は一体何をしたというのだろう。紐をぶら下げた目的はわからず、ユニットバスには怪異物が放置されていた。この部屋に訪れた人たちがそれぞれ何を見たのかもわからないままだ。
首を傾げながら、玄関に放置していた傘を取る。そのまま帰ろうとしたら白澤さんに呼び止められた。
振り返れば、白澤さんが部屋の廊下に立っている。部屋の中を見ているようだが、俺の視界には白澤さんの背中しか見えない。
「野田くん、部屋の中を視てくれる?」
念のため、と念を押されて再び目を瞑る。部屋の中には、もう何も視えない。
「……もう、何もないみたいすね」
「そう……じゃあ、あれはおまけとして片付けておこうかな」
白澤さんはそう言って、廊下にしゃがみ込んだ。何かを拾い上げたようだが、俺にはよく見えなかった。
玄関から白澤さんが出る一瞬、ワンルームの部屋を覗き込んだ。そこには何もいない。ただ、誰もいないのに紐がぶらぶらと揺れているのが見えてしまった。白澤さんが何も言わない以上、俺が知ることは何もない。何も見えなかったことにしようと、そっとドアを閉めて部屋を後にした。