【小説】#36 怪奇探偵 白澤探偵事務所|未来の映るビデオデッキ
あらすじ:未来の映るビデオデッキがあるという噂を聞きつけた丸井は、白澤と野田を連れ雑居ビル内にある雑貨屋を訪れる。それぞれが噂のビデオデッキを探す中、野田は不可思議な音声を聞きつけ――。
シリーズ1話はこちら
川の淵を、桜の花びらが埋め尽くしていた。
寒の戻りがあって開花が遅れた桜があっという間に花開いたと思ったら、もうおしまいとばかりに散っている。川に沿って作られた遊歩道には色とりどりの提灯が飾り付けられ、人でごった返して歩きづらいことこの上ない。一人だったら絶対に来ない場所だと、隠れてそっとため息を吐いた。
今日は花見にきたわけではない。丸井さんとの待ち合わせがあって、そこにたどり着くにはどうしてもこの人混みを通らねばならなかったのだ。
目の前を歩く白澤さんは、人混みをものともせずに歩いている。誰かにぶつかることもなければ、誰の邪魔をしてもいない。俺はといえば、よそ見をしていた誰かにぶつかられたり、目の前の人が急に立ち止まって驚かされたりと、もう挫けそうな気分になっている。花を見るどころではない。
「野田くん、この先だよ」
白澤さんが振り返って先を指差す。人混みはまだ続いているが、一体どこへ行くというのだろう。とりあえず白澤さんの背を見失わないよう、はぐれないようについていく。
人々は足を止め、川沿いに生えた桜に見入っている。提灯をぶら下げた飾りは賑やかで、寄進した人の名前が達筆な筆致で書かれている。周囲の飲食店はテラス席まで人が埋まり、ふと見上げるとビルの窓から川を見下ろす人の姿も見えた。誰もが穏やかな春の空気に気持ちを和ませているようで、その空気の中でふと違和感のある建物があった。
立ち入り禁止を示す三角コーンが道を塞いでいる。恐らく建物の名前が書いてあったであろう箇所は掠れ、読めなくなっている。管理会社の文字も滲んでいるが、どうやら気にせず使われているようだった。
穏やかな春の日にあってなお、その空間だけが妙に見える。変なビルだなと思っていたら、白澤さんが立ち止まった。
道沿いにあるビルの裏口、三角コーンの向こう側は扉が閉まっている。通り抜けできないように鍵がかかっているのではないかと思ったのだが、白澤さんはさも当然のように扉を開けてその先へ進んでいく。俺も続けて裏口へ飛び込んで、扉を閉じた。人々は桜を見ていて、俺たちがこれからどこへ行くのかも見ていない。
ビルに入ると、丸井さんはエレベーターホールにいつもと変わらない様子で立っていた。
「あ、いたいた、ごめんねーこんな辺鄙なところに呼び出して!」
都会のど真ん中ではあるが、確かに変わった場所ではあった。事前に聞いている依頼の内容は、買い物に同行してほしいという話だった。
「店が特殊なんですか? それとも品物の方?」
「店の場所はごらんの通りで、品物の方はね……ちょっと噂を小耳にはさんでて!」
丸井さんは口元を抑えてにやりと笑う。それから、いつも身につけているショルダーバッグから皺の着いた紙を取り出した。白澤さんが先に見て、それから俺に回ってくる。
「……未来の映るビデオデッキ、ですか」
口にしてみると、なんともおとぎ話のような響きである。同時に、レトロでもある。ビデオデッキなんて、祖父母の家にあったのを見たくらいだ。レンタルビデオ屋にいった記憶はあるが、ビデオ屋というよりDVDの取り扱いが多かった気がする。
「噂によるとギャンブルで勝ちを当てたとか、どういう職に就いたらいいかとか、人によって見える内容が違うらしいんだよね! もしかしたら白澤くんなら見える内容も違うかもしれないと思ってさ」
野田くんはそもそも何か視えたら教えてほしいし、と言って丸井さんはエレベーターのボタンを押す。なるほど、本当に買い物に同行するだけのようだ。しかし、未来が映るという触れ込みはきな臭すぎるのではないだろうか。
無人のエレベーターはすぐにやってきて、大人三人が乗り込むと少し狭い。行き先を示すランプは八より上がなく、丸井さんの指先は迷わず五階を押した。エレベーターの型式が古いからなのか、ボタンはきしりと軋んだ。
「実際、未来が映るみたいなものってあるんですか?」
白澤さんに尋ねると、一瞬曖昧な顔をしてからにっこりと微笑んだ。丸井さんの手前はっきりということはできないということだろうか。たぶん、本当にあるのだろう。しかし、こういうところにあるとは思えないというあたりか。何となく白澤さんの表情が読めるようになってきて、自分でも少し面白い。
「市場に出回るようなものはパーティアイテムでしょうね。丸井さんも挙げたように、ギャンブルで先に勝ちを知るような不正に使われると困りますし」
「はー、やっぱ向こうでもそういうのは困るんだ! 人と変わらないねえ」
丸井さんが関心したように言うのと同時に短くベルが鳴り、ドアが開いた。思ったより広いビルであるらしく、右矢印と共に会社名が表示される立て札がある。
「雑貨屋はこっち。看板は出してないらしいんだ」
立て札と逆の方向、左に進む。迷う様子のないあたり、もしかしたら丸井さんは見に来た事があるのかもしれない。
「前に一度来たんだけどね、そのときは閉まってたんだ。不定休らしいから、今日は開いてるといいなあ」
「ああ、お休みのこともあるんですね……なるほど、私の方では把握していないお店です」
ビルの細い廊下を通り抜けると、確かに雑貨屋はあった。鉄の扉が開け放たれていて、ドアストッパー代わりに雑貨屋の看板が立っている。中古品、電化製品、テレビデオ、ラジカセといったキーワードがぎゅうぎゅうに書き込まれていて、一見すると少し古い商品を扱う雑貨屋のような印象だ。
「お、開いてる! 噂のビデオデッキは表に出てるって話だったけど中にあるのかな、いやっでも他に変なものありそうだから見たい!」
丸井さんは店の中に飛び込んでいってしまった。白澤さんは一瞬考えて、それから俺をちらと見た。
「本当に変なものがあったら回収したいから、野田くんはお店の中を視てまわってくれる? 私は丸井さんについて、危なそうなものは止めておくよ」
「了解す」
白澤さんはすぐに丸井さんの後を追いかけた。俺も遅れて店に入ると、まずは埃っぽい匂いが鼻につく。天井まで届きそうなアルミラックには隅々まで商品が詰まれ、一部は値札が貼り直されたり、剝がされたりした形跡があった。
レジが一見して見えないあたり、もし盗まれても気付かなそうな作りをしている。あえてそうしているのか、だんだん商品が増えていってそうなったのかはわからない。けれど、丸井さんの言っていたビデオデッキはすぐにわかった。
今では古い映像の再放送でしか見かけない分厚いブラウン管テレビに、デッキが一体化している。一体いつの映像なのか、色あせた画面では半袖のアナウンサーが朝のニュースを伝えていた。
――続いて、朝の占いのコーナーです。本日の最下位は、牡羊座のあなた!
ランキングがずらりと並び、わざわざ最下位として読み上げられたのが自分の星座であることに気付く。別に占いなんか信じてもいないが、順位をつけられてそのうえ一番下であると言われるのは何となく気分が悪い。今日はついてないから、と言い訳に使えてしまうのも、あまりいいものではなかった。
――最下位のあなたは、自分の幸せについて考えてみてくださいね!
じんわりとした不快感を抱きながらも、ビデオデッキの前で目を瞑る。これが丸井さんの言う未来が見えるというビデオデッキなのか、単純に動作を保証するデモなのかはわからないが、ちょうど店全体の商品が見渡せる場所であることに気付いたのだ。瞼の裏で視界が切り替わる。漠然と光を感じるあたり、ここに何かがあるのは間違いなかった。
しかし、ぼんやりしすぎている。距離感がわかりづらい。目の前にあるこれがそうなのか、それともデッキの裏にあるのかがわからないのだ。
物が多いと区別するのが難しい。角度を変えてみようと目を開けると、テレビに映るアナウンサーが静止していた。
一時停止だろうか。もしくは、録画がここまでしかないとか。とにかくさっきまでのニュースの音声は完全に止まってしまい、ただ映像だけが映っている。それが何となく不気味で、画面が見えないように横に回り込んで再び目を瞑った。
――最下位のあなたは、自分の幸せについて考えてみてくださいね!
同じ音声が流れる。ビデオテープが壊れてしまったのだろうか。壊れた映像をデモで流しておくかどうかは疑問だが、ようやく瞼の裏にはっきり光るものを見つけた。
デッキの中に、ぼんやりと光がある。これはつまり、ビデオデッキの中身に何かしらの原因があるということだろう。ともあれ、まずは白澤さんに報告しなければ。
目を開ける。今度は、ひび割れた音声が何かを言った。音質が悪く、何を言ったのか聞き取れない。けれど、きっとまた同じようなことを言ったのだろう。最下位のあなたは、自分の幸せについて考えてみてくださいね、とか。
「白澤さん、あの……変なデッキ見つけました。たぶん、デッキの中身だけがおかしい感じだと思うんですけど」
「えっ、どれどれ、見たい! 映像は? 何が映ってるの?」
狭い店内である。白澤さんだけを呼び止めることは難しく、まずは丸井さんがビデオデッキにすっ飛んで来てしまった。白澤さんは苦笑しながら丸井さんの後を追いかけようとして、ふと足を止めた。
「野田くんは何を見た?」
「……朝のニュースでやってる占いでしたよ。牡羊座は最下位です、っていう……でも、適当な録画みたいだったんで、たぶんまだ同じ画面で止まってると思います」
ビデオデッキのところまで戻ると、丸井さんが首をひねっていた。何の音もしないし、恐らく映像はまだ止まっているのだろうと画面を見ると、何も映っていない。それどころか、薄っすらと埃を被っていた。
「全部消えてるけど、どれがついてたの?」
目を瞑る。光は変わらずあって、けれど画面には何も映っていない。
「これ、だったんですけど……内側に何か、あるみたいで」
白澤さんがビデオデッキに触れる。それから、デッキの下にある蓋を持ち上げた。
「……中に何も入ってないね。本体に録画が残せるタイプではないみたい」
それなら、さっき俺が見た映像は一体何だったのだろう。首筋にぞわりと寒気が走る。
「残念、僕も見たかったなー!」
映像がないとわかった丸井さんは、どうやら興味を失ったようだった。白澤さんは購入して帰るつもりでいるらしく、店主を呼びにこの場を離れた。二人が居なくなった瞬間、画面に光が灯る。
――最下位のあなたは、
そこまで聞こえて、耳を塞ぐ。こんな些細な未来でも、別に知りたくはない。二人のどちらかがこれを見ずに済んだのならまだましだ。映像に言い返すのもおかしい気がして、ただその場を後にする。映像の音は、もう聞こえなかった。
持ち帰ったビデオデッキは、明日の朝に商人であるエチゴさんが査定に来ることになった。何やら忙しい時期らしく、始業前の時間なら来られると連絡があった。白澤さんは査定と同時に中身を調べるつもりらしく、丸井さんに報告するのはその後になりそうだ。
「明日の朝は私が対応しておくから、野田くんはいつも通りでいいからね」
「……お言葉に甘えさせていただきます」
タクシーに乗せて持ち帰ってきたとはいえ、ビデオデッキを運んだからか流石に腕が疲れている。持ち帰ることを見越して荷物を運ぶためのカートを用意しておくべきだった、と密かに後悔していたところだ。もちろん事務所に運び込むときも苦労した。
ビデオデッキは事務所の応接テーブルの上に置かれている。埃が積もっていたから軽く拭いてやり、ようやく綺麗になったところだ。ビデオデッキの中を確かめたが、やはり中には何も入っていなかった。
「野田くんの目では、このビデオデッキの中にあるものはどう視えた?」
「普段とそんなに変わらない感じですね……刺々しい感じでもなく、内側にあるなってこと以外は何も特徴がなかったです」
実際、今視てもただ在るということがわかるだけだ。害意がないものならもっと親しみを感じるものだし、嫌なものならもっと肌でわかる予感があるものだ。そのどちらもない以上、何とも判断ができない。
「そういえば、朝の占いを見たと言っていたね。あまりよくない内容だった?」
映像の記憶はほとんどない。何しろ画質がよくなかったし、それより執拗に最下位だと言われたことの方が記憶に残っている。思わず苦い顔をすると、白澤さんが苦笑した。
「最下位だから自分の幸せについて考えてみろって言われたんですよ」
「……なるほど」
白澤さんは神妙な顔をして頷く。実際に映像を見せることができればよかったが、あれからビデオデッキはうんともすんとも言わなくなった。電源を付けてみても動かないあたり、あの場所にあるということが重要だったのかと思うほどだ。
「とりあえず、その話も含めてエチゴさんと調べてみるよ。もし視てもらう必要があったらまた相談するね」
今日はもう休んで、と声をかけられて短く息を吐く。ビデオデッキは沈黙している。さっき俺に見せたものは何だったのだろうと思うが、仕事が終わったのなら考え続けるのはやめだ。もちろん、幸せについて考えるつもりも毛頭なかった。
翌朝、白澤さんが閉めたドアの音で目が覚めてしまった。
二度寝をするには遅く、いつもより早い。眠気を覚ますために朝飯の支度でもするかとリビングに出て、何となくテレビを点けた。普段はしない。ただ、何となく気になったのだ。
画面の中、半袖のアナウンサーがニュースを読み上げている。既視感があった。昨日見た映像と、似ている。
――本日は、初夏のような一日になりそうです。気温にはお気をつけて!
天気予報で示される気温は、確かに春に似つかわしくない気温だ。半袖でいることに違和感はない。ただ、昨日見た映像に似ていると気付いてから嫌な予感がしている。
まさか、本当にこれから流れるのだろうか。丸井さんが言っていたように、未来を見せるビデオデッキだったとでもいうのか。妙に緊張しながら画面を見つめてしまう。
――続いて、朝の占いのコーナーです。本日の最下位は、双子座のあなた! ラッキーアイテムは――
画面を見ながら、気付けば肩の力が抜けていた。
「……外れてる」
独り言が零れる。意外と気にしていたらしい自分が少し気恥ずかしく、テレビの電源を切った。朝飯の用意をするために振り返れば、ちょうど白澤さんが事務所からの階段を上がってくる音がする。少し待っていると、エチゴさんを連れて白澤さんが現れた。
「もう起きてたんだね、ちょうどよかった。エチゴさんがあの道具をご存じで、どういうものかわかったから知らせておこうと思って」
昨晩、苦い顔をしていた俺を気遣って声をかけに来てくれたらしい。確かに、人によっては不安を駆り立てられそうなものだった。
「野田さん、おはようございます~。あれ、昔幻永界で流行ったものでぇ……ちょっとイヤなものを見せて、生活を引き締めさせるっていう道具なんです。未来でも真実でもないですから、気にしないでくださいね!」
昔はそういう道具があったんですよお、とのんびり言って、エチゴさんはいつもと変わらず穏やかに微笑んだ。なるほど、そういう道具を必要とする人がいたのだろう。俺にはわからないが、世界にはそういう人もいるのだ。
「気にしないことにします。わざわざ、すいません」
「いえいえ、あれはこちらで引き取りますので……何か、いいもの食べたり、楽しいことしてくださいねぇ。結構、その人にとってチクっとすることを言ってくるので……」
引き取るために準備をするから、と言ってエチゴさんは階下へ戻っていった。白澤さんは、俺をじっと見ている。ちょっとした穴が開きそうだ。
「白澤さん、あの……大丈夫ですよ、俺は」
「それはよかった。昨日の夜は私も言葉にするのを少し迷ってしまって、あまり声をかけられなかったものだから……」
確かに、白澤さんから踏み込みづらい話ではある。幸せと言われても、俺自身もよくわかってない。
「……さっきテレビを点けたら、朝の占いやってて。全然、最下位じゃなかったんす。だから、大丈夫です」
「大丈夫なんだ」
「はい、大丈夫です。朝飯食ってから事務所行きますね」
「ゆっくりね」
白澤さんはかすかに笑って、事務所へ下りていく。その足音が聞こえなくなるまで見送って、それからキッチンへ向かう。さっきから腹がぐうぐうと主張していて、すぐに満たしてやらないと何もできそうにない。
キッチンの細い窓から朝日がかすかに差し込んでいる。予約炊飯をしていた炊飯器を開けるとふわりと白米の匂いがして、また腹が鳴る。茶碗に米を盛りながら、たぶんこういうことの一つ一つが幸せなのかもしれないと思う。幸せというにはあまりにささやかだから、白澤さんには黙っているつもりだ。茶碗から立ち上がる湯気を見ながら、さっさと忘れてしまおうと思った。
*
緑が一面に広がっていて、呆気に取られてしまった。
一言で言ってしまえば緑地の多い公園なのだが、見慣れない緑の多さに何だか圧倒されてしまっている。ついこの間まで花が咲いていたように思うし、それを言えばそもそも丸裸の木々もすぐに思い出せる。しかし、あっという間に緑が溢れて止まないのだから改めて驚いてしまう。
休日、ぼんやりと起き出したところを白澤さんに連れ出されて遠出をすることになった。
出かけるんだけど一緒にどうかなと言われたときには断ろうと思ったのだが、いつも通り過ごしたとして家でだらだらするだけなのだしと思い直した。
ついこの間の、妙なビデオデッキの一件から何となく調子が狂ったままだ。
「野田くん、飲み物買ってきたよ」
「あ、すいません、ありがとうございます」
出かけると言った白澤さんは、本当に方々を出歩いていた。公園に着くまでの間に百貨店に入り、白澤さんの知人の店らしい個人商店にも足を運び、少し腰を落ち着けようということで公園のベンチで少し休みはじめたところだ。歩くのはそこまで苦ではないが、一人だとこんなに出歩くこともないなとぼんやり思う。
「この間の仕事から調子が良くなさそうだったから、気晴らしになればと思ったんだけど……誰かと外出すると少しはしゃいでしまって、歩きすぎたね」
確かに足の裏が鈍い感じがする。白澤さんに貰った飲み物で喉を潤すと、思いのほか喉が乾いていたことにも気付いた。十分な運動になったのは間違いないだろう。
「……なんか、気を遣ってもらってすいません。自分でも何だか、妙に引きずってる感じがあって」
「私に対処できるものなら原因を取り除いてあげられるんだけどね」
怪異が原因であるとき、大体は白澤さんが解決してくれる。ただ不愉快な目にあっただけというのは、白澤さんにも解決するのは難しいことであるらしい。確かに、俺の心持ち次第なのだから、人にどうこうしてもらうのは難しいのはわかる。
「だから気晴らしになることを一緒にしようかなと思って誘ってみたんだけど」
息を吸って、吐く。緑を眺めると眩しく、じんと痺れた足が重い。体を動かして、普段見ないようなものを見て、今日は一度もあのことを思い出さなかった。気持ちは幾分かすっきりしていて、改めて思い返してみると、嫌な言い方をされて苛ついていたのかもしれない。
「誘ってもらってうれしかったです。すっきりしました」
「そう。それならよかった」
自分の感情を認めてみるとすっきりして、なるほどそうだったのかと思う。案外、自分がどう思っていたかなんてわからないものだ。これで、見たもののことは綺麗に忘れられそうだ。
ペットボトルに口をつけ、ふと思う。この公園に来てから自販機は見かけていない。俺の知らない場所にあったのだろうが、白澤さんはいつそれを知ったのだろう。ここに来たのははじめてではないということなのだろうが、普段からそんなに方々を歩き回っているのだろうか。
「白澤さんは結構、散歩好きですよね」
「新しいものを見つけるのにちょうどいいんだ。前はここに何があったかなって思い出すこともある」
白澤さんはふと手元のペットボトルに視線を落とした。
前はここに何があったか。白澤さんは、この街をずっと見てきたのだろう。全て思い出せるのか、それとも忘れてしまうのか俺にはわからない。俺はといえば、そういえばあったな、くらいですぐに忘れてしまうことが大半だ。苛ついたし、嫌な気分にもなったが、きっといつかはすっかり忘れてしまう。
「もう少し休んだら帰ろうか」
「……そうですね」
早くから出かけたからか、まだ日が高い。自宅に帰ってからひと眠りしても良さそうだ。たぶん悪い夢は見ないだろうなと、太陽の光をきらきらと跳ね返す緑たちを見ながらそう思った。