【小説】続、僕たちはあの日より
再会から一年、牧と五十嵐が東京スカイツリーへ遊びに行った日の話。
前回の話:僕たちはあの日より
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春一番に乗って梅の花の匂いがする。
東京駅のホームに降り立った瞬間、強い風に吹かれた。新幹線に乗る前は確かに冬だったのに、たった二時間の移動で季節が変わったので少し驚いてしまう。東京は、もう春の匂いがしていた。
スーツ姿のサラリーマンに交ざってホームを歩き、改札出口へ向かう下りエスカレーターへ乗る。新調したコートから携帯を取り出し、メッセージアプリから待ち合わせをしている友人の名前を探した。
登録してある連絡先は少ないからすぐに見つかるのだが、その名前を探すほんの僅かな間が焦れったくて、焦れったいと感じる自分自身が子供っぽくて、つい笑ってしまう。
五十嵐千晴、という名前見つけてタップする。「到着」と短くメッセージを送れば、「改札」とメッセージが返ってくる。上京も三度を超えれば慣れたもので、いつも待ち合わせに使う改札出口を目指した。
人の波を歩きながら、きょろきょろと周りを見渡してしまう。いつも上京するときより人が少なく感じるのは平日だからだろうか。休日と平日で駅の景色、雰囲気が変わるというのは初めて知った。
一泊分の荷物と土産の入ったボストンを肩に引っ掛け、改札を出る。改札の近く、柱を背にして立つ見慣れた顔にひらひらと手を振れば、向こうも軽く片腕を上げた。
上京に不慣れな頃はお互いを見つけるだけで三十分はかかったものだけれど、最近はすぐに五十嵐を見つけられるようになった。
手招きをする五十嵐に向かい、小走りに駆け寄る。前は正月に地元で会ったから、約一か月ぶりの再会になる。再会、というほど大した間でもないが、この日を待っていたのは本当だ。
「五十嵐、お待たせ」
「全然。じゃ、バス乗り場まで行こうか」
五十嵐は天井に下がる掲示を見て、さっと歩き出した。僕はその背中を見失わないよう、後に続く。黒いチェスターコート、ひょろ長いシルエット、階段を降りるたびにハーフアップの髪がふわふわと跳ねる。見失ってもすぐに見つけられるなと思うのだけれど、五十嵐は時々振り返って僕が付いてきているかどうかを確認してくれているので、はぐれたことはない。
「ここからスカイツリーまで、どれくらい?」
何の話がきっかけか覚えていないのだが、平日限定でスカイツリーの内部構造を見学するツアーがあると知った。
地元では確実に見られない高さからの景色も見てみたいし、あの日本で一番高いという建物がどのような構造で作られているかいうのも気になる。単純な好奇心と、行ったことがないという理由で五十嵐を誘った。
平日限定の開催となると、僕の休みがとれるかどうかがまず問題になった。教師は有給休暇が取りづらいというのはよくある話だが、今回はたまたま消滅する有休がもったいないという理由で休みが取れてしまった。もちろん、同僚や先輩方の協力もあり、業務量の調整をしてのことだったが。
休みが取れてからは、早かった。
五十嵐に予定を開けてもらって、新幹線のチケットを取って、休みの分仕事が滞らないように少しずつ自宅に仕事を持ち帰り、ごま次郎が寂しがらないようにたっぷり遊んで、そしてようやく今日が来たというわけだ。
「三十分くらいかな、意外とすぐ」
「近いんだね」
東京スカイツリータウン直通、と書かれた乗り場を見上げる。切符売り場はどうやら別にあるらしく、五十嵐が買ってくると言って姿を消した。お留守番である。
きょろきょろと周りを見渡す。平日に休みを取って遊ぶ、ということにほんの少し罪悪感はあったけれど、人混みで疲れることはなさそうだと思うと今日を選んでよかったとも思う。
「牧、チケット」
「ありがとう」
チケット代を渡している間にバスがやってきて、慌てて乗り込む。他に乗客がいないようで、好きな席に座って良いらしい。
「どこにしようか」
「一番後ろでいいんじゃない、荷物もあるから」
ボストンバッグは膝に抱えるにしても足元に置くにしても多少かさばる。そもそも、男二人で並んで座ると普通の席は少し狭い。
最後尾席の窓際に座り、シートベルトを締める。バッグは五十嵐に任せ、東京の街並みを眺めた。出発時間を告げる放送が流れ、バスはゆっくりと走り出す。
「……俺、酔っちゃうから寝るね」
「うん、わかった」
五十嵐が目を瞑る。僕は日頃の疲れから新幹線でぐっすり眠ってしまい、今は全く眠くない。むしろ目が冴えている。
そういえば、遠足の前日はうまく眠れない子供だった。教師になってからはそういうこともなく、久しぶりの感覚に浮かれ気味だ。今日は何が見られるだろうか。知らない景色が見られることが楽しいのだと、今の僕は知っている。
遊び疲れるという感覚を、久しぶりに思い出していた。
「さすがに足がくたくた……」
「いいよ、牧は座ってて」
内部構造ツアーを楽しみ、展望台を楽しみ、ついでに水族館までくまなく歩いて、足の裏がじんじんしている。痛いわけではなく、単純に疲労だ。五十嵐の言葉に甘え、コートを任せて先にこたつへ滑り込んだ。電源を入れたばかりで、まだ冷たい。
五十嵐の家に泊まらせてもらうのは、これで三度目になる。大きいテレビは見慣れないし、二人でこたつに入ると少し狭い。その狭い机の上にクラフトビールの瓶と、駅前で調達してきた惣菜が並んでいる。五十嵐はリモコンを手に取り、ちらと僕の方を見た。
「見たいものある?」
「五十嵐に任せるよ」
「わかった」
昔流行った映画、タイトルも知らない洋画、懐かしい雰囲気のアニメとテレビ画面が切り替わっていく。チャンネルが多い。家では三つか四つしかリモコンのボタンを使わないから、質によってはボタンが抉れることがあったなとふと思い出してしまった。最近は仕事から帰ってすぐごま次郎と遊び、仕事の疲れと遊びの疲れでぐっすり寝る日々が続いていてテレビとの縁が薄く、何を見ても知らないものばかりになった。
「便利だねえ、配信サイト。僕はCMでしか知らないけど……」
「スマホでも見られていいよ」
五十嵐は映像を見るというよりBGMとして使っているらしい。確かに、ぼんやり流しておいて、気になったら見るという使い方もあるだろう。僕には思いつかない発想に、なるほどと真剣に唸ったら笑われてしまった。
「これにしよう」
画面に柴犬の子犬がころころと走り回る様子が映し出され、リモコンの音が止んだ。犬についてのドキュメント番組らしい。僕はまだ温まらないこたつの中で足の裏とふくらはぎを適当に揉みほぐしながら、ぼんやりと画面を見ていた。
画面を横目に、ビアグラスとマグカップが並ぶ。一人暮らしだと一人分しか食器がないのは当然だとわかっているけれど、いつ見てもちぐはぐな食卓につい笑ってしまう。
「今日は色々ありがとう、楽しかった」
マグカップにビールを注ぐ五十嵐に声をかければ、きょとんと目を丸くしていた。マグカップの淵にある泡が溢れそうになって、慌てて瓶を持つ五十嵐の手を傾ける。
「僕、変なこと言った?」
「……いや、真面目だなと思って……俺も楽しかった」
牧が誘ってくれなかったら行かなかったと思う、と言いながら瓶の残りをグラスに注ぐ。グラスを満たすには少し足りず、中途半端なグラスと溢れそうなマグカップが並んだ。
グラスを五十嵐が持ち、マグを僕が受け取り、無言で乾杯を交わした。口をつければ、唇に触れる泡と、すっきりとした苦みが舌の上を滑っていく。
「なんで一口目ってこんなにおいしいんだろうねえ」
「疲労? ……先生、それは知らないんだ?」
「予習してないからなー……」
予習していればある程度答えられるとは思うが、今日は先生をお休みしている。この場で調べて解説することも出来るが、普段より歩き回って疲れている体では解説も頭に入ってこないだろう。アルコールも入っているし。
知らないものを教わるのは楽しい。スカイツリーの内部構造を見学するツアーは興味深かった。通常は入れないスカイツリーの内側からの景色と、ツリー自体の解説を受け、ただひたすら感心してしまった。楽しかったな、と反芻してしまう。
そういえば、ツアー中に五十嵐が何かを撮影する姿を見た。
「五十嵐、今日はいい写真撮れた?」
「全部ガラス越しだから、今日のは全部アルバムかな」
五十嵐の見せてくれる画面を覗き込む。雲の切れ間から覗く富士山、鉄骨の連なる造形、スカイツリーの落とす巨大な影。
五十嵐の見せてくれる写真を見ると、五十嵐はそういう部分を見ているのだな、と思う。
僕も真似をして撮ってみたけれど、ガラスに反射する僕たちが写っていたり、何もかもが豆粒みたいだったりした。人に見せるのは少し戸惑うような、何を写したのかわからない写真ばかりだ。ただ、今日の出来事を残すアルバムのために撮った写真なら、上手じゃなくてもいい。僕の写真も見せようとしたところで、テレビの画面に映る子犬に視線を奪われた。
「これ、ごまもやる」
物陰に隠れ、目の前に人が出てくると飛び出して、人の足にじゃれついて床を転がる。そのまま、楽しそうに駆けていく。追いかけっこがしたいときによく見る仕草だ。
「うち猫だったから、あんまりこういうのなかったな」
「猫は遊ばない?」
五十嵐の家は猫が二匹いる。家族の誰かがいつのまにか家に連れてくるのだという話を、前に聞いた。
「姉ちゃんとはよく遊んでたよ」
俺はおもちゃの使い方が下手だったっぽい、と五十嵐は猫じゃらしを振る真似をする。確かに、ゆったりしすぎている気がする。五十嵐っぽくはあるけれど、猫は退屈だろう。
「……牧の写真も見たいんだけど」
猫もいないのにじゃらしを振る真似をしたのが気恥ずかしくなったらしく、五十嵐は露骨に話題を戻した。撮った写真を見せたい気持ちもあって、その話題に乗ることにする。
「いいよ、ええとね……これ、僕らの影が写ってるけど」
撮った写真を見せながら、意味があるようなないような話がずっとできてしまうのはどうしてなんだろうと不思議に思う。五十嵐の話を聞くのも楽しいし、僕の話を聞いてもらうのも楽しい。この理由は、わからなくてもいい。
楽しい時間はあっという間に過ぎるものだ。
二日酔いで痛む頭を抱えて何とか起き上がり、枕元の携帯で時間を確認する。朝にしては遅い時間だ。隣の寝室で五十嵐がまだ眠っているのを確認して、風呂を借りた。
散々食べて、飲んで、喋った。あと、酔った。風呂は朝でもいいけど歯磨きだけはしてから寝る、とか言った記憶がある。寝巻きに着替え、歯を磨いてる間に五十嵐が布団を敷いてくれて、そのあとはもう記憶がない。
熱いシャワーを浴びてようやく目が覚める。昨日の夜、何を話していたっけ。あまり覚えていない。けれど、楽しかったな、というのは覚えている。それがあれば大丈夫かな、とも思う。
「……帰りたくないなー……」
口に出してみると、案外しょげた声をしていて自分に笑ってしまった。またいつでも来られるのだから、今日の夕方には帰らなくてはいけない。持ち帰った仕事が家で待っている。
風呂場から出ると、布団はすっかり片付けられていた。眠たそうにしている五十嵐がちんまりとこたつに入っている。
「おはよう」
「はよ……」
五十嵐は朝に弱い。朝というか、目覚めて活動するまでに時間がかかる性質らしい。このぼんやりしている間に、髪を乾かすとか、着替えるとか、支度を済ませるのには慣れてきた。
「牧、帰りは……?」
ドライヤーを切ったタイミングで、寝ぼけた声が聞こえた。
跳ねる髪を適当にまとめながら、少し迷う。持ち帰った仕事の量はさして多くない。一日あれば十分、だと思う。一日で終わるなら、今日も五十嵐と過ごして良いのではないだろうか。
「……夕方くらいかな。明日まで遊びたかったけど……」
ごま次郎と持ち帰りの仕事がね、と鞄を持つふりをすると五十嵐は苦笑した。冷静に、帰宅して、仕事をして、ごま次郎と遊んで散歩をして一緒に昼寝をしたら一日が終わってしまう。休日は儚いのだ。五十嵐とは、また会える。
「家でできることー……何かあるかな」
「外出てもいいけど、花見には早いよね」
五十嵐がまだ寝巻代わりのジャージというのもあって、昼寝でもしようかと提案すれば、牧がいるんだしそれはないと断言された。一緒にできる何かを考えるのは案外難しい。昔は遊ぶって何をしていたっけ、と思うことも珍しくない。
五十嵐はこたつの周りにある色々をひっくり返し始めた。カメラとか、アルバムとか、写真集とか、僕が普段見かけないものがたくさん出てくる。それと、分厚い封筒も。
「今年の?」
「……これは届くまでお楽しみだから」
毎年恒例になった五十嵐の写真は、まだ選別中らしい。家に届くまで中身は秘密とこたつから下げられてしまった。今年は何が届けられるのだろう。来月には届くだろうから、待つ楽しみが一つ増えた。
こたつの上に重ねられた写真集へ手を伸ばす。海がテーマのものらしく、深い青と碧のさざ波がきれいな表紙だ。ぱらぱらとめくっていると、隣から五十嵐も覗き込んでくる。
「いいね、海」
「青い海ってそんなに見たことなかったから」
「見に行く?」
海にいくならどこだ、旅行にいくならいつだとお互いの携帯を使っての検索が始まった。実現するにしろ、しないにしろ、先のことを考えるのはいいことだと思う。楽しみがあればそこに向かって生活を頑張ることが出来るから。
国内、いっそ海外と冗談を交えながら夢みたいな旅行の話をしているだけで時間は過ぎる。帰るのが惜しいと、また思った。
土曜の夕方、大宮駅は混雑が一層増す。ボストンバッグに人が引っかかり、五十嵐の背中を見失いかけ、度々待たせながらようやく新幹線乗り場へ続く改札へやってきた。
「送ってくれなくてもよかったのに」
「駅まで着けないでしょ、買い物して帰るからいいよ」
「ありがとう、色々……それじゃ、また」
指定席と、少し先の時間を選んだから時間に余裕はあるのだけれど、立ち止まっているだけで人の邪魔になりそうで、急いで改札へ通ろうと手を振った。
いつも通りなら、五十嵐も同じようにひらと手を振る。それが、今日は何となく鈍かった。
「牧、あのさ」
呼び止められて、改札から少し離れる。人の流れから離れれば、そんなに邪魔でもないだろう。五十嵐も気が付いたようで、揃ってそそくさと人の少ない場所へ流れていく。
「どうしたの、何の話?」
「……仕事、きつくなったら無理しないように」
大した話じゃなくてごめん、と五十嵐は短く言葉を切った。
「まだ大丈夫だよ、働き盛りの青年教師だから」
「働き盛りだから心配してるんだよ」
教師の労働時間がヤバいのはよく聞くし、過労死も珍しくないし、持ち帰りの仕事があるって言ってたから気になって、と普段より早口で言われ、心配されているんだなと気が付いた。
確かに、大変な仕事だ。年々そう思う。けれどやりがいもあるし、自分で選んだ仕事だし、と思うとまだ辞められないとも思うのだ。
「気を付けるよ、ありがとう」
「頼むよ、本当に」
五十嵐の声音が固くて、真面目だったから、僕も同じようにしっかり頷いた。実現するかどうかわからない旅行の話の続きがしたいし、まだ五十嵐から届く写真を見ていない。
駅の放送が新幹線の出発時間を告げている。携帯の時計見れば、そろそろホームに行った方が良いような時間になっていた。
「ごめん、引き留めて」
気にしなくてもいいのに。ただ、そのまま口に出しても上手く伝わらない気がした。
「五十嵐、手出して」
きょとんとしながらも差し出されたその右手を握る。握ったその手を、ぐいと引いた。
肩口に頭を乗せるようにして、空いていた左手でぎゅっと体を抱きしめると、五十嵐の体が強張る。耳元で、息を呑む音がした気がする。
「……牧?」
掠れた声がして、ぱっと手を放す。向かい合うと、少し高い目線にある五十嵐が目を丸くして、じっと僕を見つめていた。
「大丈夫だよって言いたかったんだけど、うまく言えなくて」
じわじわと照れがやってくる。驚かせただろうか。すぐに死にそうにないほど元気だから大丈夫だと、言いたかったのだけれど。それと、何というか、こんなに心配してくれるひとがいるのが嬉しくて、そして別れがたくて、身体が動いていた。
「じゃあ、あの、また連絡するから!」
ゆるっと手を振り、次こそ小走りに改札へ向かう。改札に切符を通し、振り返ると呆然とした様子の五十嵐が僕を見ていた。
もっと話せばよかった。どうして帰る頃になってあれもこれもと思いつくのだろう。仕事も大丈夫だからと安心させてあげればよかった。
「牧!」
また、と口が動くのが見えた。手を振ってくれるのも見えている。伝わったかな、と思いながら手を振り返した。
速足にエスカレーターを登り、ホームに出る。指定席の車両まで歩いて、新幹線をしばらく待った。
学校を卒業して教師になってから、自分の時間を持つことがあまりなかった。父のような教師になろうと懸命すぎたのだ。
教師の仕事は大変で、疲れて、辛いこともある。けれど、やっただけ成長もした、と思う。帰宅したら、持ち帰り仕事が待っているけれど、それはそれだ。
遊ぶ友人ができたのが大きな変化だったと思う。
五十嵐とは、昔よりずっと仲良くなった気がする。僕だけがそう思っているのかもと思っていたけれど、あんなに真剣に心配されると、五十嵐もそう思ってくれているのかな、と思う。
学生の頃は一緒にいて苦じゃない相手、という印象だった。再会してからは、苦じゃないというか、一緒にいて楽しいと思うようになった。もう少し、一緒に居られたらいいのにと別れを惜しむくらいに。
ホームに発車時間間近を知らせるメロディが響く。滑り込んできた新幹線に乗り込み、指定された座席に座る。発車時刻を過ぎ、ゆっくりと走り出すと見る間に駅が遠ざかっていく。
また会いにくればいい。ただ、それだけのことだ。
次は五十嵐を何に誘おうか。考えながら、僕は目を瞑る。僕一人では見られないものも、五十嵐となら見つけられるだろう。そう考えるだけで楽しいのだから、きっと何でもいいのだ。