【小説】怪奇探偵 白澤探偵事務所 | 春の山では
人外の探偵・白澤(しろさわ)と、視える助手・野田(のだ)のお話。一部作中の固有名詞に解説がありませんがご了承ください。
(2022年4月3日のイベントで無料配布ペーパーに掲載したお話です)
本編は以下のマガジンを参照ください。
薄靄がかかった山道を、白澤さんの背に続いて歩く。
大きく息を吸って、吐く。早朝の空気はひんやりと冷えてはいるが、息が白く染まることはなく、鼻先が痛くなりもしない。
寒くないということはようやく冬は終わったらしい。
湿った土の匂いがする。緑の匂い、と言い換えられるかもしれない。これが春の匂いなのかもしれなかった。
視線を上げると、山肌の中にいくつか淡い花の色が見えた。こんな山の中にも桜が咲くらしい。木々の影に入るとまだ肌寒く、なるべく日の当たるところを選んで歩いていると前を歩いている白澤さんが振り返った。
「野田くん、もうしばらく歩くけど休憩は必要かな」
「大丈夫っす。やること多いですし、向かってからで」
「わかった。じゃあこのまま向かおうか」
自治体で管理している神社の様子を見に行ってほしい、という依頼を請けたのは先月のことだ。
団体の高齢化に伴い、山を登って神社の手入れをするのが難しくなってきて、試しに人に頼んでみようということになったらしい。様子を見るだけでなく社の手入れを行って欲しいとも言われていて、補修に使う道具を様々持ってきている。
正直にいえば、背負った荷物の重さが肩に食い込んで少し疲れてはいた。しかし、立ち止まると動き出せなくなりそうで、一度登り切ってしまいたい気持ちのほうが強かったのだ。
俺と白澤さん以外に人の気配のない山道は、依頼のあった神社に続いている。
神社と言うことになっているが、何を祀っているのかはっきりしないらしい。土地に根付いた神様というものは、来歴が失われやすいのだと白澤さんが言っていた。
登っていくうち、踏み均された道がぼろぼろの石階段に変わった。日陰の肌寒さは気にならなくなってきたが、いくらか欠けている石階段を登るのに足元に気を払わねばならない分、進みが遅くなる。
階段の補修がないということは、もはやこの神社を訪ねる人はほとんどいないのだろう。しかし、こうやって手入れの依頼が来ている。人が来ないとしても手入れが必要なのは何か理由があるのだろうかと少し気になった。
一段一段を数えていたが、歩いているうちに数えるのはやめていた。帰りもこの段数を降りるのかと思うと、気が滅入ってしまったからだ。自分の足でしか行けない場所というのは、同時に自分の足で帰る必要がある場所とも言えた。
「そろそろ着くよ」
白澤さんが振り返って俺を見た。足を止めて見上げてみると、確かにあといくらかしか石段は残っていない。
ようやく着くとほっと息を吐けば、白澤さんが手元の荷物をがさりと漁った。やることが多いとはいえ荷物を出すにはまだ早いのではないかと思っていると、俺の前にサングラスが差し出されていた。
「邪魔に感じるかもしれないけど、これをつけておいてくれるかな」
ちらと空を見上げる。薄い雲が伸びているくらいで、太陽に雲はかかっていない。確かに作業をしているうちに眩しく感じるかもしれないが、今まで生きてきた中でサングラスが必要だと感じたことはなかった。
「これ、何対策ですか?」
思ったままを口にすれば、白澤さんは小さく苦笑した。やはり、眩しいからという理由で渡されたわけではないようだった。
「野田くんには視えてしまうかもしれないから、念のためにね。多少なりとも効果はあるから、着けておいて」
目の前にある神社は、どうやら普通の神社とは違うものらしい。着けておくようにと言われて断る理由はなく、白澤さんの手からサングラスを受け取って即座に身につけた。視界が僅かに暗くなったが、思ったより見辛くはない。太陽光を遮るものだものな、と今更思った。
神社は、それは見事に荒れ果てていた。鳥居もなければ狛犬もいないし、もちろん手水舎もない。ただ、小ぶりの社だけがあった。
小ぶりとはいえ、造りはしっかりしていた。ぱっと見てこの場に不釣り合いなほど整えられていると言ってもいいほどだ。
この冬は雪が深くてとてもではないが面倒を見られなかったと依頼人は言っていたが、手入れが必要なようにはとても見えなかった。
「私は社の手入れをするから、野田くんは近くの掃除をしてもらっていいかな。社の裏にまとめて置いてくれるかい?」
「了解す」
背負ってきた荷物を白澤さんに手渡してから、社の周辺をぐるりと歩く。ぱっと見た感じ、壊れている場所はなさそうだ。しかし、枯れ葉や折れた枝なんかがばらばらと落ちている。ちょっと多すぎるくらいだった。
白澤さんに言われた通り、それらをまとめて社の裏へ積み上げる。
人の出入りがない場所だからかゴミも見当たらず、俺の仕事はすぐに終わってしまった。
もう一度、社の周りをぐるりと歩く。小さくもないが、大きくもない。人ひとりが入れそうなくらいの大きさだ。造りがいいのか、年季が入っていても古びて見えないところがある。
何を祀っているのか、もはや誰も知らない神社。訪れる人は殆どいないと言うのに、不釣り合いなほどしっかりした社。それらを前にして、白澤さんからサングラスを渡された理由を考えてしまう。
「何かお手伝いありますか?」
「ああ、それなら荷物から白い巾着袋を持ってきてくれるかな?」
その場に突っ立っているだけでは助手としてどうか、と白澤さんの手伝いをすることにした。
荷物の中から白い巾着袋を探す。補修のための道具や、紙垂や符の中に、両手に収まるほどの白いきんちゃく袋を見つけた。見た目より中身はずっしりと重く、何が入っているのか気になった。
「ありました。これですよね?」
これであってるよ、と白澤さんが言う。その手元に、目が留まった。
白澤さんの手元には、盛り塩が六つほど並んでいた。俺が手渡した白い巾着袋からも清められた塩が出てきて、更に盛り塩が作られていく。
普通、盛り塩はこんなに用意しない。何に使うのか、気になった。
「見ててもいいですか?」
「私を見ているのなら構わないよ」
社の方はあまり見るな、ということらしい。サングラスで視線を隠しているくらいだから、視るというのが致命的に良くないことらしい。
「紙垂がないんですね、この社」
「ああ、そうだね……あまり視線を社に向けないように」
白澤さんの奥に見える社の様子を思わず口にしてしまった。ぼんやり視界に入るのも良くないというのか、白澤さんは再び俺の視線のやり場に気を付けてくれている。
盛り塩の数はまだまだ増えていく。六を超え、十になった。それらがひとつずつ、社の扉の前に並べられていく。
きし、と木が揺れる音がした。思わず顔を上げそうになって、そのままじっと視線を白澤さんに向けたままでいる。盛り塩は扉の前を越え、社を取り囲むように置かれていく。
きし、きし、と木が揺れている。木ではない。社の扉が、内側から押されているのだ。扉には白澤さんの用意したであろう真新しい符が貼り付けられていて、揺れる以上のことは起こらない。
「これ、神社じゃないですよね?」
「春になると目覚めてしまうそうだよ。外に出ないようにしないといけない、ということだけが伝えられているとか」
俺はゆっくり社から離れ、背を向ける。きしきしと、扉が揺れる音だけが鳴っている。内側に一体何がいるのか、俺にはわからない。もしかしたら白澤さんにはわかるかもしれないが、俺に教えてはくれないだろう。
「今更辞められもしないだろうからね」
ぽつりと白澤さんが呟いた。
どういう意味か、考えてしまった。内側にいた何かを出すこともできず、かといって定期的に見回るのを辞めることも出来ない。どちらも、辞められはしないということだろうか。辞める決断をするのは大変、ということかもしれない。
扉が軋む音は徐々に小さくなり、やがて聞こえなくなった。あの盛り塩は清めるというより、封じるという目的で置かれているらしい。鎮める、と言ってもいいかもしれない。
俺はサングラスのレンズ越しにぼんやりと山肌を眺めながら、誰かが辞めるまで、白澤さんは何度ここを訪れるのだろうかと考えていた。
桜の木には寿命があると聞いたことがある。山桜は軽く百年を越えるらしい。
白澤さんが何度あの桜を見るのか、この先訪れるであろう春を考えながらぼんやりと立ち尽くしていた。とりあえず次の春は、俺もあの桜を見るのだろう。