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怪奇探偵 白澤探偵事務所 特別編 2023春

すこし不思議(ちょっとホラー風)な短編集です。特別編となっておりますが、単体でもお読みいただけます。
(4月2日(日)J.Garden53【た05a】で頒布します。9本の短編集です)

人外の探偵・白澤(しろさわ)と、視える助手・野田(のだ)のお話。一部作中の固有名詞に解説がありませんがご了承ください。

本編は以下のマガジンを参照ください。


春の山では( 2022.4.3 J.Garden51 )

 薄靄がかかった山道を、白澤さんの背に続いて歩く。
 大きく息を吸って、吐く。早朝の空気はひんやりと冷えてはいるが、息が白く染まることはなく、鼻先が痛くなりもしない。
 寒くないということはようやく冬は終わったらしい。
 湿った土の匂いがする。緑の匂い、と言い換えられるかもしれない。これが春の匂いなのかもしれなかった。
 視線を上げると、山肌の中にいくつか淡い花の色が見えた。こんな山の中にも桜が咲くらしい。木々の影に入るとまだ肌寒く、なるべく日の当たるところを選んで歩いていると前を歩いている白澤さんが振り返った。
「野田くん、もうしばらく歩くけど休憩は必要かな」
「大丈夫っす。やること多いですし、向かってからで」
「わかった。じゃあこのまま向かおうか」
 自治体で管理している神社の様子を見に行ってほしい、という依頼を受けたのは先月のことだ。
 団体の高齢化に伴い、山を登って神社の手入れをするのが難しくなってきて、試しに人に頼んでみようということになったらしい。様子を見るだけでなく社の手入れを行って欲しいとも言われていて、補修に使う道具を様々持ってきている。
 正直にいえば、背負った荷物の重さが肩に食い込んで少し疲れてはいた。しかし、立ち止まると動き出せなくなりそうで、一度登り切ってしまいたい気持ちのほうが強かったのだ。
 俺と白澤さん以外に人の気配のない山道は、依頼のあった神社に続いている。
 神社と言うことになっているが、何を祀っているのかはっきりしないらしい。土地に根付いた神様というものは、来歴が失われやすいのだと白澤さんが言っていた。
 登っていくうち、踏み均された道がぼろぼろの石階段に変わった。日陰の肌寒さは気にならなくなってきたが、いくらか欠けている石階段を登るのに足元に気を払わねばならない分、進みが遅くなる。
 階段の補修がないということは、もはやこの神社を訪ねる人はほとんどいないのだろう。しかし、こうやって手入れの依頼が来ている。人が来ないとしても手入れが必要なのは何か理由があるのだろうかと少し気になった。
 一段一段を数えていたが、歩いているうちに数えるのはやめていた。帰りもこの段数を降りるのかと思うと、気が滅入ってしまったからだ。自分の足でしか行けない場所というのは、同時に自分の足で帰る必要がある場所とも言えた。
「そろそろ着くよ」
 白澤さんが振り返って俺を見た。足を止めて見上げてみると、確かにあといくらかしか石段は残っていない。
 ようやく着くとほっと息を吐けば、白澤さんが手元の荷物をがさりと漁った。やることが多いとはいえ荷物を出すにはまだ早いのではないかと思っていると、俺の前にサングラスが差し出されていた。
「邪魔に感じるかもしれないけど、これをつけておいてくれるかな」
 ちらと空を見上げる。薄い雲が伸びているくらいで、太陽に雲はかかっていない。確かに作業をしているうちに眩しく感じるかもしれないが、今まで生きてきた中でサングラスが必要だと感じたことはなかった。
「これ、何対策ですか?」
 思ったままを口にすれば、白澤さんは小さく苦笑した。やはり、眩しいからという理由で渡されたわけではないようだった。
「野田くんには視えてしまうかもしれないから、念のためにね。多少なりとも効果はあるから、着けておいて」
 目の前にある神社は、どうやら普通の神社とは違うものらしい。着けておくようにと言われて断る理由はなく、白澤さんの手からサングラスを受け取って即座に身につけた。視界が僅かに暗くなったが、思ったより見辛くはない。太陽光を遮るものだものな、と今更思った。

 神社は、それは見事に荒れ果てていた。鳥居もなければ狛犬もいないし、もちろん手水舎もない。ただ、小ぶりの社だけがあった。
 小ぶりとはいえ、造りはしっかりしていた。ぱっと見てこの場に不釣り合いなほど整えられていると言ってもいいほどだ。
 この冬は雪が深くてとてもではないが面倒を見られなかったと依頼人は言っていたが、手入れが必要なようにはとても見えなかった。
「私は社の手入れをするから、野田くんは近くの掃除をしてもらっていいかな。社の裏にまとめて置いてくれるかい?」
「了解す」
 背負ってきた荷物を白澤さんに手渡してから、社の周辺をぐるりと歩く。ぱっと見た感じ、壊れている場所はなさそうだ。しかし、枯れ葉や折れた枝なんかがばらばらと落ちている。ちょっと多すぎるくらいだった。
 白澤さんに言われた通り、それらをまとめて社の裏へ積み上げる。
人の出入りがない場所だからかゴミも見当たらず、俺の仕事はすぐに終わってしまった。
 もう一度、社の周りをぐるりと歩く。小さくもないが、大きくもない。人ひとりが入れそうなくらいの大きさだ。造りがいいのか、年季が入っていても古びて見えないところがある。
 何を祀っているのか、もはや誰も知らない神社。訪れる人は殆どいないと言うのに、不釣り合いなほどしっかりした社。それらを前にして、白澤さんからサングラスを渡された理由を考えてしまう。
「何かお手伝いありますか?」
「ああ、それなら荷物から白い巾着袋を持ってきてくれるかな?」
 その場に突っ立っているだけでは助手としてどうか、と白澤さんの手伝いをすることにした。
 荷物の中から白い巾着袋を探す。補修のための道具や、紙垂や符の中に、両手に収まるほどの白いきんちゃく袋を見つけた。見た目より中身はずっしりと重く、何が入っているのか気になった。
「ありました。これですよね?」
 これであってるよ、と白澤さんが言う。その手元に、目が留まった。
 白澤さんの手元には、盛り塩が六つほど並んでいた。俺が手渡した白い巾着袋からも清められた塩が出てきて、更に盛り塩が作られていく。
 普通、盛り塩はこんなに用意しない。何に使うのか、気になった。
「見ててもいいですか?」
「私を見ているのなら構わないよ」
 社の方はあまり見るな、ということらしい。サングラスで視線を隠しているくらいだから、視るというのが致命的に良くないことらしい。
「紙垂がないんですね、この社」
「ああ、そうだね……あまり視線を社に向けないように」
 白澤さんの奥に見える社の様子を思わず口にしてしまった。ぼんやり視界に入るのも良くないというのか、白澤さんは再び俺の視線のやり場に気を付けてくれている。
 盛り塩の数はまだまだ増えていく。六を超え、十になった。それらがひとつずつ、社の扉の前に並べられていく。
 きし、と木が揺れる音がした。思わず顔を上げそうになって、そのままじっと視線を白澤さんに向けたままでいる。盛り塩は扉の前を越え、社を取り囲むように置かれていく。
 きし、きし、と木が揺れている。木ではない。社の扉が、内側から押されているのだ。扉には白澤さんの用意したであろう真新しい符が貼り付けられていて、揺れる以上のことは起こらない。
「これ、神社じゃないですよね?」
「春になると目覚めてしまうそうだよ。外に出ないようにしないといけない、ということだけが伝えられているとか」
 俺はゆっくり社から離れ、背を向ける。きしきしと、扉が揺れる音だけが鳴っている。内側に一体何がいるのか、俺にはわからない。もしかしたら白澤さんにはわかるかもしれないが、俺に教えてはくれないだろう。
「今更辞められもしないだろうからね」
 ぽつりと白澤さんが呟いた。
 どういう意味か、考えてしまった。内側にいた何かを出すこともできず、かといって定期的に見回るのを辞めることも出来ない。どちらも、辞められはしないということだろうか。辞める決断をするのは大変、ということかもしれない。
 扉が軋む音は徐々に小さくなり、やがて聞こえなくなった。あの盛り塩は清めるというより、封じるという目的で置かれているらしい。鎮める、と言ってもいいかもしれない。
 俺はサングラスのレンズ越しにぼんやりと山肌を眺めながら、誰かが辞めるまで、白澤さんは何度ここを訪れるのだろうかと考えていた。
 桜の木には寿命があると聞いたことがある。山桜は軽く百年を越えるらしい。
 白澤さんが何度あの桜を見るのか、この先訪れるであろう春を考えながらぼんやりと立ち尽くしていた。とりあえず次の春は、俺もあの桜を見るのだろう。

エレベーター

 依頼主に呼ばれて、あるビルを訪ねた。
 そのビルは人の集まるビジネス街にほど近い場所にあった。一階に喫茶店があり、二階から五階までを貸し出していて、六階には家主である依頼人の部屋になっている。真新しいわけではないが、古臭いわけでもないよくあるビルだ。
 依頼はビルのエレベーターが不意に止まる原因を突き止めて欲しいというものだった。さすがに白澤さんでもエレベーターの修理は難しいのではと内心焦っていたが、どうやらエレベーター自体は何度も修理されているらしい。それでも不意に止まることを繰り返すから、これは機械に原因があるわけではないのではと考えた依頼主は白澤探偵事務所を頼ったということだった。
 ビルを使っている人に迷惑がかからないよう、夜も深い時間にビルを訪ねた。春先とはいえ、日が沈むと少し冷え込む。そろそろ上着はいらないだろうと思ったが、やはりまだ手放せないようだ。
 依頼主は一時的に別の住居へ移っているらしい。つまり、今夜エレベーターを動かすことがあるのは俺たちだけだった。
「何階に行こうとすると起きるとかあるんですかね」
 この場に着いた時点で、俺は一度ビル全体を視ている。薄ぼんやりとした光はあったが、それがどこから発されているものかはわからない。ビル全体が淡く光っていたからだ。
「日によって違うみたいだよ。とりあえず1階ずついこうか」
 上階へ行くボタンを押し、エレベーターを呼び出す。行先ボタンを押してくださいというどこかで聞いたことのあるアナウンスとともに、とりあえず上の階を示すボタンを順番に押していくことにした。
 二階。三階。四階のボタンを押した瞬間、エレベーターの電気が一瞬消えてすぐに点いた。おや、と白澤さんが首をひねる。
 五階のボタンを押す。階を示すボタンは反応を示さない。何度か押してみるが、うんとすんとも言わない。
 ――その階には停止すること、は、できません。
 アナウンスの電子音声と明らかに声音の違う音が降ってきた。平坦な語調は、どこかぶっきらぼうに聞こえる。白澤さんの方をちらと見る。白澤さんは腕組をしたままエレベーターの扉を見つめている。
「野田くん、エレベーターっていつから動いていたか覚えてる?」
「……ちょっと、わかんないですね」
 足の裏から、エレベーターが稼働している感覚が伝わってくる。しかし、独特の浮遊感は感じなかった。エレベーターが上に向かっている。けれど、どの階でも扉が開かない。
 二階はとっくに過ぎた。表示は三階を示しているが、エレベーターは開かない。
 別の階のボタンを押してみる。すでに通り過ぎた階も含めて、ボタンをすべて押してみるが、やはりどれも反応がない。
 ――その階には、停止することは、できません。
 繰り返される音声にじわりと嫌な汗が滲む。
「白澤さん、このエレベーターって……止まるんですよね?」
「どこかでは止まるだろうね」
「じゃあ、俺たちはどこに放り出されるんです?」
 白澤さんは懐から何かの札を一枚取り出し、俺の額にぺたりと貼った。視界が札に遮られ、よく見えなくなってしまって慌てる。上へ向かいます、上へ向かいます、というエレベーターのアナウンスが止まない。
「どこに着くかわからないから野田くんの姿が見えないように隠しておくよ。さっきから、幻永界の気配が強くなってる」
 あまり喋らないように、と言われておとなしく頷く。
「……幻永界とエレベーターがどっかで繋がってしまったってことですか?」
「もしそうなら、幻永界の側も困っているだろうから解決できる。……あ、野田くん。目を閉じないようにね、視てはいけないよ」
 白澤さんは俺に背中を向けた。それと殆ど同時に、エレベーターがゆっくりと止まる。やはり、あの浮遊感はない。慣性がないなんて、そんなことがあるだろうか。
 ――目的の階に到着しました。扉が開きます。
 もはや聞き取るのがやっとのアナウンスとともにエレベーターの扉が開く。ドアの先は、真っ暗で何も見えなかった。ただ、地面が濡れたような湿った匂いがした。
 白澤さんは開ボタンを押したまま、エレベーターの向こうへ呼びかける。俺が理解できない言葉をいくつか投げかけると、暗闇の中で何かが動いた。
 咄嗟に、視てはいけない、と思った。目をつぶろうとして、それはだめだと俯く。呼吸が浅くなって、ゆっくり息を吐いた。札でよく見えなかったのが幸いした。まともに見たら、たぶん碌なことにならなかった。
 白澤さんと何かの会話は短かった。会話を交わした後、白澤さんがエレベーターの向こうに札を渡して扉が閉まる。エレベーターの電気が一瞬消え、また点いた。それから、ゆっくりと下に降りていく感覚があった。
「野田くん、もういいよ。何かの拍子に座標が繋がって困っていたみたい」
 白澤さんの手で札がはがされて、ようやく息を吐く。同時に、エレベーターが一階に着いたらしく慣性を伴って止まった。身に覚えのある感覚に、遅れて冷や汗が背中を伝う。息を吸って、吐く。まだエレベーターの中にはかすかに湿った土のような匂いが残っている。
「出ようか。これで多分、このエレベーターも大丈夫だと思う」
「……外から視てみますね」
 エレベーターを降り、エレベーターホールの薄ぼんやりとした明かりに目を細める。暗すぎる、とスマホを取り出してライトをつけた。懐中電灯には及ばないが、足元を照らすには十分だ。
 ふと振り返ってエレベーターを見た。なぜそうしたのかはわからない。何となく気になったのか、何かが見えてしまったのか。
 エレベーターの扉に、べたべたと手形が残っていた。泥に浸した手をそのままくっつけたようなそれは、大きいものも、小さいものもあった。爪でひっかいたようなものもあった。
 ぞっとして息をのめば、白澤さんが小さくため息を吐く。
「……お腹がすいて困る、と言っていたんだよね」
 何を食べようとしていたのか、もはや言うまでもない。
 ビルには、もうどこにも異常を感じなかった。まずは扉にこびりついた泥を落とさなければならない。掃除用具を取りに事務所へ戻る道すがら、二度と同じことが起きないといいなとぼんやり思った。

営業電話

 電話のベルが何度も鳴ると、春が来たなと思う。
 白澤探偵事務所には、依頼人からの電話がほとんどだ。間違い電話がかかってきたことは一度もないし、大体は依頼や相談の具体的な話に発展するためにすぐ白澤さんに代わってそれで終わりだ。
 しかし、春だけは別だ。とにかく数を撃つという形の営業電話が時々かかってくるのだ。電話回線を増やさないかとか、テナントが必要じゃないかと明らかにこの事務所に不要なものばかりで、そういうものは俺の方で断って済ませてしまう。
 電話のベルが鳴る。受話器をとって耳に宛てた瞬間、水の弾けるような音がした。
「白澤探偵事務所です」
『もしもし、はじめてお電話差し上げたんですけども。わたくし、事務所に設置可能なウォーターサーバーを取り扱っている会社でして……』
 電話の声を聴きつつ、その後ろからずっと水や波の音がしている。なるほど、ウォーターサーバーを取り扱っている会社だから環境音を流しているのかもしれない。しかし、俺と白澤さんしかいない事務所にそこまでの設備が必要かと言うと不要である。いつも通り断ろうとしたのだが、何となく言葉が出てこない。
 つらつらと流れる営業トークを聞きながら、何となく気になるのは何だろうと少し考える。水の音は未だ止まらず、明るい声の裏からずっと波が揺れるような音がしている。
『弊社は月額制ではなく利用いただいた分だけの料金になっておりまして、人数の少ない事務所様でもお役に立てるかと思います。ぜひご検討いただければと思いまして……つきましては資料をお持ちしますので、来週のどこかでお時間を30分ほど頂戴できませんか?』
「あの、それは結構なんですけど。もしかして、何かお困りではないですか?」
 脈がないならないなりに早く切り上げてもいいだろうに、向こうも切るに切れない空気を感じた。逆に言えば、話したいことがあるから切れないのではないか、と思ったのだ。口に出してから逆に営業をしてしまったと少し焦ったのだが、電話の向こうで息を呑んだような音がした。
『……何となく。何となくなんですけど、嫌な感じがする会社なんです。いえ、自分が売ってるものを嫌な感じがするなんて、突然すみません』
 さっきまでの明るさは一転、声がぼそぼそと小さくなる。代わりに、水の音が一段低くなった。水の中に潜ったように聞こえる。時折、押し出されるように空気が浮かび上がる音が増えていく。
「嫌な感じって、どういう具合なんですか?」
『感謝されるんです。水をお届けすると、ありがとうありがとうって……ただの水ですよ? それに、何ならほかの会社より水の値段は高いんです。泣いて喜んでる人もいて……』
 水の音がどんどん大きくなってきた。電話の向こうの声が聞き取りづらくて仕方がない。
「すいません、水の音が大きくて。有線の放送か何か、流してますか?」
『水の音、ですか? 今、倉庫にいるので水の音なんてどこにも』
 声をかき消すように、水が溢れ出す音がした。同時に、電話が切れてしまった。
 受話器を耳に当てたまま、ツー、ツー、という無機質な音を聞いている。何が起きたかわからないまま立ち上がれば、白澤さんが外出の支度を整えていた。
「野田くん、今の電話番号のメモくれる? これは視えないものだから、事務所で留守番していて」
 さすがに俺も何が起きたのか知りたい気持ちはあったが、視えないものだからと白澤さんが言う以上付いていくべきではないのだろう。了解の返事をして、すぐに履歴からさっきの電話番号をメモして白澤さんに手渡した。逆探知もできるのだろうか。
「ありがとう。それと、私が居ない間は水道を開けないようにね。夜はスーパー銭湯でもいこうか」
 じゃあ行ってくるねと足早に白澤さんが事務所から出て行った。おそらく、電話の向こう側にいた人の様子を見に行くのだろう。何事もなければそれが一番だが、俺にできるのは無事を祈るくらいのものである。
 電話からの急展開にようやく一息ついて、喉が渇いていることに気付いた。水道を開かないように言われたことを思い出し、冷蔵庫にある飲み物を見繕うことに決めて立ち上がる。唾を飲み込む感覚だけが、いやにはっきりしていた。

水族館 

 薄暗い水族館というのは、入るのに少し戸惑うものだ。
 閉館後に人影を見た、足音を聞いた、という水族館のスタッフから原因調査の依頼があった。水族館は商業施設の中にあり、そんなところに水族館なんてあるのかと驚いたが、そういえば東京タワーにもスカイツリーにも水族館はあったかと思い直した。俺が知らないだけで、変わったところにある施設はいくらでもあるものだ。
 商業施設の閉店時間は過ぎ、ほとんどのフロアの電気は落ちている。目の前にある水族館だけが煌々と光を放っているのがどこか異様な光景で、ぼんやりと入場口を眺めてしまう。
「野田くん、このあたりで目撃した人が多いみたい」
「じゃあ、とりあえずここから視ていきますね」
 白澤さんは館内地図の中にある大きな水槽を指差している。この手の依頼には珍しく、特定の一人が見聞きをしたわけではなく、ほとんどすべてのスタッフが何かが居るという認識を持っていた。
 ただ、それぞれが視たものが違うというのが気にかかっていた。背の高い人だった、と言う人もいた。女性だったと思う、と言う人もいた。こういう類のものは、大体俺の目でも不定形に映る。
 一体何が居るのだろうと考えながら、水族館の入場口を通り抜けた。

 人のいない水族館は水の音と、かすかなエアーポンプの音しか聞こえない。
 白澤さんが俺の前を歩いている。目的の水槽は水族館の中ほどにあり、しばらく順路通り歩かなくてはならなかった。俺は時折足を止めて目を瞑り、周囲を視る。原因は別の場所にあることも多いから、それらしいものがないか探すのも大事だ。
 しかし、不思議と何も視えない。普段であれば大小問わず何かは居るものだが、不自然なほど真っ暗な空間だった。
 何も見つからないまま目的の水槽までたどり着き、再び目を閉じる。けれど、それでも俺の目に視えるものは何もない。別の場所にあるのだろうかと目を開けた瞬間、水槽のガラス越しに俺たち以外の人影が視えてぎょっとした。
 慌てて目を閉じる。人影は目の前のガラスに反射していた。つまり、俺の後ろに何かがいることになる。薄ぼんやりと光すら視えなかった。何もいないはずだったのに。
 ゆっくりと振り返る。人の形らしい、光の塊がそこにあった。
「……白澤さん、そこに何か居ます」
「どういう形をしてる?」
 そう聞かれたのは初めてで、光の形をなぞる様に指を動かす。人の形にも視えるし、ただぼんやりと光が集まっているようにも見える。けれど、指で形を示すとその光が揺れた。ゆらりと動いて、それからこちらへ近寄ってくる。思わず半歩下がって、すぐに水槽にぶつかった。
 目を開けてその場を離れればいいと頭ではわかっている。けれど不思議と体が動かない。いつの間にか、光は人の形ではなくなっていた。今は光がばらばらに広がり、ぼやけていてろくに視えない。俺の目に視えてはいけないものが目の前にあるのだと気付いて、ぞっとした。
「野田くん、そのまま」
 見るなとも動くなとも言われなかった。白澤さんに言われるまま、そのまま目の前をじっと見る。白澤さんの足音が近づいてきて、俺の目の前で止まった。
 パン、と音がする。
 手を叩いた音だと気付いた一瞬のうちに、光の全体が震えた。続けて、もう一度同じ音がする。光が弱くなり、徐々に小さくなる。三度目の音で、光がきれいさっぱり消えてしまった。
 目を開く。明かりが眩しくて、思わず瞬きをした。ようやくまともに周りを見ることができるようになって、大きく息を吐く。
 白澤さんが振り返り、両手を広げて俺に見せた。手の中には何もない。何を見せたかったのかわからなくて、思わず黙り込んでしまった。
「形がないものを呼び込む場所というのがあってね。水のある場所には不思議と多いんだけど、こここはそういう場所みたいだね」
「それで原因になるものが見つからなかったんすかね」
「そうだね……この場にできることは集まらないように対策を打つくらいかな」
 白澤さんは早速準備を始めていて、スマホにあれこれ打ち込んでいる。今日は調査のための支度しかしてないから、また別の日に対策をしに来るということなのだろう。
「あの、ああいうのって俺は視てるだけでいいんですかね」
「むしろ、それが大事なんだ。野田くんが視ているからこそ、私が干渉できる」
 形がないからこそ、誰かが視ているというのが重要であるらしい。なるほど、そういうものもあるのか。一般的な探偵業と別の部分で見識を深めているのが何だかおかしくて、思わず小さく笑ってしまった。白澤さんもそれに気付いて目を細めていた。
 後日施した白澤さんの対策で、スタッフが目撃することはなくなったと聞いた。ただ、また何かあるかもしれないから定期的に見回ってほしいという仕事が増えたのは、また別の話だ。

紐のある部屋( 2022.9.4 J.Garden52 )

 白澤探偵事務所に勤めはじめてから、ある程度のことには怯まなくなった。
 探偵事務所と言いつつ、怪奇事象の原因究明および事象の排除が業務の主を占めている。だからコンテナの集まる埠頭や人里離れた山奥にも行くし、人ならざるもの、こちら側と違う世界――幻永界のひとと関わることもある。今までの人生に存在しなかったものに出会うたびに驚きはするが、そういうこともあるかと受け入れられるようになっていた。
 しかし、それでも全く驚かないわけではない。何かある、という心構えがあるからある程度耐えられるともいえる。だから、予想外のことが起きると今でもうろたえてしまう。白澤さんが取り乱すことは殆どないから見習わなくてはと思いながら、今日も助手として勤めている。

 今日の依頼は、夜逃げのあった部屋の下見を頼みたいというものだ。
 不動産物件を扱う依頼人が言うには、下見に行った人たちが軒並み逃げ帰ってくるものだから部屋がどうなっているものかわからなくて困っているらしい。自分の目で見るのはさすがに恐ろしいということで白澤探偵事務所を頼ったのだと依頼人が言っていた。
 問題の部屋は東京の外れ、隣県に接したベッドタウンの住宅街にあった。駅までさほど遠いわけでもなく、近くに公園や学校がある閑静な住宅街を絵に描いたような場所で、ここに何人も逃げ帰るような部屋があるとはとても思えなかった。
 ぬるい風が頬を撫でる。午後から雨になると天気予報が言っていたが、どうやら予定は早まったようでぽつぽつと雨が降り出していた。空を見上げれば、厚い雲が広がっている。次第に雨粒は大きくなり、傘を叩く雨音は随分激しい。自然と速足で現場に向かっていた。
 依頼人から頼まれたアパートに着き、ようやく傘を閉じる。夜逃げをするほどなのだからとんでもないことになっているのかと思ったが、傍目には特に変わった様子はない。俺が昔住んでいた部屋よりよっぽどきれいなアパートで、少し拍子抜けしたほどだ。
 しかし、依頼人に指定された部屋番号の集合ポストにはカラフルな封筒がいくつもはみ出ている。この激しい雨で、封筒はいくらか濡れてしまったようでへたりと歪んでいた。
「郵便物ってどうするんでしたっけ?」
「後で依頼主が回収しに来るそうだよ。もし気になるものがあるなら、外から視てみる?」
 ぎゅうぎゅうになったポストを改めて見て、それから目を瞑る。瞼の裏で何かが切り替わる感覚があって、普段は見えないはずのものが視えるようになった。けれど、ポストの中に俺が視えるものは何もない。目を開けて首を横に振ると、白澤さんにもそれは伝わったようだった。
「部屋を見た人は誰もいなかったんすかね」
「戻ってきた人たちは殆ど喋らなかったそうだよ。この場所のことも調べてみたけれど、何かが起きる場所というわけではなかったから私も検討がついていないんだ」
 場所に理由がないのなら、人に理由があることになる。すっかりこの場所から逃げ去った人間のことは調べてもよくわからず、今も連絡がつかない状態であるという。
 階段を上る。二階の西側に面した角部屋が問題の部屋だ。廊下には別の住民の育てているらしいプランターのミニトマトがあるくらいで、目立った何かがあるわけではない。部屋の外にまで影響を及ぼすようなゴミ屋敷なのではと考えていたが、そうではなさそうだ。
 見た目に異常がないとなると、部屋の中に一体何があるのだろう。
 仕事には慣れた。驚くことにもある程度慣れている。けれど、それは自分が予想できたり、理解できるものではないと諦められるものだからだ。わからないものは、さすがにまだ怖い。
「野田くん。ドアを開けてから、部屋の中に入らずに視てみようか。どこに原因がありそうか目星をつけてからのほうが私も対処しやすい」
「了解す」
 依頼人から預かった鍵を使い、白澤さんがカギを開ける。ノブを捻ってドアを開けた途端、内側からぶらんと何かが落ちてきた。突然予想もしない動きがあって、思わず口の中で呻く。
 白澤さんがドアを開ききり、ストッパーで止める。一体何が落ちてきたのかと玄関を見れば、そこには先に輪が作られた紐が落ちていた。電車の吊り輪より輪が随分大きい。人の頭が入るくらいの大きさに気付いて、背中に嫌な汗が浮く。首筋の裏がちりちりと焼けるような感覚があった。
「野田くん」
「……すいません、ちょっと驚いただけなんで。視てみます」
 目を瞑る前に、部屋の中をちらと見る。部屋の中にもいくつか紐が見えた。どうやらわざわざ天井に棒をぶら下げ、そこから紐を垂らしているらしい。ぶらぶらと揺れる紐を見ていると、さすがに何となく気分が悪くなる。
 部屋はごく普通のワンルーム。入ってすぐ右手にキッチンがあり、その向かいにユニットバスの扉がある。なぜかユニットバスの明かりはついたままで、それが暗い部屋を微かに照らしているのが異様な光景だった。
 目を瞑る。瞼の裏で視界が切り替わる感覚があり、部屋の中に薄ぼんやりとした光が見えた。光は大小ある。ここで何か、俺に視えるようなことが起きているというのはわかった。怪奇現象というより、怪異物が持ち込まれたという感じだ。
「結構数があります。嫌な感じがあるのは……ユニットバスの中ですかね?」
「わかった。野田くんは部屋の中に入らないで、ここで待っていて」
 部屋の中を見て怯んだのが白澤さんにはわかっていたらしい。申し出に甘えて、部屋の外から視ていることにした。
「大きさはどれくらい?」
 白澤さんの声が少し遠くなった。部屋の中に入ったらしい。俺は目を瞑ったまま、嫌な感じのする光を見ている。光は大きくなったり小さくなったりと不定形だ。ただ、何となく嫌な気配だけはずっとある。
「大きくなったり小さくなったりですね……低いところにあるのはずっと変わらないです」
「うん……ああ、これかな」
 風呂場で白澤さんの声が反響している。何を見ているのかはわからないが、原因らしきものを見つけたようだ。小さな光の塊は、白澤さんの声とともに場所を変えた。
「それですね。今は小さい塊で……」
 他には何もないと言おうとしたところで、刺々しい光が目についた。白澤さんの手に持つそれより、やけに眩しくて目に痛い。これはよくないものだと直感的にわかった。
「白澤さん、足元にまだ何かあります!」
 風呂場から水の流れる音がした。雨とは違う音に一瞬驚くが、排水溝からまとまった量の水が流れる音だと気付く。同時に、やけに眩しかった光が急に弱くなり、ついには消えてしまった。
 目を開く。白澤さんの手には、黒い紐の塊が握られていた。それは水を滴らせ、廊下に水滴を落としている。
「おそらくこれが原因だろうね。あんまりよくないものだから、野田くんは触らないで」
 そういって、白澤さんはすぐに紐をしまい込んでしまった。紐は密閉性の高い袋に入れられたうえ、黒い布にくるまれてしまって中身は全く見えなくなる。一体どういうものだったのか、きっと俺が知ることはないだろう。
「……この家の人って、本当に夜逃げしたんですかね?」
「さあ、どうだろう。私にはわからない」
 この部屋に住んでいた人は一体何をしたというのだろう。紐をぶら下げた目的はわからず、ユニットバスには怪異物が放置されていた。この部屋に訪れた人たちがそれぞれ何を見たのかもわからないままだ。
 首を傾げながら、玄関に放置していた傘を取る。そのまま帰ろうとしたら白澤さんに呼び止められた。
 振り返れば、白澤さんが部屋の廊下に立っている。部屋の中を見ているようだが、俺の視界には白澤さんの背中しか見えない。
「野田くん、部屋の中を視てくれる?」
 念のため、と念を押されて再び目を瞑る。部屋の中には、もう何も視えない。
「……もう、何もないみたいすね」
「そう……じゃあ、あれはおまけとして片付けておこうかな」
 白澤さんはそう言って、廊下にしゃがみ込んだ。何かを拾い上げたようだが、俺にはよく見えなかった。
 玄関から白澤さんが出る一瞬、ワンルームの部屋を覗き込んだ。そこには何もいない。ただ、誰もいないのに紐がぶらぶらと揺れているのが見えてしまった。白澤さんが何も言わない以上、俺が知ることは何もない。何も見えなかったことにしようと、そっとドアを閉めて部屋を後にした。

深夜の物音

 深夜、ふと目が覚めた。
 寝苦しさに起き上がる。部屋の中が蒸し暑いことに気付いて、エアコンを見上げる。熱帯夜の寝苦しさに負けて冷房をつけていたのだが、いつの間にか運転が止まっていた。
 背中にじっとりと張り付いたシャツが不快感を煽る。枕元のリモコンに手を伸ばし、すぐさま電源を入れた。ピ、と短い電子音と共に、冷風が吹き出し始める。これでこの後は眠れそうだ。
 日中の暑さのせいか、夜になっても部屋が冷えない。部屋に居るだけで具合が悪くなる。白澤さんからは熱中症に気を付けるよう言われているし、俺自身も暑がりで夏は辛い季節である。
 不快感で目が覚めてしまったからか、眠気は遠ざかってしまっている。伏せたスマホを持ち上げて画面を見れば、時間はまだ夜明け前だ。カーテンの隙間からも真っ暗な空が見えている。
 こんな時間から起きてもやることはないしと目を瞑るものの、意識はすっかり覚めてしまっている。こういうときは無為な考え事をするといい。考えているうちに、考えるのが面倒になって眠ってしまう。さて何を考えようかとぼんやりしていると、エアコンの送風の音に紛れて別の音が聞こえた。
 耳をすませてみる。大音量を流して通り過ぎるような車でもなく、路上を歩く人が音楽を流しながら歌っているわけでもない。笛と太鼓のような、夏祭りでもなければ聞かない音が流れている。
 スマホかタブレットで動画を再生したままだっただろうか。起き上がって確認してみるが、どちらも消音設定のままだった。その間にも音は徐々に近づいて大きくなってきて、祭り囃子がはっきり聞き取れるようになってきた。
 こんな夜中に祭りなんてあるわけがない。もし迷惑行為であるなら、俺より先に気付いた人が通報なり怒鳴り込むなりやっているはずだ。そうでないのなら、この音は俺にしか聞こえていないと考えるのが自然だろう。
 聞き間違いではない。祭り囃子は近づいてくる。俺の部屋にある窓の下で演奏しているんじゃないか、と思うほどだ。
 いつだったか、音や匂いで干渉してくるのはあまりよくないものだと白澤さんに教わった記憶がある。俺の聞き間違いでないなら、これが聞こえるのはあまり良い状態じゃない。
 そろそろと音を立てないように窓際まで忍び寄り、カーテンをきっちりと閉じる。音はまだ聞こえている。白澤さんに言った方がいいだろうか、いやしかし起こすのはどうだろうと少し悩む。悩んでから、とりあえずリビングに行こうと部屋を出た。
 暗い中にいたからだろうか、暗闇に目が慣れて部屋の中が薄ぼんやりと見える。自室のドアが閉まるがちゃりという音と同時に、白澤さんの部屋のドアが開いたものだから驚いてしまった。白澤さんもそれは同じだったようで、薄闇の中でも目を丸くしたのがわかった。
「野田くん、もしかして外の音が聞こえてる?」
「この祭り囃子ですか?」
「……そういう風に聞こえていたのか。私が声をかけてくるから、野田くんは絶対に窓の外を見ないように」
 白澤さんは短く言い切って外に出て行った。
 そういう風に聞こえていたのか、というのはどういう意味だろう。俺の耳にはそう聞こえていたが、白澤さんの耳にはそう聞こえていないということだろうか。正体がわからない、今まで聞いたこともないような音よりはずっとましだが、本当はどんな音だったのだろうと少しだけ気になる。
 音はすぐに止み、しんとした夜が帰ってきた。ほどなく白澤さんも帰ってきたが、その手には小さな包みが載っていた。昔話に出てくるような、笹の葉の包みだったから思わず見つめてしまった。
「ごめんね、騒がしくて。あまりこちらに顔を出さない知人が来ていたみたい」
「ああ、なるほど……じゃあそれはお土産ですか?」
「うん。気になる?」
 素直に頷けば、白澤さんはリビングのテーブルに包みを置き、笹の葉を留めていた蔓を解いた。
 笹の葉が解ける。内側にあったのは、きらきらと光る金平糖だった。俺のよく知っている金平糖と形は全く同じで、けれど色が全く違う。一色ではなく、複数の色が混ざっている。見る角度によって色合いが変わって見える。お菓子というより、ガラスのおもちゃと言われた方が納得する見た目だった。
「七夕からお盆にかけてはこちらにいて、夏が終わるころに幻永界に帰るひとでね。野田くんが聞いた祭り囃子は、彼がこれから帰る人を連れていく行列の音なんだ」
「……これから帰る人の行列、ですか」
「うん、向こうからこちらに渡る人たちがいくらかいるからね。その引率と言ったところかな……一つ困ったところがあるとすれば、あの音が聞こえる人間を連れて行ってしまうことだね」
 仕事に対して真面目だから素晴らしいことなんだけど、と言いながら白澤さんは苦笑している。つまり、俺が音につられてカーテンをめくるだとか、窓を開けるとかしていたら連れていかれていたということだろうか。後から背筋が寒くなる。もし日中であったならもっと簡単に外を見ていたから、夜だったのが幸いしたのかもしれない。
「念のため、外から防音の仕組みを増やしておいたからもう聞こえないと思うけど……もし、また気になる音が聞こえたらいつでも言ってね」
「了解す」
 不意に聞こえる音にも気を付けなければいけない日が来るとは思わなかった。白澤さんが対策してくれたからにはもう同じことは起きないだろうが、起きうる出来事はできるだけ知っておきたい。
「これは野田くんが食べても大丈夫だから。一つ食べればよく眠れると思うよ、どうぞ」
「あ、どうも……」
 きらきらと光る金平糖を受け取り、そのまま口の中に放り込む。舌の上で転がすと、砂糖菓子独特の甘さがじわりと広がる。俺の知っている金平糖と違うのは、甘いだけではなく、花の香りがするところだろうか。
 何の匂いか確かめようと舌の上で転がしているうち、ほろほろと崩れてすぐになくなってしまった。口の中にあった甘さはすぐに去ってしまって、少し惜しい気持ちになる。
「これ、何の匂いすか? すごく、いい匂いがしますけど」
「この時期にしか咲かない花でね。名前は――というのだけど、こちらにはないから……」
 白澤さんの口にした言葉は、なんというか真似もできないし文字にもできない名前だった。馴染みがないを通り越して、名前だと認識できない音をしていた。なるほど、俺がその花を見ることはなさそうだ。
「明日は寝坊しても構わないよ。おやすみ、野田くん」
「おやすみなさい」
 改めて歯を磨いて、白澤さんと別々に部屋に戻る。布団に戻ったころには、カーテンの向こうは薄く白み始めていた。
 タオルケットにくるまって、ようやく何もなくてよかったと胸を撫でおろす。耳の奥に、まだ祭り囃子がかすかに残っている。太鼓や笛の音なんて久しぶりに聞いた。どんな太鼓の音だったか、笛はどう鳴っていたか思い出そうとしたのだが、目を瞑ったあとはすぐに眠気がやってきて何も思い出せなかった。

白い手

 目的の駅までもうすぐだというのに、眠気に襲われている。目を閉じたり開けたりを繰り返してみるが、段々閉じている時間のほうが長くなってきた。
 もういっそ眠ってしまった方がいいのはわかっている。きっと白澤さんも眠い時は寝ていいのにと言うだろうが、何となく眠気に抗っていた。
 微かに開いた窓の隙間から風の音が聞こえる。時折ごおっと強くなるあたり、トンネルに入るとか街中を通っているのだろうか。依頼人に会うために事務所を離れ、電車に揺られている。今日の行先になる場所のことは詳しく知らず、電車の外がどこを通っているのかわからないから聞こえる音で外の景色を想像する。
 風の音に耳を澄ませていると、鈴のような音が聞こえた。ちりちりと鳴る高い音を聞いているうち、どうやら鈴ではないなと思い直す。ガラスが高く鳴る音は風鈴の音だ。窓の外から聞こえているのだろうと納得をして、そのまま目を瞑ったまま音を聞く。
 涼やかな音は耳に優しく、眠気は強くなる。眠気を紛らわそうと目を開き、車内を見渡す。車両はがらんとしていて、俺と白澤さんの他には片手で数えられるほどしか乗客がいない。空いているのをいいことに、白澤さんとは向かい合うように座っていた。
 ふと、白澤さんの視界の端に座席で眠り込んでいる男性の姿が見えた。俯くどころか、膝に頭が付きそうなほど深く頭を下げている。眠っているというより、あれではお辞儀のようだ。
 じっと見つめているのもおかしいかと視線を戻し、いよいよ限界になって目を瞑る。
 目を瞑ると、不思議と音が際立って聞こえる。風鈴の音がずっと聞こえていて、このあたりでは夏は必ず風鈴を飾る風習があるのかもしれないとぼんやり思う。一つや二つの音ではないのだ。ちりちり、ちりちり、と絶え間なく音が鳴っている。うるさいくらいだが、あまりに眠くて気にならない。
 瞼の裏で、薄っすらと光の輪郭が見えた。視ようと思っていないときには全く視えないものなのに、そんなこともあるのかと思う。驚くのが当然だろうが、驚くより眠気が勝った。何より、こんなに眠いのだから夢かもしれない。
 薄ぼんやりとした光の輪郭は、白い手の形をしていた。浮かび上がっているだけならそこに何かあるだけで済む。気になったのは、白い手が座席で眠り込んでいた男の頭を押さえつけていたことだ。
 頭を撫でているわけではない。ただ、上から押さえつけている。何となく、気味が悪い。男性は起き上がろうとしているわけでもなく、ただ大きな手に押さえつけられたままなのも恐ろしいものに見えた。
 嫌なものを視てしまった、と目を開く。眠気はとれ、頭がすっきりしていた。眠っている間に夢を見たらしい。しかし、夢にしては不気味だった。
 スマホが短く震える。通知を開けば、白澤さんからメッセージが送信されていた。
 ――向かいの座席で寝ている男性が降りるまで電車を降りずに待機。
 メッセージを読んで、顔を上げる。白澤さんは微かに目を細めて、まだ理由は言えないという顔をした。一度頷き、了解の返事をした。
 白い手を見たことを言うべきか、少し悩んだ。けれど、視たのか夢なのか判別がつかない。どちらにせよ、白澤さんも男性に違和感を覚えているようだったから言う必要もないのかもしれない。
 目的の駅に近づくアナウンスが流れた。男性がふと顔を上げ、鞄を持つ。鞄についたお守りの鈴がちりんと鳴った。どうやら男性もこの駅で降りる予定であったらしい。
 電車が止まる。男性が荷物を持ち上げた瞬間、紐が緩んでいたのかお守りが落ちた。男性はそれに気付かず、足早に電車を降りていく。
 落としましたけど、と声をかけようとした瞬間、再びスマホにメッセージが届いた。メッセージを開けば、再び白澤さんからであった。
 ――釣り針だから触らなくていい。
 目に入った言葉にぞっとして、椅子に座りなおす。触ってはいけない、と言われると途端に恐ろしいものに見えるから不思議だ。白澤さんが立ち上がって、素手ではなくハンカチで包むようにしてお守りを拾い上げた。
 電車のドアが閉まる。ゆっくりと窓の外の景色が動き出し、白澤さんの後ろをホームが通り過ぎていく。一瞬だったが、ついさっき電車から降りた男性が電車をじっと目で追っているのが見えた。
「野田くん、次の駅で折り返そうか」
「あの、釣り針って……」
「合図が聞こえたからね」
 そのまま俺にお守りを見せることもなく、鞄の底にハンカチごとしまった。合図なんてあっただろうか。混乱がそのまま顔に出ていたのか、白澤さんはハンカチに包んだお守りをゆらゆらと振った。ちり、と鈴の音がする。
「ずっと鈴の音がしていただろう?」
「……風鈴の音かと思ってました」
「風鈴? そんなにうるさく鳴っていたんだったら、誰にでもいいから拾われるつもりだったんだろうな」
 あまりいいものではないよ、と言って白澤さんはお守りをしまい込んでしまった。詳しく知りたがったら教えてくれるだろうが、口ぶりからあまり教えたいものでもないような気がする。白い手のことも、言うタイミングを逃してしまった。
「待ち合わせには少し遅れそうだな……次の駅で降りてタクシーで待ち合わせ場所に行った方が早いかもしれない」
「車呼んでおきましょうか」
 予定がわずかに狂い、リカバリーに忙しくなった。白澤さんにあれこれ相談しているうちに、話すタイミングを逃してしまった。夢だったのかもしれないと思うことにして仕事に取り掛かるうち、帰る頃にはすっかり忘れてしまった。

数える

 雨が降り出しそうな、重たい雲が頭上に広がっている。
 天気予報によると、どうやら台風が近づいているらしい。日本列島を直撃はしないようだが、風の強さから結構な雨が降るだろうことは何となくわかる。天気が悪くなる前にと白澤さんから頼まれてあれこれ届けものをしてきたところだ。
 白澤探偵事務所では、郵便や宅配便で送ることができないものというのが時折ある。そういう時に俺か白澤さんが直接届けに行くのは別に珍しいことではなかった。
 今日届けたのは、何冊かの古本だ。日に焼けた表紙、波打つページの端々を見るにただの本ではなさそうな雰囲気がある。一体何に使うものだろうと不思議に思ったが、本だから当然読むのではないかと気付いたのは新宿駅に戻ってきた頃だった。
 新宿駅はいつも人が多い。駅から事務所に帰る道すがら、どうあっても人の波にぶつかることになる。
 赤信号で横断歩道の前に人が止まる。日差しは殆どなく、風が吹いているからかいつもより涼しく感じる。しかし、湿った空気が重たいのが息苦しい。マスクの内側でため息を吐けば、斜め後ろからはきはきと喋る声が聞こえた。
 電話でもしているのだろうか。それにしては間がない。連れと会話をしているとか、そういう感じでもなさそうだ。聞こうとしているわけではないのに、妙に通る声だからか耳に届いてしまう。
 はきはきとした声は、いちにいさんしいご、いちにいさんしいご、と繰り返していた。
 どうやら何かの数を数えているらしい。周りに何か数えるようなものでもあるだろうかと顔を上げるが、それらしいものは何もない。何を数えているのかはわからないが五個で一組なんだな、とどうでもいいことが気になってしまった。
 こういう時に限って信号はなかなか変わらない。何となく嫌な予感がする。
 俺は不思議と、自分の世界に生きている人に絡まれることが多い。白澤探偵事務所に逃げ込んだときもそうだったし、今までにも何度かあった。こういう時にどうするべきか、正しいふるまいを知らないままだ。とりあえず白澤さんの知恵を借りようと、通話をかけることにした。
『もしもし、野田くん? どうかした?』
 電話は三コールも鳴らずに繋がった。白澤さんの声が聞こえた瞬間、自分が思った以上に緊張していることに気付いて細く息を吐く。
「いえ、大したことじゃないんです。ちょっとまずいことが起きそうな予感がしたんで、話し相手になってもらえればと……」
 真後ろに居る人の挙動が何だか落ち着かない、と言うのはさすがに憚られた。
 ようやく信号が青に変わって、歩幅を大きくして一歩を踏み出した。離れてしまえばただの杞憂で済むと思ったのだが、声は少しも離れずそのまま着いてくる。周囲の人がちらと俺の後ろを見て、気まずそうな顔をしてそそくさと速足に離れていく。
 数える声はいまだに止まない。結構な速足のはずなのに、声が遠くならないのがいっそ恐ろしい。
『近くに何かを数えてる人がいるね。野田くん以外にも見えたり聞こえたりしている?』
「そうですね、俺以外にも見えてるみたいです」
『人ごみの中に入ってみて。それでも着いてくるようなら、私の方でも仕掛けてみるよ』
 横断歩道を渡る人と人の間を横切るように歩く。しかし、それでも声がついてくる。俺の後を追いかけている、と気付くには十分だった。
『変わらないようだね。人間ではないな……野田くん、足を止めずに事務所まで真っすぐ戻って来てくれる? それと、受話音量を最大まで上げてくれるかな? 耳から離して十秒くらいそのままで』
「了解す」
 言われた通り、受話音量を上げて耳から離す。てっきり白澤さんが何か言うのかと思っていたのだが、スマホはうんともすんとも言わない。しかし、受話音量を上げてから背後の声がぴたりと止まった。
 十秒数え終わって、受話音量を戻してスマホを耳元に当てる。やはり、何の音も鳴っていない。白澤さんは一体何の音を流していたのか気になって詳しく聞こうとした瞬間、舌打ちが一つ聞こえた。
 思わず振り返る。俺から離れていく人影が一つあった。問題は、瞬きするたび瞼の裏がちかちかと眩しかったことだ。見ようとしていないのに、視えていることに驚く。何だあれはと息を呑めば、スマホから白澤さんの声がした。
『もしもし、野田くん? どうやら大丈夫そうだね』
「そうですね、なんか……離れていったみたいです。さっき何の音を流したんですか?」
『モスキート音って知ってる? 特定の年齢の人にしか聞こえない音のことなんだけど……それの幻永界版というか、野田くんはうちの従業員だから近づかないようにという警告音を少しね』
 なるほど、俺の耳では聞こえない音だったらしい。しかし後ろにいた何かに聞かせるには十分だったのだろう。
「舌打ちしてどっか行きましたよ」
『狸か狐か、それとも川獺かな。夏は外を出歩く人が多いから、狩りやスカウトが多いんだ』
 まあ何事もなくてよかった、気を付けて帰っておいでと言われ通話は終わる。スマホをポケットに突っ込み、遅れてようやく理解する。
 何を数えているのだろうと思っていたのだ。あれは、獲物を数えていたのではないだろうか。ろくでもない狸か狐もいたものだ。しかし、聞き流してしまったが川獺もやはり化けるのだろうか。詳しくは事務所に帰ってから聞くことにしよう。雑談のお供に何か冷たいおやつでも買って帰ろうかと考えながら、足を急がせた。
 

扇風機

 白澤探偵事務所の倉庫は、定期的に物を減らさないと溢れてしまう。
 白澤さんの読み終えた本は幻永界の白澤さんの家へ送らねばならないし、依頼主から引き取ってくれと言われた怪異物は詰みあがる。定期的に幻永界の商人であるエチゴさんに買い取ってもらうなり処分してもらうなりすることもあるが、それ以外の細々としたものは定期的に片付けなければならない。だから、依頼が少なく、時間に余裕がある日にまとめて片付けることにしている。
 段ボールを潰して畳む。幻永界で処分する当てがない不燃ごみをまとめる。後は区の分別に従ってまとめていく。見覚えのない荷物が出てくると、白澤さんに確認してもらうために避けておく。
 白澤探偵事務所に来て間もない頃、白澤さんの記憶にない荷物が出てきてちょっとした騒ぎになった。インスタントカメラのフィルムに呪文が書いてあったとかで、読み上げるとよくないという代物だった記憶がある。カメラ自体に問題はなく、今もリビングで保管している。
 ある種の怪異物は、いつ、いったいどのように入り込むのかわからない。依頼主からもよく聞くが、気が付くとそこにあったという人が多い。それは家の中であったり、蔵の中であったりする。
 扇風機の首ががくん、と揺れた。壊れかけてはいるが、まだ使える。冷房のない倉庫では十分活躍の場があるだろう。
「野田くん、そろそろ休憩した方がいいよ。水分持ってきたから」
 白澤さんがペットボトル片手に倉庫に上がってきた。ついでに確認してもらいたいものがあるから見せようとしたところで、白澤さんの足が止まった。
「この扇風機は?」
 尋ねられて初めて、あれ、と思った。
 倉庫には冷房がない。それはわかっているから、普段は窓を開けて作業をする。扇風機なんて、あったはずがないのだ。
 扇風機の首ががくんと揺れる。錆びたカバーの隙間から、埃を纏った羽が回っている。スイッチのボタンは欠けていて、台座にはひびが入っていた。明らかに壊れかけた扇風機を、倉庫用に置いておくわけもない。
 今更そのことに思い至った自分に驚いて黙り込んだ俺を見た白澤さんは、黙って扇風機のスイッチを切った。コードをくるりとまとめて持ち上げ、そのまま階下へ向かおうとしている。
「こういう類のものは、家に入り込んだことに違和感を覚えさせないものもあるんだ。悪さをしたわけでもないし大丈夫だよ」
「そういうもの、ですか?」
「壊れかけているから、使い続けていたら火事くらいは起きたかもしれないけどね。やっぱり道具は最後まで使われたいからそういう風になってしまうのかもしれないな」
 白澤さんは扇風機を持ったまま階下に降りていく。その背中に、何か言わなくてはと少し焦った。何を言わなければいけないのか、俺自身もわかっていないまま口を開く。
「それ、捨てるんですか?」
 振り返った白澤さんは、驚いた顔をしていた。
「幻永界なら修理して出番もあるだろうから、エチゴさんにお願いしておくよ」
 大丈夫、と繰り返して白澤さんは事務所へ戻っていった。俺は何となくほっとしながら、白澤さんの持ってきてくれたペットボトルに口を付ける。冷たい水が喉を流れていく感触が心地よく、気持ちも落ち着いた。
 休んでから作業を再開させることにしよう。窓を開けると、涼しい風が入ってくる。微かに秋を思わせる風の冷たさに、あの扇風機はよほど出番が終わるのが惜しかったのだろうかと少し思いを馳せた。