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単弓類の夢
大きな船だった。
客室の数は数えられず、一般船室なんて低俗なものはない。床の絨毯は歩くたびに足が沈む程柔らかくて、地上にある娯楽でこの船にないものなんてない。豪華客船とはこういう船のことを言うのだろうか。タイタニックには乗ったことがないけど。
広いデッキの中央辺りに四角く切り取られた空間がある。船底まで吹き抜けになっているらしい。高い柵で囲われていて見えないけど、その方がいいと思う。
何か船底で集会が行われているらしい。大きな声がデッキまで聞こえてくる。
「皆さんの中で手がある人は? あぁ、たくさんいますね。では目がある人は? おっと、少なくなりましたね。それじゃあ音がある人は? 風がある人は?」
あんな堂々と演説するのだから、きっと成金の大富豪に違いない。趣味の悪いスーツを着て、でっぷり太って、十本の指の半分以上に下品な指輪をはめているに違いないのだ。
「お姉ちゃん、見てみたいね」
妹が無邪気に振り返る。
「見ちゃだめよ」
なぜか不吉なものが上ってくるような気がした。
やがて集会は終わったらしい。デッキは人で埋め尽くされた。手を伸ばすだけで隣の誰かに触れられそう。
ご婦人たちのドレスは鮮やかな原色。フリルの数で競い合うつもりだろうか。それともスカートの幅? 帽子の大きさ? 宝石の輝き? 笑顔がいかに上品でも、仲良くお喋りしているように見えるだけだ、きっと。
モーニングの紳士たちはしきりに髪やポケットチーフやカフスボタンを気にしている。政治や経済や世間のしがらみ。面白くなさそうな話を面白くなさそうな顔で語り合う。あの人たちは生まれた時からネクタイを締めて、寝る時だって正装を崩さないに決まっている。
私はこっそり手がない人を探して歩き回ってみた。目がない人でもいい。耳がない人でもいい。しかし、どうしても見つからない。
音楽隊がワルツを奏で始めた。人々が手を取り合い踊りだす。
私だって見えるし聞こえるし、踊れるわ。むきになって私はデッキの人込みへ飛び出した。
「では、私と踊りましょう」
一人で困り果てていた私の手を取ったのは優しい老紳士、あるいはトルソーの化け物だった。
腰から下は柔らかいツイードのズボン、腰から上は腕のないトルソーだ。顔は目も鼻も口もはっきりせず、焼けただれたまま死蝋になったよう。気味悪くて、恐ろしくて、不思議に温かい。
「踊ってくださるの?」
「えぇ、踊りましょう」
ワルツのステップを私はひとつも知らない。第一、どうやってこの老紳士の手を取ればいいのだろう。
私の思考を置き去りにして、私の腕は老紳士のボルトが突き出た肩に置かれた。私の足は知らないはずのステップを踏んだ。
誰もこちらを見ない。私はドレスを着ていないし、老紳士は美しくない。素敵で素晴らしい。
「楽しいかい?」
「嬉しいんです」
無邪気な人々が踊るデッキの隅にはガラスケースがある。中に展示されているのは骨格標本と復元模型。ワニの体にイヌの顔がついたような、あれは単弓類といったはずだ。
「気になるね。あれはグワンロンという生物だ。まだ何も食べられなかった古代の生物だよ」
ふと私は目を閉じる。
荒涼とした砂漠をグワンロンは孤独に走り回る。何を食べたかっただろう。同族を食べたかったのだとしたら、私が与えてあげたい。
青々と草木が茂る森の中でもいい。虫や小動物が走り回る中でうずくまって眠っていたかもしれない。それなら永遠に続く休息を与えてあげたい。
復元模型が振り返って走り出す。目覚めてしまったのは不幸だったかもしれない。けれど、彼はきっと幸福を見つけ出すだろう。
ワルツはまだ続く。