旅の間にしんどさを感じたら、とりあえずお米を炊いてみて。
異国を長く旅していると、どうしようもなくしんどくなるときがある。熱がでた、喉が痛い、おなかの調子が悪いとかの紛れもない体調不良ではない。なんとかなく気分がのらず、どこに行く気にもなれず、無気力さが身体を支配してしまうような、言葉で説明するのはちょっと難しいしんどさ。「からだ」の不調でないのだから、観光もできるし、お散歩もできる。だけど、おそらく自分が気がつかない内に「こころ」が疲れたのだろう。なんのやる気も起きないのだ。
旅は楽しい。
日本にいたら目にすることのない光景が当たり前のように飛び込んでくるし、普段食べないものを食べて舌鼓を打ったり。旅をしなければ交わることのなかったはずの人たちとのおしゃべりは自分の新たなる見聞の肥やしになる。次の目的地を決めたり、明日の予定を立てる行為ですら心をわくわくさせてくれる。
その一方で、旅は「こころ」を疲弊させることだってある。わたしたち日本人の母国語は日本語。だから英語を話すときだってひどく頭を使うし、伝えたいことが伝わらないもどかしさにイライラしたりもする。それに、自分の中のスタンダードが通じないことだってたくさんある。バスや電車が遅れても謝罪の一つもないし、みんながきちんと整列している風景なんて夢物語だ。外国人だからとお金をちょろまかされることもあるし、馬鹿にされたことに涙を飲む日もある。
そんな「こころ」の磨り減りは気づかない内に大きくなっていき、ある日いきなり「ああ、どうしてだろう、とてもしんどくなったぞ。」と感じさせるような気怠さになって現れる。
どうすれば、いいのだろう。わたし、楽しいことしてるはずなのに。
そんな自己嫌悪に陥ったりもするかもしれない。
自己嫌悪なんてしなくていいし、磨り減った「こころ」は必ず蘇る。スマートフォンの充電みたいに、栄養を十二分に与えてあげれば、またいつもみたいに動けるようになるはずだ。
ただ、その充電速度を少しだけアップさせるアイテムとして。
お米を炊いてみて、そして食べてみて欲しい。
動くのすら面倒なのに買い物になんか行けるかよ、と不満の声は押し殺して、最後の力を振り絞ってお米を買いに行ってみて。
お米の種類は日本米、それか日本米に近いもの。欧米ではスーパーに日本米が売っているし、南米やアフリカだったら日系スーパーに行けば、お米は必ず購入することができる。
海外で日本米なんて高級品なんじゃないの、と思いがちだけれども、1kgや2kgの量が数百円で買えたりする。思いの外安価なのだ。
お米を炊いたら、そのお米を鍋に入れて。日本にいるみたいに研がなくてもいい。余裕があるなら何度か研いでもいいけど必須事項ではない。
鍋にお水を入れて、だいたいお米よりも1センチくらい上になるくらいに注いだら、蓋をして火をつける。
最初は強火で、大ぶりの泡を立てて煮立ってきたら一度スプーンでかき混ぜる。お米を均等に炊くために、かき混ぜるのが重要だったりする。そのあとは蓋をして弱火で10分ほど炊き上げる。弱火がないときは、もう少し強火で煮立たせて鍋からおろして余熱で調理してしまっても平気だ。
白くふっくら炊けたお米を、お皿に移して。
いただきます。と口にしてみて欲しい。
口にひろがる炊きたてご飯の味。ねっとりとした舌触り。お米の甘み。
わたしたちは日本人、約2000年前の弥生時代からお米を食べているご先祖様を持っている人種だ。お米の味はもはやDNAに刻まれているといっても過言ではない。
遥か昔から、慣れ親しんだその味は、わたしたちの「こころ」をふんわりと包みこんでくれて、ほっとさせてくれる。
磨り減った「こころ」によく頑張ったね、もう大丈夫だよ、と言ってくれるような。まるでおばあちゃんの家に遊びにきたような、そんな感覚。
もっちりとした噛みごたえが、その噛めば噛むほど滲み出る甘みが「こころ」に、胃に落ちて消化されて「からだ」に染み渡る。きっとさっきまで感じていたしんどさが、少しの間どこかにお散歩してくれているかのように、楽になるはずだ。
炊いたお米がおなかにおさまって。皿がからっぽになったら、早めにお布団に潜りこもう。
「こころ」が特効薬で満たされている内に、目を瞑って夢の世界に行ってしまおう。次に目が開いたとき、さっきよりかはしんどさは幾ばくかはましになっているはずだ。
そうしたらきっと楽しいことが考えられるようになる。「こころ」を沸き立たせるものを探しに行きたくなる。
だから、旅の間にしんどさを感じたら、お米を炊いてみてほしい。
いつもよりはやく、元気になれるはずだから。