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ママ友洗脳5歳児餓死事件に思う。

 また辛く悲しい、痛ましいとしか言えない事件が起きた。5歳の子どもが死んで楽になるなんて、どれほどの不幸か。

事件記事を読んでまず思ってしまったのは、洗脳されてしまった被害者ママに、もしかしたら軽度の知的障害があったのではないのか、ということ。過去の様々な事件報道で、被害者も加害者でも、知的障害のあるなしが伝わってきたという記憶はほぼ、ない。

最近のベストセラーに「ケーキの切れない非行少年たち」という本がある。犯罪を重ねる、犯罪に手を染めてしまう人の中には、軽度の知的障害を持つ者がいるということは知られていることだ。

数年前に「くちづけ」という映画を観た。知的障害を持つ少女の父親が病気で余命わずかとなり、我が子の行く末を案じた末に殺してしまう、という話だった。実話を元に脚本が書かれたという。この話の中で、少女は騙されラブホテルでレイプをされた経験を持つため、男性が怖く、大人の男は父親しか受け入れられない、と描かれている。

どちらの例でも言えることは、加害者にも被害者にも、事件の前に本当は支援が必要だった、ということだ。

私は高校生だったとき、養護学校だったと思うが、年齢の近い少年少女同士の交流会、といったものに参加したことがある。障害を持った人達との関わりがほぼ、初めてだったことから、それはそれは驚いた。

口をあんぐりと開けたまま、始終よだれを垂らしている。どこを見て喋っているのか、それは果たして話しているのか?歩いているのか這っているのか。車いすに座っているのか、置かれているのか…。「この人たちは、人なの?」残酷な感情だと今は思う。しかし、高校生だった私は、なんでこんなところに来てしまったのだろうと、ただとまどっていた。

簡単な挨拶の後、バレーボールゲームが始まった。見た目とは違い、俊敏な動きを見せる生徒たち。健常者側の生徒にはハンデが与えられていたと思うが、それがどんなものだったのか、覚えていない。ただ、ゲームは互角で、白熱した。

試合後、私たちは直に床に座り、一緒に休憩をした。このとき、障害を持った生徒の一人が、私にもたれかかってきた。大層重たかったので、ほぼ全身を預けてきたのだろう。足のない子だったかもしれない。移動するときは両腕を使っていたように思う。全力で、とっても楽しそうにゲームに参加していた。はあはあ、と全身で息をしていた。足がなかったから、背もたれがないと多分、休めなかったのだろう。その時の私はその重たさに、理解できない薄気味の悪さに、とても「ぞっ」とした。滴り落ちるよだれの汚さに気持ちが悪い、と感じていた。そこにいる同じ位の年の少年少女達を、自分の仲間とは、到底思えなかった。

しかし、たくさんの経験を重ね大人になった今、この時の重みを振り返ったときに、福祉の意味が少しわかったように思う。

この「ぞっ」とするほどの重み。

これを、一人で支えていくことは無理だ。だから福祉があり、少しずつ分かち合う。こんなに重たいものを、親だけで24時間365日、数十年間支え続けるなんて無理だ。自分が壊れてしまうか、相手が先に壊れるか。

やまゆり園という障害者施設でかつて殺人事件があった。高校生だった頃の私のように「人なのか?」と障害者に疑問を抱いた人による殺人だった。

高校生だった私は、それでも、彼らの笑顔をよく覚えている。よだれを垂らしながら不自由な身体で、必死にボールを追っていた。わたしに身体を預け、全身ではあはあと呼吸をするほど、ゲームに夢中になっていた。きっと、楽しんでいたのだ。私達健常者はとまどい、冷めていたというのに。

高校生だった私達の感情と態度に対して、きらきらとしたてらいのない、ものすごく正直な対応でもてなしてくれた彼ら。どちらのほうが人として優れていたか。

魂の輝きは、残念なことに目に見えない。見える人から見たら、どのように映っていたのだろう。

ママ友洗脳事件から、飛躍して考え思ってしまった。福祉が全ての人を救うのは難しいだろう。取りこぼしてしまうことも多い。しかし「なぜ?」を繰り返したくもない。悪人はどうしてもいるのだ。





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