思い出「自転車と、マロンパフェ」
【ブロックバトル】
4歳の時。
幼稚園で一緒だった友達で、目黒智英君と言う子がいた。
当時、三郷団地の同じ団地に住んでいたご近所さんだった。
俺が住んでいた場所は、7-14-603
目黒智英君が住んでいた場所は、7-14-902
家が近い事もあって、よく目黒君の家に遊びに行っていた。
この頃、彼の事はともちゃんと呼んでいた。
ともちゃんの家に行くとブロックがたくさんあり、それでよく遊んでいた。
船を作ったり、飛行機を作ったり、自動車を作ったり。
作る物は、全部乗り物ばかり。
宇宙船や、電車も作った記憶がある。
でも多分、大人から見たら何なのかさっぱり解らなかっただろう。
それでも我々は、渾身の作品を作り上げて超ご満悦になっていた。
そして、戦争ごっこをしてよく遊んでいた。
戦争ごっこと言っても、ただブロックで作った物を地面でぶつけ合うだけ。
でも、自分で作ったブロックが徐々に破壊されて熱くなりはしゃいでいた。
【ミクロマン】
ある日、ともちゃんの家にジェットコースターのおもちゃがあった。
俺は、そのおもちゃが凄く気になり、それで遊びたいと言ってみた。
でも壊れているから、あのおもちゃでは、遊べないと言われてしまった。
しかし遊びたい気持ちが収まらなかった。
そして、どうしても遊びたいと駄々をこねてしまう。
この時ともちゃんは、仕方ない顔をして、そのおもちゃを出してくれた。
俺は、喜んで遊び始めたが、レールが割れていて全然遊べなかった。
俺は、遊べない事をこの時点で納得した。
聞き分けの無い子供だ。
その後、俺はそのおもちゃで遊びたいとは、もう言わなくなった。
そしてまた、ブロック遊びが中心になった。
だんだんブロックで作るものが進化していき、とうとう操縦席まで作れた。
そこに当時はやっていた「ミクロマン」を座らせて乗り物を作った。
この時、操縦席に人がいる事が凄くリアルに思えて、感動した。
そして我々は、ブロックで乗り物を作る時、必ずミクロマンを乗せた。
そしていつもの様に、ブロックで作った乗り物で戦争ごっこをやった。
我々は、ミクロマンを載せた事で、本当に人が操縦している気になれた。
そのおかげで、更に白熱して戦争ごっこが出来た。
【取れない補助輪】
ある日、ともちゃんの母親と俺の母親と、ともちゃん4人で遊びに行った。
この時、遊びに行く目的は、俺の自転車の練習。
当時の俺は、まだ補助輪付きの自転車を載っていた。
その為、4人で補助輪を外す練習を団地の下の広場に練習しに行った。
最初補助輪を外して母親が後ろの荷台をつかみ、走らせて練習した。
でも何度やっても補助輪無しでは、走れない。
俺は、母親が手を離すとすぐにふらついて両足をついてしまう。
この時、母親が自転車を抑えてるバランスに、完全に頼っていた。
自力で走ろうとしなかったから、全然補助輪無しでバランスが取れない。
こんな事をして、1時間くらい過ぎた頃、母親も疲れてしまった。
そして、自転車の後ろを抑えて走ってくれるのを辞めてしまった。
仕方ないので俺は、1人で練習する事にした。
その間、母親たちは、近所のうわさ話に花を咲かせている。
ともちゃんは、1人で退屈そうにしていた。
一向に乗れない俺を見かねたのか、ともちゃんが俺に向かってきた。
そして、自転車の乗り方を教えてくれると言う。
俺はこの時諦めて、もう今日は補助輪を外す事は出来ないと思っていた。
【マロンパフェ戦争】
教えてくれた乗り方は、右足をペダルにかけて思いっきり踏めという。
俺は、教わった通りペダルに右足をかけて思いっきり踏み込んでみた。
そうしたら、補助輪無しの自転車が倒れず進んだ。
良く解らないが、自力で自転車をこいで全然倒れない。
俺は、今まで補助輪無しに乗れなかったのに、一瞬で乗れてビックリした。
同じ経験をした人が教える事は、経験した事のない人が教える事とは違う。
母親たちも、ともちゃんの教えたことにビックリしていた。
俺は、ともちゃんに感動して自転車に乗れて凄く嬉しかった。
この後、我々は自転車に乗れたお祝いをしてくれた。
行った場所は、すぐ近くにあった「フレンド」という喫茶店。
俺と、ともちゃんは、この喫茶店でマロンパフェを食べた。
滅多に食べられないパフェに我々は、超ご満悦だった。
そしてともちゃんが1言、俺に言ってきた。
「このパフェを食べられるのは、俺のお陰だからな」と言われた。
この時は、確かにそうだと納得して「ありがとう」とお礼を言っておいた。
でもブロックでの戦争ごっこは、また別の話。
お礼に負けてやるつもりは無かった。
俺はこの時、ともちゃんにブロックの戦争ごっこで勝つことを心に誓った。