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空気を読むこと、意見が違うこと、あるいは塩谷舞

 ネットでも時々驚異的な文章を見つけることがある。人と人との違い、感性、信念の違い、その差をまざまざと見せつけてくれる文章。自分とは違う、他人の感性、信念であるはずなのに、なぜかその違う信念がナチュラルに伝播する文章というものがある。そんな文章を書ける人を僕は「天才」と呼ぶ。無論僕にとっての「天才」だ。プラトンも、ヘシオドスも、キケロもオウィディウスも、デカルトもパスカルも、ルソーもボードレールもプルーストもドゥルーズも紫式部も道元も漱石も中上健次も村上春樹も吉本ばななも、みな僕にとって天才だった。そして、塩谷舞は、言っていることはそう革新的でもないのに関わらず、そんな天才のひとりなのではないかと、思ってしまう節がある。

あまり声を大にしていうことでもないが、Ads(自閉症スペクトラム)とAdhd(注意障害)のコンボをIQの高さで補って生きてきたタイプである。要するに人と違うのが前提で、誰も自分の世界には入れないし、誰も入れたくはない。特に自分だけのルールが乱されると、あっという間に大混乱に陥る。偽りの社交性が瓦解してしまう(まあ、誰でも似たようなものだが、これはADS的傾向がある人ほど強くなると思う)。だから強固な心理的ガードが、自分には出来てしまったし、そんじょそこらの凡人にはこのガードは破られない自信がある。

 ところがある種の芸術家、文学者は僕の強固なつもりのガードをいとも簡単に通り抜け、自分の深層心理にアクセスするのである。その天才達は僕にとって最大の財産である。僕は彼らの視点を自分の生き方に楽に取り入れることができて、そのおかげで僕は世界と接点を持てる。自分とは違う他者を共感とともに理解できるのだ。

大学で外国語と外国文学を教えている。すると当然文化的差異、多様性、他者理解が大事だと、偉そうに言うことになる。ところが、ほとんどの学生には伝わらない。言葉の上っ面は伝わる。彼ら若い世代にとってこれは常識である。よく耳に入り、慣れ親しんできた言葉である。ところが彼らには本当の意味で多様性を理解しようとすることはあまりない。「本当の意味」というのは、自分とはまるで違った慣習、文化を持った人達と、その人達の言葉を学び、カルチャーショックでボロボロになって、それでもなお付き合う労力を払う、そこまでするほど惹かれてしまう、という意味だ。多様性は大事、といっても、若い子達はあまり、多様な人達とガチで付き合おうとはしないのだ。環境の違い、慣習の違いを心底から恐怖し、交わろうとしない。多様性を受け入れるのではなく、受け入れたフリをして無視するのだ。大嶋仁がいうように、丸山真男が言うように、受容せずに流す日本文化。
 
僕には学生の恐怖が分からなかった。外に開かれようとする意欲の無さが理解できなかった。慣習の違い、考え方の違いを楽しまない生き方が理解出来なかった。日本にいて同調圧力に嫌気がさしているのは、若い子にはかなりありふれた事態である。じゃあ、なぜ外に行かないのだろう?とずっと思っていた。それはもちろん自分の思考の癖、ADS的な自分の心の防御壁からくる、他者にとって意味のない拘りでもあった。

僕は幼少期から、家庭環境が特殊だったこともあって、さらには自分の自閉症的傾向から、強固な壁を人との間に築くのに慣れていた。他人はそう簡単に僕の領域に入ってこれなかった。彼らは多くの場合、日本人だったが、僕にとっては外国人だった。むしろ外国人と日本人の違いがよくわからなかったくらいだ。言葉が違う、外見が違う。でも内面は、皆ひどく自分とは違う点では同じだった。誰も入ってこれない場所で一人で遊んでいる子供だった。時代状況もあって、親にも先輩にも問答無用に殴られる経験が多かった。それは意見の違いではなく、単に自分よりも力を持っている人間の気分の問題だった。僕はそのレベルで生きる術を身につけていった。つまり、殴られなければ成功である。意見の違い、さらには暴力を伴わない村八分はむしろ心地よかった。自分の空間で遊ぶことができる分、人とは違うことを言って、引かれるくらいがちょうど良かったのだ。

だから、嘘をついて衝突を恐れ、同調圧力の中で生きている人が理解出来なかった。空気を読んで、意見が違うことを恐れる人のことがわからなかった。ほっといてくれるなら自分のことに集中できるからかえって好都合じゃないか、そんなこんなで、勉強の偏差値は常に70以上だったが、社交性の偏差値を測れるとすれば間違いなく30くらいだったろう。

これは大学で若い日本人を相手に外国文化を教える人間としてはかなり致命的である。外国に開かれることの恐怖が見えないのだ。そこには希望しかなかった自分とは、まるきり世界が違う、頭ではわかっていても、それを理解させてくれる書き手はいなかった。

それをようやく見つけた思いである。塩谷舞の書く文章の内容にはそれほどオリジナリティはない。しかし彼女の文体には何かがある。その生体としてのリズムを移し取るような何かが。そのリズムにのって、僕は理解し、共感する。他者に開かれる怖さを感じながら、それでもおずおずと一歩を踏み出すその過程がしっかりと伝わってくる。若い人に伝わる文章とは、こういうことか、と思う。この恐怖に寄り添わないといけない、ということ。

ネットにはこんな美しい出会いもある。深謝。


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