細川周平「アメリカでは──カエターノ・ヴェローゾ『熱帯の真実』を読む」-その2
マリリン、ウォホール、シャクリーニャ
『熱帯の真実』は「エルヴィスとマリリン」という章から始まっている。ウォホールを連想しないほうがむずかしい。カエターノは少年時代にこの二人のスターにひかれたことはなく、むしろウォホールを経由して近づいた。トロピカリズモが運動になり始めていた六七年には、サンパウロのビエンナーレ美術展で、アメリカのポップ・アーチストと接触し、スーパーマーケットに向かう自分の道のりに対する「より正確な意味づけ」(290ページ)を得た。この年には、それまでの前衛サークルから活動の場を広げ、テレビにも足をつっこむようになった。ポップ・アートは彼に創作の道を開いたというよりも、すでに進み始めていた道が正しいことを追認した。消費文化のアイコンを世界に対する注釈として再利用することを教えた(64ページ)。
ポップ・アートを知る前に、カエターノは前衛とマス文化の思いがけない衝突を経験している。一九六一、二年ごろ、デヴィッド・チュードアがバイーア大学で開いたコンサートで、ジョン・ケージのプリペアド・ピアノとラジオを使う作品が演奏された。ちょうど流れてきたのが、「こちらサルヴァドール市、ラジオ・バイーアです」という耳慣れたアナウンサーの声で、客席には笑いの渦が巻き起こった(87ページ)。神妙なはずのパフォーマンスの場が、一瞬のうちにカルナバルになった。チュードアの名前は忘れられないものとなったという。ケージの美学では芸術と生活の一体化が大きな柱となっていて、このような突発事は歓迎すべきものだろうが、くすくす笑いや怒号や退場ならまだしも、爆笑のなかではたして、前衛らしさは保っていられただろうか。他の国の観客ならば、笑いをこらえただろうか。笑いという他人に伝染していく肯定的な力は、秘教的であるが故に意味を持つパフォーマンスを根底から揺るがしてしまうのではないだろうか。
これと似たようなエピソードが、一九六六年、サンパウロの市立劇場で起きた。クセナキスの二つのオーケストラのための『戦略』を演奏中、観客三人が作曲家の臨席する中、こっけいな流行歌「フアニータ・バナナ」を歌って舞台に上がったのだ。場内は騒然となった。作編曲家ロジェリオ・デュプラ、具象詩人のデシオ・ピナターリら三人で、彼らは人騒がせな「芸術擁護のための過激連隊運動」を組織し(日本でいえばハイレッド・センターか)、サンパウロの街路や広場に出没したり、ブラジル初のコンピュータ音楽を作ったりしていた。彼らが指揮者の一人、ジュリオ・メダーリャ(カエターノの最初のリーダー・アルバムの編曲を担当)と示し合わせたハプニングだった。彼らはクセナキスの技術的に高度な音楽が、異質な音楽が混じらないという環境でしか機能しないことをユーモラスに批判した。
お騒がせ屋のうち、ロジェリオはとりわけ秘儀的な前衛に飽き飽きしていて、ジョージ・マーチンよりもむしろフランク・ザッパに近い辛辣なコラージュと苦々しいパロディーで、トロピカリスタの重要な録音をブラック・ユーモアで飾った。ロジェリオは、前衛作曲家や詩人がその頃、「消費主義とのまぜこぜ」のことを考えていたと回想している。ボサノヴァから出発したカエターノやジルとは反対の方向から、彼は消費文化の批判的な再利用に向かっていた。編曲者は、トロピカリズモとポップ・カルチャーの絆を、こう振り返っている。「私たちが電気ギターを使ったのは、ただ純粋に音楽的な理由でなくて、一九六〇年から世界で展開してきた新しいタイプのポップな行動・姿勢だからだった。……私たちは物事を変えたかった」。電気ギターは既にジョーヴェン・グアルダ(グループ・サウンズ)が長髪やおきまりの衣装とともに広め、日本と同じように、ナショナリストの道徳的な非難を集めていた。トロピカリズモ(ムタンチスとジル)はそれまで生ギターと決まっていたボサノヴァや、ビッグバンドと決まっていた懐メロや、アコーディオンと決まっていた北東部の民謡調でもプラグを差し、ブラジルの音楽だけでなく電気サウンドを革新した。彼らには、新奇な楽器を試したり、世界の趨勢に「追いつく」ことはあまり問題ではなかった。彼らは「普遍的サウンド」というキャッチフレーズを使った。これは一般的には欧米と歩調を合わせているという意味に取られたが、実際には「ブラジルの」音楽がつねに二人の創造の根底にあった。カエターノとジルにとってブラジルらしさは、ジョアン・ジルベルトのなかにすべてあった。ジョアンのサウンドをなぞる(MPB)のではなく、彼がジャズをサンバ歌謡と北東ブラジルのダンス音楽の語法に溶かしこんだように、ロック・電気楽器をブラジル音楽に溶かしこむこと、これが二人の出発点だった。問題はブラジル音楽をありったけの素材を用いて変えることだった。国のレベルの音楽の独自性を追及しているという点で、彼らは初めから「ナショナリスト」だった。
一九六七年、ビエンナーレで紹介されたポップ・アートはいつもながらの美術界の外でも話題をさらっていた。その音楽版としてのポップ・ミュージックが、ブラジルで生まれつつあるとする『ジョルナル・ダ・タルジ』紙のインタビューで、ジルベルト・ジルは「ポップ・ミュージックは道路標識、看板、交通信号、マンガのようにとっても簡単にコミュニケーションできる音楽だ」と語った。「新しい情報」を作りだすことが尖端的なアーチストの仕事だった。フランスのコミュニケーション理論、記号論、大衆文化論がブラジルでも注目を集めていた風潮が感じられる。日常生活批判がポップ美学の核心にあり、カエターノとジルは、クラウディア・カルディナーレ、ブリジット・バルドー、スーパーマン、バットマン、コカコーラなどのキッチュを思いがけない場面で用いた(ジルがバットマンとアフロブラジル宗教マクンバを折り重ねた「バッチマクンバ」は、具象詩とポップ・ミュージックの最高の組み合わせだろう)。
クセナキス騒ぎの共謀者で具象詩人アウグスト・ジ・カンポスは、一九六八年、カエターノとのインタビューで「反自由の生真面目にとらわれている制度化した前衛こそ戦ってひっくり返さなくてはならない」と熱弁を振るうと、バイーアのスターは「まさにそれこそぼくのやりたいこと、いま、まさにそのことしかやってない」と返事している。実際、この年の国際歌謡祭の予選で、五月革命のスローガンを借りた「禁じることを禁じる」を歌い、「悪魔は解かれた」という巷の言い回しを「神は解かれた」と呼びかえて叫び、「君らが権力を握りたいっていう若者かい!」とアジって、トマトやミカンや木切れまで投げられた。六八年はトロピカリスタの集まるところでは、必ずといってよいほど反対者がつめかけ、「ハプニング」という名の騒ぎを起こすのが儀式となった。
六〇年代の革新的芸術運動については、誰もがマス文化と芸術の境界の攪乱を語るが、ウォホールもゴダールもヴェルヴェット・アンダーグラウンドも、茶の間の人気者にはならなかった。しかしカエターノは例外だった。彼は六八年、最も人気の高かった司会者シャクリーニャのバラエティ番組に、バナナを描いた衣装で出演し、「イエス、ぼくらはバナナを持っている」(一九二〇年代のアメリカのふざけ歌「イエス・ウィー・ハブ・ノー・バナナズ」の返歌)を歌った。バナナはもちろん熱帯のステレオタイプで、エロティックな意味合いがこめられている。カエターノがブラジルのアレゴリーを演じていると見る者よりも、人気取りのために悪ふざけをしていると見る者のほうが多く、この頃にはトロピカリズモが見る間に風俗に退化したと失望する同志もいた。テレビの道化師は文化エリートからすれば低俗だが、カエターノはハーポ・マルクスのアナーキズム、自由、不条理、エネルギーを見いだし、「大衆のダダイズム体験」と称賛した(185ページ)。シャクリーニャの番組は局の管理と彼の爆発的なパーソナリティとが拮抗するマスメディア化されたカルナバルだった。チュードアからシャクリーニャへの道は、カエターノにとっては大きな跳躍ではなかったはずだ。すでにジョアン・ジルベルトが実験性と大衆性とが矛盾しないことを明確に示していたのだから。この年の暮れ、軍部のなかの強硬派が政権を掌握するや、彼とジルは投獄された。反抗的な歌詞が問題になったというよりも、彼らのメディア上の存在が、プロテスト・ソング以上に、人々を先導/煽動するカリスマを持つのを権力側が察知したからかもしれない。二人の挑発的な行動に軍部は堕落と危険を感じた。
先に挙げたアウグストとのインタビューは、カエターノの何度も引用された台詞、「トロピカリズモはネオ・アントロポファジズモ〔新・食人主義〕だ」で終わっている。これは一九二八年の詩人オズワルド・ジ・アンドラージの「食人宣言」に由来する。ハムレットのパロディー「ツピ・オア・ノット・ツピ」(ツピは絶滅したブラジル先住民集団)で始まる宣言は、ツピの悪名高い食人の習慣を文化的な実践哲学に逆転し、野蛮どころか、ブラジルのアイデンティティの要にあると叫んだ。オズワルドはブラジル文化の「遅れ」を取り戻すには、西洋であれ何であれ、貪欲に食べて消化するしかないと外来文化のブラジル化を唱導した。これはポルトガルとアフリカと先史アメリカの人種と文化の融合こそ、ブラジル固有のものという一九世紀以来のいわゆる「三つの悲しい人種」ナショナリズム(フレイリは最も雄弁な論者だが)とは対立した。トロピカリアはボサノヴァのパターンを再生産する手ぬるいMPBではなく、ジョアンの実践した美学にビートルズやジミ・ヘンドリクスやレイ・チャールズを応用し、電気楽器、録音技術、コラージュ、引用、具象詩を「食べて」成立した。「アレグリア、アレグリア」の「ぼくはコカコーラを飲む」という文句は、この文脈で解釈しなくてはならない。[続く]