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「希望ではなく要請として」
これは2008~9年に小劇場レビューサイト「ワンダーランド」の劇評講座の課題として書いたものだ。
たしかわたしが初めてハイバイを観たのがこの時だったのではないか? 岩井さんは別のところで俳優として拝見していたけど。
で、掘り起こしてみたら、当時「露悪系」と呼ばれていた、性とか暴力とかドロドロした人間の汚い部分を晒す舞台作品が、絵空事ではなく人間のリアルを描いているみたいに評価されて、あちこちでコピーされて劣化していくのを過激さで補おうとさらにグロテスクになっていく流れがあって、食傷気味になっていたわたしの愚痴のような「露悪系」批判が原稿の冒頭部にあったので、それはカットした。その手の人たちはもうほとんど演劇を離れてしまっているので。なにかを評価したい時に、勝手に対立の構図をこさえてもう一方をけなして相対的に上げようとするのはただの怠慢に過ぎないなと反省はしつつ、カットしたことでの多少の修正はしたものの、劇評で書こうとしたことは直してはいない。
ハイバイ20周年記念でこの作品が再演され、小さくはない変更点がいくつかあったが、大枠は変わってはいない。「変更点」で思うこともあったし、初演とは作る側も観る側も世の中も変わって、今回の公演の劇評を書きたくなるかもしれないが、ひとまず「20周年おめでとうございます」のお祝いみたいに載せておく。(画像は↓の「て」特設サイトから拝借しました)
https://hi-bye.net/play/te2024
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ハイバイ「て」 作/演出 岩井秀人 (2008年6月18日~23日 下北沢 駅前劇場)
「外科医の父と臨床心理士(カウンセラー)の母の元で育ち、夜尿症、多動症を抱え16歳から20歳まで引きこもっていた」という“乗っ取る”とか“刺す”とかやらかしてしまった若者のプロフィールに遜色ないような生い立ちの岩井秀人が率いるハイバイの『て』は、「祖母の痴呆と共に始まった再生チャレンジの話」だとチラシに記されている。なんともナイーブでメンドー臭い演劇を予感させた。
劇場に入ると手前と奥に客席が配され、挟まれるようにわずかに高くなった舞台が設けられている。(わたしは入り口よりの席で観たため、上下はそれに基づいて表記する)舞台中央には棺桶が置かれていて、喪主の格好をした岩井が遺影を抱えながら「ケータイの電源は」という挨拶をしていたかと思うと、喪服の人々が入り込んできてそのまま劇世界に入っていく。
棺桶が運ばれた後の舞台には、扇形の金属の土台から垂直に1mほど棒が伸び、そこから直角に折れて水平に1mほど伸びたところにドアノブが付された「ノブだけドア」二つで部屋を表し、「部屋」の上手奥にはベッドが配置される。下手手前には台車のようにキャスターを履かせた四畳半ほどの可動式舞台が「外界」としてある。上下にはハンガーラックや椅子が置いてあり、そこには出番を待つ俳優が無表情に座っていたり、衣装を替えたりする。
案の定、序章の教会での葬儀の場面から数日前に遡った舞台上では、もうそう長くはない祖母を囲むために集まってきた家族たちが、取り繕うべくもなくすれ違い、いがみ合っていく様子が描かれる。
介護を母や兄に任せっきりで嫁いだ遠方で暮らす長女が、この日の大宴会を企画したのは帳尻を合わせるためなのか。それを見透かしたように冷淡に応じる兄は一方で、祖母のいる離れの応接間を自動車部品置き場として使っていることを次男から非難される。その兄が父親を完全に無視しているのは、父が母や子供たちに暴力を振るっていたからであるということが次第に明らかにされていく。カラオケで盛り上げようとする長女と、一向に盛り上がらない長男。お構いなしに「リバーサイドホテル」を熱唱する父親。居たたまれなくなって出て行く妹。
とりなすことで精一杯の母がかかって来た携帯電話に出つつ退場した際には、わたしの中では勝手に「不倫」という設定を想起して、何が来ても負けないぞと変な防衛本能が作動したのだが、ありがたいことにそちらへは向かわず、せいぜい次男が父親を罵るものの暖簾に腕押しの様相で終息していく。
母親が「わたしは大丈夫」と諦めに似た言葉とともに、この夜の集まりの企画をしてくれた長女に謝意を告げると、次の場面では祖母の葬儀の日となり、死後硬直した左腕を上手く納めることができなくて、「ポキ」という効果音入りで無理に押し込んでしまう頼りない葬儀屋の指示に従い、きょうだいたちによって棺は運ばれていく。
長男が次女の持ち方に声を荒げると「お兄ちゃんとつぜん激怒してたね」と上手まで棺桶を運びながらも、後日談の装いで次男は傍らの母に話しかける。
岩井が記憶していた家族のあの日のことを次男からの視点で描いたのがここまでの前半部で、母に聞いた話を基にしたのが後半部であるらしく、上手で長男と次男が棺を置いて蓋を開けると祖母はふたたびベッドに戻り、あの日次男が祖母のところを訪れる直前の場面が演じられる。
母が祖母の食事を介助する横で、長男は携帯電話に保存してある桜の写真を「覚えてる?」と祖母に見せるが、他人行儀に応じられる。かと思えば、幼いころの彼に話しかけるような口調になったり、隣の部屋に向かって「太郎ちゃーん」と彼の名を呼んだりもする。
戸惑うことも落胆することもなく続けられる遣り取りから、膨大な時の経過を知らされる。そしてそこには、祖母と淡々と共に日々をすごし、おとなしく愛しつづけていた長男の様子が立ち現れる。
そうか、だから前半で祖母が近くの幼稚園の園児たちが「通るたんびに」声をかけてくれるという話を嬉々として次男にしているのに、兄は「たんびっていっても、一回きりのことだけどね」と冷たく言い放ったのか。たった一回きりだけれども、かけがえのない思い出に「部外者」が入り込むことを拒むように。
気まぐれにやって来る「部外者」は好き勝手な絵空事を言うが、そこにあるのは誰かに見せるために行なわれているものではなく、淡々ながら紛れもなく為されている日々の営みである。だからこそ、長女が企てたあたかもハレの日の儀式のように催される家族の集合が、あれほどまでに長男を不快にさせたのだろう。
それでも母は、きっと宴会に出てこないであろう長男に向かって「ホーテルは」と「リバーサイ」との間が異様に長い父親の「リバーサイドホテル」は聴く価値があるのだと、なんとも間の抜けた呼びかけをする。
宴会の場面で、父親が「リバーサイドホテル」を熱唱するところにふらりとやってきた長男が、父親を見つめていたのは前半部では軽蔑のまなざしにしか見えなかったのだが、父親の歌い方にクセがあればあるほど、対位法的効果が生じ、可笑しくて仕方がないのにえもいわれぬ感慨が湧き起こってきた。
前半で描かれた宴会では、祖母はベッドにいて「参加」し、どんちゃん騒ぎを見るともなく見ているだけなのだが、この後半部では下手の可動式舞台から見えるはずのない宴会を見つめている母の前で、人々は祖母を真ん中に組み体操のピラミッドのような格好になり共に歌い上げる。
それはもちろん長男に対し間抜けな誘い方をしてまでもみんなに集まってほしかった母の願望を表していたともいえるだろうが、あの日集まったそれぞれの心の奥底に確かにあった想いの具現化ではなかったか。現実にはすれ違いかみ合わなかったかもしれないが。
ここで、果たして誰もが本当に家族の再生を願っていたのかなどということにはわたしは興味がない。岩井が自分と母の記憶のズレをこんな風に描いたことに、切実なものを看取してしまったからである。
火葬場でも人々は罵り合うのだが、納棺する焼き場の穴が狭すぎてなかなか入らない上に、風変わりな牧師に一同が賛美歌を歌わせられながらそれを行わされるという滑稽なくだりからの展開であったからでもあるのだが、組み体操の場面を経て、人々は決定的な断絶には至らないであろうという確信があった。
次の瞬間、棺桶は立てられ、菊枝も現れ全員で両手を上にお遊戯のようにヒラヒラさせて無表情で賛美歌を「ま~た~会~う~日~ま~で~」と唱和するラスト。
あまりに芝居がかった大団円に、楽観的すぎるとの批判もあるかもしれない。
だが、社会と隔絶していた岩井がかつて、それでも生きよう、他者を信じようと願って一歩を踏み出したのだとしたら、この漠然とした楽観はまさに生命線とも言うべきものなのだろう。たとえ勘違いにせよ、世界の矛盾を一身に引き受けて絶望の淵までたどり着いてしまった者が、あえて表現をするのである。既に十分に傷ついて、いや、現代を生きる誰もが傷ついていることを十二分に知覚している岩井が、「露悪系」と一線を画すのは至極当然のことである。クソったれの私たちの救いようもない世界で、それでも生きようとする者にとって、リアリティは感じたがるものではなくて、どうしようもなくそこに在るものである。
他者や世界から逃げることなく真摯に向き合いながらも、ナンセンスな笑いを散りばめ行き詰ることを巧みに回避し、複数の視点を獲得する想像力を携え、懐には楽観を包み込んでいる。生き難さを緩められるのは岩井のような表現者に違いない。
みんなが家族の再生を願っていたはずだという希望的観測ではなく、わかり合えなくたってよいからわたしたちはどうにか断絶しないでいられないだろうか、そんな懇願に近い想いがこの作品には満ちていた。