#282 文学講義 – 読書の目利き–
国語の教員をめざしている文学部の学生が主催する夏期セミナーで「読書」に関する講話を依頼された。
カジュアルな感じでいいというので漫談のつもりで話した。
内容を今一度整理しておくことにした。
以下は講話の要旨。
■読書の目利きを鍛えよう
「読書が好き」「本をよく読む」ことと、読者としての目利きが優れていることは別次元のこと。
読書は知識を詰め込むことではなく、自分にとっての最適解を見つけることが目標であり、それを人生に生かすことが目的になるのではないだろうか。
だからといって力む必要はない。
楽しむことが基本だろう。
国語という教科は、決められた答えを導き出すために勉強しているわけではない。
もちろん学習の延長線上には受験対応もあるけれど、それは目標のひとつであって、最終ゴールではない。
読解力を鍛えれば自然と受験にも対応できるはず。
それが生きる力にもなる。
ちなみに、国立情報学研究所社会共有知研究センター長・教授の新井紀子氏が示したリーディング・スキルが最もわかりやすい。
国語教師になるならそうした「スキル=目利き」を鍛えるべきだろう。
例えば小説には人間の性や物事の本質が潜んでいる。
その金脈を掘り当てるのが読書の醍醐味だと思う。
人生には楽しいことや嬉しいことがある。
不都合なことや理不尽なこと、悲しいことや憤りを感じることもある。
旬の作品を読めば今の世の中が見えてくる。
それはそれでいいが、優れた作品は時代や世相を超越して人心の深淵に迫るものが描かれているので、名作や仕掛けづくりが上手い著者の作品は読んでおきたい。
現代の社会情勢や自分の境遇に置き換えてどう考えるかは読み手の自由裁量に任されている。
職業作家は書くことに覚悟を持ち、喜怒哀楽のすべてを受け容れながら、時に困難を感じたり苦悩したりしながら、日常でつかみ取った「何か」を自分の言葉で紡いでひとつの作品に仕上げていく。
優れた作品を読むと、作家に内在する凄みがどこかに垣間見えるものだ。
プロフェッショナル作家の仕事の流儀は奥が深い。
できれば若いうちに名作とよばれるものを読んで目利きを磨いてほしい。
文芸批評家の意見も “ 目利き修行 ” のつもりで読むといい。
私の世代がよく読んだ批評家だと、柄谷行人が凄かった。
ただし、それはあくまでも“柄谷”というフィルターを通して見たもの。
読書はあくまでも作家と読者との個人的な対話であり、自分の頭で考えて得た真理や洞察はかけがえのない宝になる。
自分の思考によって自分の身の内側に組み込まれたものは、必ずその後の人生に生かされる。
思考が豊かな色合いや特徴を帯びて、創造力の向上へとつながる。
商業出版は編集者の容赦ないチェックが入る。
編集者は作品の背景に流れる思想を踏まえて、どうすれば読者がその世界に入り込めるかの目利きが鋭い。
読書は、著者が創りあげた世界観に新たな価値を付加していく作業だとも言える。
そう考えると面白いと思わないだろうか?
基本は作家のセンス、物語の構成力、筆致に依るところが大きいのは確か。
人間が内面に持っている美しさや醜さを描いたり、社会や集団、地域、個人が抱えている闇をえぐり出し問題提起したり、物語のテーマも描き方も無限にある。
読者は、自分の内面に潜んでいる醜悪な部分を突きつけられることもある。気付きがあれば、それが新たな自己課題となる。
だから本との付き合いは深くて面白い。
■読書の1000本ノックを
文学部の諸君、本を読んでいるか?
私は、いろんなジャンルの作品と付き合うことをおすすめしたい。
ただし、何でもかんでも読めばいいとは思わない。
良い本をじっくり咀嚼して読むこと。
それを自分のものにしたうえで、自分の頭で考えること。
著者の感性や物語の内容が自分の感性に合わないことはよくある。
つまみ食いや浮気でいいから、よい作品に巡り会うために読み続けること。
くどいようだけど、国語の先生になるなら、教科書や国語便覧に載っているような有名どころは、できるだけ読んだほうがいい。
読書の魅力はたくさんある。
物語の深み、広がり、人間像、タイトルの妙、構成力、文体、装丁、挿絵‥‥
複数の視点を持って楽しんでほしい。
そしてアウトプッとすることもやってほしい。
書く力は書くことでしか身に付かないから、これも精一杯磨いておこう。
そんな話を50分間ほどして、その後、学生たちと意見交換した。
浮気という言葉のインパクトが大きかったのだろうか。
「僕もどんどんいろんな作品と浮気してみます!」
「“不倫は文化”と言った芸能人がいたそうです。
私も読書で不倫して楽しみたいです」
「おい!不倫なんてひと言も言ってないぞ!」
大丈夫だろうか大学生。