吉田拓郎を知らずに育った音楽業界人メモ
私は『フォークの神様・吉田拓郎』という言葉は聞いた事はあるが、この業界に40年近く勤めている私でもまだ吉田拓郎には会った事がない。
しかし、ここ最近になって吉田拓郎のデビュー当時から彼と共に音楽を作り上げてきた業界の先輩達と定期的に会う機会に恵まれ、私がこれまで知らなかったこの業界の創世記の話をたくさん聞く事ができた。
ここに私の備忘録として残しつつ、私より若い業界人のみなさんの引き出しが増えることを願っている。
私が吉田拓郎を意識し始めたのは
10年近く前、海外出張の前日の朝、私の奥歯の詰め物が外れてしまった。海外での医療費は高いという話も聞くし、このまま治療をしないで海外に行くのも怖いので会社からいつもの歯科医に連絡をしたが、予定が詰まっており対応できないとのこと。仕方がないのでGoogleマップで職場近くの歯科医を検索し、上から順に電話をするが、どこも対応が難しいという。
なかば諦めかけて5〜6軒目に電話をした歯科医は話を聞いてくれた後、何分後に来られるか?と聞いてきた。
地図で調べるとその歯科医はひと駅隣の改札を出てすぐ、246通り沿いの有名なパン屋の隣のビルらしい。これなら20分程度で行けると返すと、外れた詰め物を持って来てくれというので、急行した。
改札を出たところのパン屋は知っていたし、このお通りは何度も通っていたので土地勘はあるつもりだったがパン屋の隣の雑居ビルは全く見覚えがなかった。まるで「探偵物語」で松田優作がやっていた探偵事務所のように年季の入ったビルでエレベーターもなく、急な階段の2階にはギャラリーがあり、その上は事務所のようなテナントが数件はいった5階に目的の歯医者があるようだ。
私の実家がそうなのだが、築50年近くたった昔のマンションに共通する無骨なコンクリートの壁と、妙に飾ったような鉄骨の骨組みと持ち手部分が木でできた手すりの階段を登る。廊下の壁はくすんで入るがまだ白い壁紙が貼られ、ひんやりとして静まり返っている。5階に着くと木製の昔ながらの飾りがしてあるドアがあり、その歯科医の名前が掲げられている。
きっとこの中にいる先生は70歳ほどの男性で、長年勤め上げている女性のアシスタントの方とやられているんだろうな、きっと機材もそれなりに年季の入ったものだろうなと思いながらドアを開けると、思った通りの年代の先生が迎えてくれた。
部屋の中は建物の年代を感じさせる造りではあるが、嫌な匂いも汚れもなかった。そしてなによりみなさんの物腰の柔らかい対応が心地よく、先生の「応急処置はしておきましたので、帰国したらもう少し処置しましょう」との言葉を受け、1年ほど通うようになったのであった。
この時点ではまさか、ここが私と吉田拓郎をつなげる共通点になるとは思ってもいなかった。
グループへの勧誘
歯医者に通い出して1〜2年。私のところに業界の先輩から電話がかかってきた。業界の色々な人間同士が集まって仕事関係の情報交換をしているグループがあるので、参加しないか?というお誘いの電話であった。 『仕事の情報交換』とうあキレイな表現で、きっと定期的に集まって飲みに行くのが目的だろうと検討をつけ、参加することにした。
音楽業界は建築業にも似て”地域”と”分業”で成り立っている業界で、建築では左官、鳶、大工などの業種があるが、音楽業界では音響、照明、舞台制作などそれぞれの専門分野の業種と、北海道、東北、関東など、公演場所の地域によって開催者が異なる。
建築業と違うのは、その職人達がアーティストと共に全国各地に足を運び、コンサートを開催するのである。そこで、各地のイベント開催者がどんな企画を考えているのかなどの情報を共有し、お互いに助け合おうという有志による互助会的なグループからの誘いであった。
目からウロコのつま恋ライブ
お声がけいただいたグループの集まりに初参戦したのは三田にあるとある大手プロダクションの会議室であった。
そこには10人ほどの先輩達が居て、各社の情報や全体での討議などを行い会議は終了した。そのまま希望者(ほぼ全員であるが)は駅前に移動し、飲むのだが、メンバーの皆さんキャリアもあるしどんな高級店に入るのかと思っていたら、赤提灯に直行し目がつぶれない程度の安い甲類の焼酎をホッピーで割り、1本120円ほどの焼き豚を食べながら親睦を深めたのには驚いた。
初参戦の私は誘ってくれた業界の先輩のリードもあって、グループ最古参の名物業界人の近くに座り、その方からつま恋での最初のライブの話を聞いていただが、その話が興味深い。
それは今から約50年前、吉田拓郎とかぐや姫が1975年の8月2日と日付をまたいだ8月3日の2日間に静岡県つま恋で開催したオールナイトライブコンサートで、5万人以上が集まったたぶん日本初の野外ライブである。
(そもそもが、このイベントの開催の前にかぐや姫は解散しているはずであるが、吉田拓郎一人でオールナイトライブは難しいので、解散したばかりのかぐや姫に再結成してもらい出演してもらうという企画自体がぶっ飛んでいる)
いまでは携帯電話もキッチンカーも、仮設トイレもある野外イベントだが、当時の日本にはそのどれもなかった。(仮設トイレは若干あったようだが、5万人のイベントで使えるだけの数はなく、女子専用に近かったらしい)
当時、そのイベントを企画していた会社の若手社員だったその名物業界人は開催前に会場に行き、男性用の仮設トイレを作ったのだそうだ。 それもあの仮設トイレではなく、会場へ向かい道端にスコップで溝を掘り、水が流れるような傾斜をつけたら横にベニヤパネルを立てて仮設トイレとしたんだそうだ。
また、今のようにペットボトルの水も、缶入りのお茶もない時代なので、飲み物といえば瓶に入ったコーラかビールなので、持って歩くのではなく、飲んだらそこに空瓶を置いいったらしい。
ライブのチケットは会場の近所のレコードショップや洋服屋などに切符を置いて売ってもらい、定期的にお店を回って売り上げを回収していたそうで、当たり前だがとてもアナログ。
本番の4〜5日前から会場に人が集まってきて、テントもなければトイレもなく、着の身着のままで当日を迎えていたという、いまとはずいぶん違う過ごし方のようだ。
ライブの模様はいまでも映像で見ることはできるが、映像に収められていないこうした細かい事をこの席に集まっているみなさんはとてもよく覚えていて、その体験の積み重ねが今日の日本のコンサートビジネスの礎になっているのだと思った。
思わぬところで大物との接点が…
その席で、私は以前、NHKの吉田拓郎特番に奥田民生がゲストで呼ばれたのを見たと伝えた。
その番組の冒頭で吉田氏は「今日、なんで君に来てもらったかというと、こないだ歯医者に行ったら井上陽水が居てね、そこで”そろそろお前も民生に会っといたほうがいいぞ”って言われたので来てもらったんだよ」と話していた事を伝えたのです。
日本のフォーク界の巨星二人が同じ歯科医を使い、偶然出会う事があるなんてなんてすごいんだ!というのが印象的で覚えていたのでした。するとグループのメンバーの一人が「それあそこの歯医者だな!」と教えてくれたのですが、そこは私が通い始めたまさにあの歯科医だったのです。
その後、その歯科医があった周辺は東京オリンピックの開発の関係で大きく変わり今は場所を移しているのですが、その移転して再開した入り口に大きな胡蝶蘭の中に”吉田拓郎より”と”井上陽水より”という花を見つけ、教えられていた事が本当だったと裏付けられました。
次回は、目からウロコの業界地図をお届けしたいと思います。