プロパビリティの自殺
常に心のどこかには希死念慮があり、別に積極的に死にに行くわけでもないが、バスを乗るときはできるだけ助手席にあたる席に座る、とか、腹痛が続いても病院に行かない、とか、プロパビリティの自殺を日常の小さなところで積み重ねている。
何か精神を病んでいる人は幼少期や家庭環境に問題がある、という風潮がある気がするが、全くそんなことはなく、それどこか両親からは溢れんばかりの愛情を注がれ、何かやりたいと口にすれば反対1つせずやらせてもらい、頭が良い子、センスがある子として育てられ、かといって別に受験も強要されずエスカレーターで付属の大学に進学し己が怠惰から留年をしても「やりたいことを見つけてくれたらいい」などと怒られるどころか逆に励まされ。
そんな環境で育てられたのに、私はなぜかいつ死んでもよいと思いあのハロウィンの日に京王線に乗らなかったことをずっと後悔しており、しかし日々が最悪だとは思っておらず、むしろ毎日が楽しく最高だと思っていて、この最高が最高なうちに死にたく、私が死んだら悲しむ人として数人の顔が思い浮かぶぐらいには自己肯定感もあり、その人たちには申し訳ないとは思いながらも突然車が突っ込んでくる想像をしながら道を歩く。
けれど従来の先延ばし癖から死ぬことさえもずっと先延ばしにして、いる