「国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて」(佐藤優著、新潮社刊)
“知の巨人”佐藤優氏のベストセラー本の登場である。
まず初めに、本書の発行が2005年だという点に、今更ながら驚く。というのも、外務省との仕事上の接点が生じたのがまさにこの時期だったからで、しかし時期が一致している割には佐藤優氏の話を外務省周辺で耳にすることが全く無く、世間一般の風評からやや隔絶された感もあったからだ。もし本書をリアルタイムで読んでいたら、多少なりとも仕事に影響があっただろうか、と今は思う。
さて、佐藤優氏については、本書で描かれている事件以降、 “知の巨人”とか「インテリジェンス」とかの枕詞と共に様々な媒体で取り上げられるようになっていったのはご存知の方も多いだろう。これは博識な彼の個性によるところが大きいのだとは思うが、残念ながらだいぶ初期のころから個人的にはやや疑問に感じることが多く、というのも彼がしばしば強調する「インテリジェンス」とか「情報のプロ」とやらに、少なからぬうさん臭さを感じたからである。
この点、「訓練を受けること無しにプロになる者はいない」「プロと呼ばれる人物は必ずどこかでプロになるための訓練を受けている」というのが私の持論なので、私が知る範囲では(という留保が付くが)、彼の経歴には「情報のプロ」と呼ばれるだけの訓練を受ける機会があったとは思えないのである。もちろん、ヒト様の経歴について「そのような訓練は受けていないはずだ」などとイチャモンを付けるべきでないことは重々承知している。
何もイチャモンを付けたいというのではなく、わたしはただ、そこまで強調するほどの訓練を受けたことが本当にあるのだろうか、という素朴な疑問を持ったというだけである。
おそらく(と私は思うのだが)、「外務省の情報マン」などの形容から、一般の人が知る由もない特殊事情が背景にあるのだろう、と一般の人の多くが先入観を持って誤解しているだけなのではないか、と思えてしまうのである。
証拠は無い。「あった」という証拠も、「無かった」という証拠も無い。しかし、「証拠が無い」というのは情報の世界では問題にならない。証拠の提示など期待できないし、そもそも証拠など存在しないかもしれないからだ。証拠の有無ではなく、「どうやらそういうことらしい」というだけでも十分効果があったりするのが情報の世界だ。証拠があるのと同様の効果があるならそれで良い、ということである。
さて、著者に関する前置きが長くなったが、本書の内容については、該博な著者にふさわしく、検察とのやり取りなどむつかしい解釈と構成になっている。組み立て方が非常に巧妙に出来ていることに感心する。また、「国策捜査」には特段ネガティブな意味はなく、ただ事実として、体制側の事情があるというだけらしいことも分かる。
しかし本書を通じて検察について考えていくと、基本的な疑問に立ち返ることになりそうである。つまり、「そもそもこの組織はなんのために存在するのか?」という疑問である。どうやら、重大事件が発生したために捜査をするのではないらしいのである。「でもそれって、検察が存在する意味とそもそも違うんじゃないの?」というこれまた素朴な疑問に立ち返ることになる。
結局のところ、もし私が20歳前後のときに本書を読んでいたら、「検察ってくだらないな」と一笑に付して終わらせていたような気がする、と思うのだ。これが本書の読後感である。
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