3つの不安について――「記憶は地に沁み、風を越え 日本の新進作家 vol.18」についての雑感

この文章は、東京都写真美術館で開催中の「記憶は地に沁み、風を越え 日本の新進作家 vol.18」に出品している作家のうち、3人の作品について雑感を記述したものである。

吉田志穂

吉田の展示作品は、すべて「砂の下の鯨」と題された連作からの抜粋であるようだ(1)。

遮光カーテンをくぐって会場に入ると、吉田によるステートメントが目に入る。鯨の死体が埋められている砂浜についての作品群だ、ということを頭に入れつつ作品の正面に立って、困惑した。何が写っているのか分からないのだ。

極端な接写であるのだろうか、あるいは被写体が特定できないところまで拡大・トリミングされているのだろうか。解像度の粗い写真からは「引き伸ばされた」という印象を強く受けた。

私の困惑を端的に表すなら、「写真『なのに』何が写っているのか分からない」ということになる。つまり、この印刷物がグラフィック・アートであるとか、抽象絵画であるという形で提示されていたら、私の困惑は発生しなかったということだ。むしろ好ましく感じたかもしれない。

作品の間近に立ち、拡大されすぎて色のドットで構成されているように見える作品を見る。そしてスーラの点描のようだと思っているとき、私の混乱や緊張は緩み、心地よく眺めることができた。写真ではないビジュアル・アートなのだと思えているときはそれを穏やかに眺めることができる、ということは、翻って、「写真は被写体が何か分かるように撮られなければならない」という強迫観念じみた私の思い込みを炙り出す。

池田宏


池田の、アイヌにルーツを持つ人々を撮影した展示は、先入観を持って見た。美術批評家の土屋誠一(2)が、この展示を批判しているツイートを見たことがあったのだ。以下抜粋する。

うーん、やっぱ一応書いておくか。都写美で観た新進作家展の池田宏氏の展示、根本的にダメだと思って、一瞬で精神的に拒否反応してしまった。写真自体はともかく、池田氏の展示エリアの中央に置かれた平台に、アイヌ関係の書籍が並んでいて、なんでそんな書籍を並べるのかと、寒気がした。(3)
つまり、和人がアイヌを撮影するには、当然権力的な非対称性は伴う。それは当たり前の話。でもさ、じゃあ展示室の中央に、ドヤ顔かどうか知らんけど、さも「私はこれだけアイヌの歴史や文化について勉強しました」というような、展示された写真作品と直接関係なさそうな、アイヌ関係の書籍並べてる。(4)
で、この、書籍並べて「勉強しました」的なエクスキューズを展示のレヴェルでやっちゃっている段階でもうアウトであって、そもそも資料展示されていた図書なんか、別に特殊な書籍なんかほとんどなくて、アイヌの専門家でもなんでもない私ですら、さすがにそれぐらいは読んでるよ!という本を並べても。(5)
勉強したらアイヌ撮影して許される、とか思っているんだったら大きな間違いで、いやそりゃ、被写体として魅力的なのはわかりますよ。だったら、権力的な非対称性が発生することは覚悟して、被写体を毀損するかもしれないけど、それでも撮影して作品にするって腹くくるしかないじゃん、と。(6)

これらを思い出しつつ展示室に入ると、ああ、分かるな、という感じがした。書籍によるエクスキューズという印象は持たなかったが、センシティブな題材を見せられているときのやり場のない居心地の悪さに、肩身が狭くなる。

杉田俊介は、男性が自らの特権性に薄々ながらも自覚的であるとき、そこに居心地の悪さを感じ、いたたまれなさからの反動としてミソジニーに「闇堕ち」するという記述をしている(7)が、私の感じる肩身の狭さはこれと構造的に似たものがあるのではないだろうか。すなわち、センシティブなテーマの作品を見せられたときに作者を批判したいという衝動(無思考で反射的な衝動のことを指している)を感じている私は、そのセンシティブさゆえの居心地の悪さに耐えかね、その捌け口を作者批判に求めてしまうのではないだろうか。

山元彩香


綿密に指示されたポージング。レースや花といった小道具も、計算の上で配置されているのだろう。色調もコントロールされているのが素人目にも分かる。

山元の作品からは分かりやすい構成意識を感じ、絵画を鑑賞するときと同じまなざしを向けることができた。

ただ、この展示室にも居心地の悪さを感じ、足早に巡っただけでそこをあとにした。日本人がアフリカ系の女性を撮影し、日本で展示するということには、オリエンタリズムめいた(アフリカ(8)はオリエントではないが)暴力が存在しないだろうか?

問題となるのは、「客体化」であると思う。山元の作品は「構成」という手付きが濃く感じられるがゆえに、被写体である人間を、ともすると「美を実現するための手段」にまで引きずり下ろしかねない。

『岩波 哲学・思想事典』から、「オリエンタリズム」の項を参照してみる。

したがってまた帝国の主体性は,西洋=「われわれ」と,東洋=「かれら」の間に認識論的で存在論的な境界線を引くことで構築されえたのであり[後略](9)
これによって東洋は,詮索,研究,判決,訓練,統治の対象として,教室,法廷,監獄,図鑑のなかに配置され,超越的な主体としての西洋によって恣意的に表象され,創造されるようになった.(10)

この、「超越的な主体としての撮影者」と「美の手段としての客体にまで矮小化された人間としての被写体」という対比構造は、被写体がアフリカ系であり、かつ女性であることで、日本の中で「客体化」され続けてきた歴史性を二重に帯びていることにより鮮明に立ち現れ、それが私を不安にさせるのだと思う。

(文中敬称略)

(1) 展示目録に「〈砂の下の鯨〉より」と付されているところから推測。
(2) Twitterのアカウント名は「大野台介」だが、プロフィールに「aka土屋誠一」とあること、また池田宏とのやりとりの中で「土屋さん」と呼ばれていることなどから、ここでは土屋誠一という呼称で統一する。
(3)  https://twitter.com/daisukeohnosgm/status/1473660613247512578?s=20 (2022年1月19日閲覧)
(4) https://twitter.com/daisukeohnosgm/status/1473661096683016197?s=20 (2022年1月19日閲覧)
(5) https://twitter.com/daisukeohnosgm/status/1473661563391590403?s=20 (2022年1月19日閲覧)
(6) https://twitter.com/daisukeohnosgm/status/1473661973502238728?s=20 (2022年1月19日閲覧)
(7) 杉田俊介(2021)『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か #MeTooに加われない男たち』東京:集英社。
(8) 被写体となっている女性たちはアフリカ系の外見をしており、ステートメントに「言葉が通じなかった」旨の記載があったため、アフリカで撮影したのだろうという推測をしている。
(9) 姜尚中(1998)「オリエンタリズム」『岩波 哲学・思想事典』(p.192)東京:岩波書店。
(10) 同上。


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