「ムラのあるネイルの方が抜け感があっていい」と語るとき、私は何を「抜」こうとしているのか?
ネオングリーンのポリッシュ*1を買った。Twitterで見かけて、これは私に必要なものであると直感したので即購入し、その日のうちに塗ったのであるが、それは私がとても怒っているからなのだと思う。
私はずっと怒っている。先日私に向けられた加害についても、世界に存在する大小様々な無理解や無知や形だけのポーズについても、怒っている。
舐められている*2、と感じる。私は権力のない若い女であるがゆえに舐められているし、私が舐められていなければ、私が今のような痛みや怒りを感じることはなかった、と思う。
それが嘘であるということは、もちろん分かっている。初対面で私を舐めてかかっている人間から加害されることより、親密な人間から加害されることの方がずっと多い。親密さと、舐める-舐められるという緊張関係は両立しない。加害は「この人から舐められてはいけない」という不安を私が忘れたとき、すなわちガードを下ろした状態のときに降りかかってくる。だから初対面で舐められない状態であることは、私の安全を約束しない。また、社会の不正義は、当然であるが、私が舐められない状態であろうがなかろうが発生し、私の前に立ち現れる。
それでも私は、「舐められてはいけない」という強迫に晒されている。舐められないことが痛みと怒りから免れることを保証しないということを理解しつつ私は、その強迫ゆえに、装いを調整する。
「『こいつに絡むとやばい』という雰囲気を出すことが一番の自衛である」という言説をときどき目にする。私たち*3が「自衛」を強いられていることに吐き気を覚えつつ、私はそれを信じさせられている。
だから私は「やばい」自分を演出することに執着する。ピアスをたくさん開けること、髪をハイトーンに染めること、オールブラックの服を着ること、アイシャドウとアイラインをはっきり乗せること。これらは私が好きでやっていることだけれど、最近はこのような装いの選択と「舐められたくない/舐められてはいけない」という強迫との境界が曖昧になってきた。
私は10年以上ずっと怒っている。世界がままならないこと、私たちが抑圧されていることについて、それを思い知らされることについて――例えば井の頭線渋谷駅の改札前では当たり前のように女性に対して二重形成手術や脂肪吸引を勧める広告が延々と流されていて、渋谷の街にはもう顔といつもいる場所が一致するくらい路上生活者の方がいて、家にひとりでいるときもLINEの広告で同性愛や独身状態を否定するような結婚相談所の広告が表示されて「非表示」をいくら選んでも消えないことについて――すなわち生きているだけで人間への抑圧が突きつけられることについて、毎日消耗し傷ついている。いくら怒っても世界がままならないとき、先述のような言説が目に入る。「舐められなければ自衛できる」は、「自衛できていないのは舐められている私が悪い」へと容易に転じる。
つまり私が感じている強迫は、自罰なのだ。世界が変わらないという諦め。それが奇妙に姿を変えたものが、「舐められなければ自衛できる」という盲信であり、さらに「完璧に装いを調整すれば舐められることはなく、傷つくこともない」という強迫だ。これが「傷つくのは舐められている私が悪い」へと先鋭化することも、それが自罰的な感情として私を苛むことも、私だけに生じている葛藤ではないと思う。
ここで「自衛」という語の魔力について述べたい。自衛。思想と世界のあり方が必ずしも一致していない人が、ままならない世界に直面し傷つくのを防ぐことを指す語。この語を強く貫くのは「世界は変わらない」という諦念である*4が、ほかにふたつの信念を内包している。
ひとつは、そもそも「自衛は可能である」という信念だ。これは偽である。先述のように私たちは常に商業的な抑圧に晒されているし、あらゆる人間関係において加害は発生する。それでも私たちは「傷つくのは自衛が足りないからで、完璧な自衛は存在する」という強迫に駆られる。
傷つくことにほとほと疲れた私たちは、これ以上怒りを感じなくて済む世界を望む。この渇望が、「自衛は可能である」というファンタジーの存在を可能にしている。「自衛は可能である」というファンタジーは、私たちが生み出し、強化し続ける絶望的な祈りなのだ。
もうひとつ、「自衛」概念と強く接続しているのは、自己責任論である。これはオタク的な文脈の話だが(厳密には、私はBLを愛好するので、BL愛好家界隈の文脈である)、特定のカップリングや筋書きを好まないオタクAが「自衛します」と言うとき、それはオタクAがミュートをしたりキャプションに注意を払ったりして、オタクAが忌避するコンテンツに触れないようにすることを意味するが、そこには「注意不足で好まないコンテンツに接してしまうのは自己責任」という論調が色濃く反映されている。また、オタクBが創作物にキャプションを付け、「自衛お願いします」と添えるとき、閲覧者がキャプションに同意の上でオタクBの作品を閲覧し、それで不快な思いをしても、それは閲覧者の責任であることを意味する。
つまり、こういった「自衛」という語の孕むニュアンスからも「舐められているのは=自衛できていないのは自己責任」という強迫が導けるのだ。これは決して広く妥当する語法ではないかもしれず、たまたま私がオタクでありかつ世界に対して「自衛」しようとしているために発生している感覚なのかもしれないが、私はこのようにして「自衛」というファンタジーを信じ込まされている。
話を戻そう。私は舐められたくないからネオングリーンのポリッシュを塗った。それが「舐められない装い」であると思うからだ。ポリッシュはだいぶ水っぽいので、一度塗りではムラができてしまい二度塗りをしたのだけれど、親指から始めて中指あたりまで塗ったところで、なんか違うかも、という感じがした。
確かに二度塗りをするとムラはだいぶ見えなくなって、素朴に「強そう」だと感じた。しかし、こうではない、と思った。
強い色のポリッシュというものは基本的に塗り重ねてしっかり発色させるものだし、ハケの筋が残っている状態が美しいとされることはあまりないだろう。「正しいファッション」のコードに則るならば、二度塗りが推奨されるべきだ。それでも、一度塗りの方が抜け感があってよかった、と思ったのだ。
「抜け感」はファッション用語であるが、その曖昧さが揶揄されることも多い。私は「頑張りすぎない」や「力を抜く」、「隙を作る」などと言い換えが可能だと解釈している。全身を同じコードで固めるのではなく、どこかに文脈を外したアイテムを入れることで「余裕」のようなものを演出するのではないだろうか。
私の感覚が「抜け感」を求めていること、それは多少の飛躍を恐れず言えば、救いだと思う。私の今の装いは「舐められない」というコードで統一されている。隙のないことが至上である。それでも私が「抜け感」を必要としていること、「強そう」に見えない選択をする余地が私の心にあること、それは自分を守るためではなく、自分の喜びに従って自分の身を飾るという営みに少しずつ戻っていくという兆しではないだろうか。
自衛の不可能性を思うと、慄いてしまう。それでも、私と、ここまで読んでくれたあなたは、「自衛は不可能である」という気付きの上に立っている。私たちはここを十分に踏みしめなければならない。ここからすぐに歩き出すことができる人ばかりではないけれど(私も歩き出せずにいる)、「自衛」という語の魔力は、もはや私たちを捉えてはいない。
私がネオングリーンを選んだのには色々な側面があって、それはもちろん強そうだからとか、舐められなさそうだからとかいう理由もあるけれど、春だから鮮やかな色がいいという理由もある。そういう感覚を、しっかり拾い上げたい。いきなり全ての「自衛」をやめて、全てのガードを下ろすのはとても怖い。それでも、「春だから」のような、強迫的でない思考も持つことができていることに気付きたい。私たちは強迫だけに縛られて生きているのではない。それに気付くこと。それが現実的に私が語れる、私たちへの「処方」であるように思う。
*1 「マニキュア」と呼ぶか「ポリッシュ」と呼ぶかで年代が分かる、というエイジズムにまみれた言説が最近Twitterで流行ったらしいが、ここではマニキュア液のことを「ポリッシュ」と呼称する。これは単に私の言語感覚であるが、「マニキュア」はネイルという営みの中でペディキュアと対立する概念語であると思うので、個々の液のことは「ポリッシュ」または「ポリ」と呼びたい。
*2 「みくびる」意で「舐める」または「嘗める」を用いるのは誤りであるような気がするが(「無礼る」が正しいという指摘を以前いただいた)、一般的な用法としては認められるほど使用されていると考え、「舐める」を採用する。
*3 たまたま私が目にしたこの類の言説が「闘うこと、フェミニストであることの徒労感」のようなものと接続されて共有されていたためここでの「私たち」は女性の集団をイメージしているものの、この「私たち」は「闘うこと、抗議し続けることに徒労感を感じているマイノリティの集団」へと拡張可能であると思う。
*4 「自衛」の実践者が、世界を変革することを放棄しているという意味ではない。ただ、「自衛」をするその瞬間に、その実践者に現前しているのは、猛威としての世界である