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ヘラヘラ生きている聴者のみなさん?手話とか。
silent
ドラマ、silentが話題なのだとか。
Twitterでろうの方を多くフォローしているのでsilentの感想がたくさんツイートされていて、ついついドラマに興味のないわたしも見逃し配信でみた。
淡い青春話にはあまり親近感をもてない中年アラフォーになってしまったので、そのあたりの色恋には胸がそれほど踊らないが、手話がでてくると興味が惹かれる。
ドラマのなかで、たまたま居酒屋であった手話教室の講師の手話を垣間見て、「人が良さそうですもんね」とほめる場面がある。
それに対しての手話講師の台詞。
「そういう刷り込みがありんですよ。偏見っていうか。手話。耳が聞こえない。障がい者。それに携わる仕事。奉仕の心。優しい。思いやりがある。絶対いい人なんだろうなって勝手に思い込むんですよ。ヘラヘラ生きている聴者の皆さんは」
ヘラヘラ生きている聴者のみなさん
この言葉に対して、Twitter界隈のろうコミュニティでは私の観測範囲では、大絶賛だったのだ。よくぞ言ってくれた!みたいな。
それに対して、手話を学んでいた一部の聴者がそんな風に思っていたんだ・・・と傷つくツイートがあったり、この言葉は一波乱も二波乱も沸き起こるパワーワード。
聴者
=ヘラヘラ生きている
ではないことに注意。
手話=奉仕の心=良い人そうという思い込み
=ヘラヘラ生きている聴者のみなさん
ということ。
わたしは仕事関係でろう者の方と会うことがある。
視覚障害のある方とも身体障害のある方とも発達障害のある方とも精神障害のある方ともあう。
その中で感じることはろう者のアイデンティティの強さというか誇りというか、権利をしっかり主張するパワーが他の方々とは異質なものだということ。
ともすれば、自分たちを「障害」でくくるなという気概を感じる。
これは他の障害をもつ方とは一線を画する主義主張であり、ろう者の団結力は強い。団結力とは群れるともちがう。自分たちの存在意義を確立しあうために結束するつながり、絆というか。
ろう者の方々は、手話を学んでいる聴者にはかぎりなくやさしい。これは確か。
でも手話通訳士(者)や通訳士(者)を目指そうと思う聴者には良くも悪くも厳しい。
健常者という言葉があるように健聴者という言葉がある。
そもそも健聴者なんて単語は、耳が聴こえる人にとっては意識しない単語であると思うが、聴覚障害者の対比に健聴者という言葉が存在するのだ。
ちなみに、視覚障害者の対比に晴眼者って言葉がある。
健聴も晴眼もよくよく考えると、なんて傲慢な響きなのか。
健聴ではないということは健やかな聞こえがないのか。
晴眼ではないということは曇った眼なのか。
前置きのつもりがつらつらと長くなってしまったが、そんな私は、手話を学んで3年になる。
手話を学ぶ
昨日、手話の検定である全国手話検定の2級を受験した。
2級に受かったからといって手話がうまくなるわけではない。でも目標としてかかげるには検定などはよいきっかけになると思う。
手話学習歴3年といっても週1回の手話講習会をなんとなく続けている惰性があって勉強に身がはいらずにいたところ、今回の検定を機会に手話についてしっかりと勉強したといえる良い学びになった。
といっても、何度もいうが手話の単語を覚えたからといって、ろう者と手話でコミュニケーションが円滑に図れるというわけではない。
手話は深いのだ。
手話は言語なのだ。言葉なのだ。
単語を覚えたからといって理解が深まるわけではない。
手話を勉強するには、その背景にあるろう者の文化、いわゆるろう文化を学び、理解する必要があることに気づく。
その学びは深く、どこまでも続く。
手話を学ぶというのは、たぶん、そういうこと。
ただ思うのは、手話は言語としてとても面白いし魅力ある表現であるということ。