傍観者だから、分かったこと
台風の目としての記憶
ずっと昔から、会話の主役になることが多かった。
人気者というわけではなく、反面教師にさせられている人、という意味だ。
なぜか目立ってしまって、わたしだけ怒られる。
わたしの心の中に「みんなは良いよな。するっと学習してさ、私だけ痛い思いをして学んでさ、ズルいよ。わたしだけ注意されて。悪目立ちしてバカみたい」
そう思っていた。
でも、いつからかそれに馴れていた。
友人に対して「何が一番人生で嫌だった?」と聞いたことがある。
「校内暴力だって教師に呼ばれて、それが学校のチャイムで言われた。
呼び出しなんてされたことなかったのに。あの子のせいだ。
お兄ちゃんのクラスメイトにも聞かれた。恥ずかしい」
え、そんなことが人生で嫌なことなの?
こんなこと言ったら申し訳ないのだけど、楽な人生だったんだな、と内心思った。
わたしは自分の過去を思い返す。
本当に恥ずかしくて、劣等感に苛まれた記憶ばかりだ。
わたしが悪かったところも多々あるが、「こんなキツイ思いをしている人はこのクラスでわたしだけだろう」と何度も思った。
周りの何も考えていなさそうな人を見て「なんでこんな平然とした顔をしていられるのだろう」と思った。
EASYモードのゲームをプレイしている人に対して、わたしはHARDモードをプレイしているような感覚である。
これ身に覚えがありすぎて泣いた。
でも、正直こういう気持ちになったことのある人も多いのではないだろうか。
閑話休題。
「人を好きになるのに時間がかかるので、すぐ恋愛対象には見れません」と、デートの時には断るようにしている。
すると、ミスタードーナツ兄貴は「なにかトラウマとかがあるのかも…」とオドオド言った。
ミスタードーナツ兄貴のことはこの記事から見れます↓
https://note.com/suzukab124/n/n434c2e802fa5
確かにその通りかもしれない。
人との間にドアを幾つか用意しておいて、何か一つでも失言したら「やっぱりね。絶対そうだと思った」とドアから締め出す。
そりゃあ中々恋人ができないわけである。
傍観者になって思うこと
で、だ。
最近、傍観者立場で物事を考えることが増えてきた。
で、傍目から見ると「うわ、ヤバ。反面教師にしよう」と思うことも多くなっていった。
人のふり見て我がふり直せである。
挙動不審だったり、コミュニケーションで「それやったらダメでしょ」ということを平気で言ったり。失礼なことを言っても謝らないとか。
こういうことを見ても、本人に「それやったらダメなんだよ」とは中々言えないものである。
結構怖い。
言ったら激昂されそうだし、自分の意図が誤解されることが多々あるからだ。
友人は「うっすら匂わせて、それでも気づかなさそうならほっとく」とバッサリ言った。
必死な時って、大体頭の中で理論が煮詰まっている。
だからそんな必死な人に「それって失礼だし、大前提でヤバいことしてるの分かる?」とは中々言えないのだ。
なので、人は往々として傍観者となる。
そして、ヤバい面は誰にも指摘されることはない。
ずっと、ヤバい面は背後霊のようについて回る。
わたしがしつこく、「悪いことがあったら内反する」というのは、
本当にヤバいこと、ダメなことを人は指摘してくれないからだ。
本当に、誰も言ってくれない。
自分で気づくしかない。
我らが田中みな実も「後輩が失礼なことしてきたら?わたしならほっときます。冷たいかもしれませんが、自分で気づくのが一番良いと思う」と語っていた。マキアで。
新卒時代の思い出
わたしは新卒の時の先輩と思い出す。
その人はわたしに沢山のことを気づかせてくれた、と本当に思うのだ。
わたしも注意点を指摘されて苦しかったし悲しかったけど、その人は「わたしもこんなこと言いたくないの」と何度も言っていた。
そりゃあ嫌なことを指摘するのなんて嫌だよな。
でも会社員としてダメなことをしているから、上司の責任を果たそうとしてくれていたのだろう。
わたしが例の挫折体験(↓)を味わった時に「ああ、あの時の上司はすごくわたしのことを考えてくれていたな」と気づく。
教え方すごく上手かったな。
わたしが指示を間違えて別のやり方でパッキンに服を詰めていた時、「いや~こうしたか!!!そうか、もっと丁寧に指示するべきやったんや!」と笑い話にしてくれたことが忘れられない。
全然コミュニケーションが取れなかった上司は指示が漠然と「確認しといて」だけで終わらせて、聞き返したらキレられるとかも全然あった。
その経験をして初めて「ああ、あの上司はすごく育てようとしてくれていたんだな」と気づく。
もっとひどいことが起こってから優しさとかありがたみに気づくなんて、なんて皮肉なんだろう。
なんで自分の欠点を認めて改善しようとするときに、こんなに痛みが伴うんだろう。なんかのバグとしか思えない。
でも、わたしは嫌だ。
うっすら皆から「あの人ヤバいよね」と思われているのは嫌だ。
面白い変人なら良いけど、「ヤバいヤツ」は嫌だ。
コミュニケーションをしっかりとって、キチンと関係構築をしていきたいのだ。
だからこそ、変わろうと思う。
何か言われて、その指摘が尤もだったら、自分の言動を改善しようと思う。
キャリアコンサルタントの資格取得に向けて
そういえば、キャリアコンサルタントの資格を取ろうと決めた。
その際、営業の実績を褒められ、関係構築能力を強みにしたらいいと言われた。
わたしも正直自信があった。
「でも、わたしはその上司と折り合いがどうしても合わなくて。そんな経験初めてだったんです。今では勿論厳しい人は沢山いましたけど、なんとか上手くやれてたんです。だから、その人と関係構築が出来なかったのに、それを強みと言って良いのか分からないんです」と言ってみた。
本当にしつこく悩んでいるものである。
そんなに悩んでもらったら上司もむしろ幸せである。
そのキャリアコンサルタントのおじいさんは柔和な笑顔で言った。
「鈴鹿さん、なんでこんなことが起こったんだと思いますか?」
「そ、それは…やっぱり…わたしが中々仕事覚えなくて、上司がイライラしていたから、なんじゃないでしょうか…」
とおずおず言ってみた。
「人にはね、人を傷つけたい、殺したいと思う心があります。仏心もあるけどね…誰でもその二面性を持ってるんですよ。」
わたし、説法聞きに来てる?
「だから、鈴鹿さんが幾ら向き合おうと思っても、無駄なんですよ。そういう人だから。傷つけようとしてるから。逆に関係性構築しなくてよかったんですよ。そういう時戦うんではなく、鈴鹿さんは避けるべきだったんです」
仏のような顔をして語る。
「だってそうでしょう?電車でギャーギャー騒いでる人がいて、どうします?立ち向かいますか?電車を降りるべきなんですよ。向き合うべきじゃないんです。」
わたしは言葉を挟むことが出来なかった。
「人にはどうしても避けないといけない人がいます。向き合っても傷つくだけです。鈴鹿さんはそういう人もいるんだと気づけましたね?若いうちに気づけて、それで良かったじゃないですか」
正直そんなことを言われると思っていなくて、目をぱちくりさせた。
説教されると思っていたのである。
「で、でも…わたしも悪いことをしたんじゃないかって思って…」
「いやァ、それは良い傾向ですよ。何かあった時に反省出来る人こそ、キャリアコンサルタントに向いてるんです。情報の棚卸が必須だから。その考え方は向いている人だと思います」
そうにこにこしながら語ってくれた。
なんだか、キツネに包まれた気持ちである。
「辛い経験があった時、皆さんは自分を振り返ります。日本語では転機になる、なんて申しますね」
わたしは頷く。
「昔の日本語で縁起、と言いました。縁によって引き起こされるものという意味です。これも縁ですね。フフ…キャリアコンサルタント、良いと思いますよ。何かの縁になることでしょう。頑張ってくださいね」
そして、にこやかに手を振った。
この話を聞いて、わたしは思った。
やはりキャリアコンサルタント、頑張って受けてみよう、と。
今のわたしに足りないところを学べる気がするのだ。
わたしはトラブルが起きた時はなぜこんなことが起きたか分析するタイプである。(よくドン引きされる)
でも、どうしようもないこともある。
ヤバい人は、うっすら傍観者として避けるべきなのかもしれない。
そういう時もあるのかもしれない。
わたしはいつも全力でなんとか受け止めようとして、どっと疲れてしまう。
だから、受け流す力というものを身に付けたいのだ。
一点集中で物事を見るのではなく、視野を広く持って物事を見ていきたい。
受け取るのではなく、なんとな~く会話を流す。頭を使って会話をしない、ありきたりなことで良い。これが仕事においては大事なのだろうと思う。